宿運は逃れられないものなのか
――運命というものを信じるか。
婚約者に会うまでのレアンドラならば、
「信じませんわ。貴族としての定め……政略結婚や、貴族としての責任といったものなら理解しておりますけれども」
……と断言するだろう。
しかし。
婚約者に出会い、恋に落ちたレアンドラならば、
「信じるしかありませんわ!」
……と断言することだろう。
クピドが仕掛けた恋の罠に嵌まり、吟遊詩人が好んで謳う“運命の恋”を感じたのだろうから。
恋を知る前は、恋など馬鹿馬鹿しい極みだと鼻で笑っていたレアンドラ。
恋を知ってからは、恋にのめり込み、まるで泥々の沼にズブズブとはまるように、我を見失って“らしさ”を喪失していったレアンドラ。
恋に落ち、恋情という感情を経験するということは、生まれて後培った価値観でさえ根底から覆すこともある。
恋は、ひとを変えるのだ。
けれども、変わらないひとも確かにいる。
「レアンディ」
同じように恋に落ちたけれども、彼の場合は狂うことはなかった。
たとえ、恋慕う相手の視線が、自分と同じ気持ちをもって向けられることはなくても。
たとえ、恋慕う相手の伴侶が既に決められていて、気持ちさえ伝えられなくとも。
たとえ……恋慕う相手が苦しんで、道を誤ってしまっても。支えになって道を正したいと思ってしまう。
恋を知ったからといっても、全てのひとが狂うものではなく。
……彼の場合は、自身が抱く気持ちが報われることがなくとも、恋慕う相手が笑顔で穏やかに過ごせれば、ただそれでよかったのだ。
その点では、相手と気持ちを通じ合わせたかったレアンドラとは、まるで正反対だった。
レアンドラはただ、恋慕う相手と両想いになり、伴侶として横に立つのは自分であってほしかったのだ。自分ではない他の誰かが、恋慕う相手と気持ちを通じ会わせ、隣に立つことが許せなかった。
またレアンドラの場合は、“あの女”さえ現れなければ、叶えられたかもしれない想いだったからこそ、なおさら許せなかった。
「……君が、レアンディが幸せだったら、ただそれだけで俺も幸せだったんだよ、俺は」
恋慕う相手が――レアンドラさえ平穏に暮らすことができてさえいれば、彼はレアンドラの横に誰がたっていても良かった。どこまでも、彼の想いはレアンドラの抱く想いとは真逆だったのだ。
それでも、レアンドラの婚約者はレアンドラを不幸にするだけだった。
彼は、支えて道を正し――友を想う姉と、師と、彼女の弟たちとともに、レアンドラを止めることを選んだ。彼女が幸せになれる道を示そうとした。余計な事かもしれなかったけれど、レアンドラの婚約者にも度々忠告を行った。
それらは全てレアンドラのため、レアンドラを想うがゆえのこそ。
誰も――みんな、レアンドラと婚約者の悲劇を見たくなかった。
あの女とさえ出会わなければ、黒幕の手にさえかからなければ、あのふたりは結ばれ、夫婦の誓いを立てて、穏やかに幸せに暮らしたはずなのに。
なの、に。
「なのに、どうしてこうなったんだ……」
明らかにレアンドラを陥れようとした輩にも、皆で対策もたて、できうる限りの行動をもって、限界まで戦った。文字通り、身を挺して。
それでも、悲しい結果は避けらることは叶わなかった。
――現実は、訪れた結末は、想定していた以上の悪夢と成り果ててしまった。
いま、彼は恋慕ったレアンドラの亡骸を掻き抱くしかできない。
レアンドラは、もういない。彼が盲目なまでに想いを捧げ、行動してきた全ての源である彼女はいない。
「レアンディ……、くそっ……!」
彼は、確かに狂わなかった。
ただし――恋慕う相手が、破滅しその若い命を散らすまでは。
恋は、やはりひとを変えるのだ。
それとも、元から持っていたものが、想いが強さゆえに昇華されたのか。
想いを向ける相手を永久に喪った彼は、喪う前とは持ち得なかっただろう目的を掲げ、邁進していくこととなる。
向かう先を喪った強い感情を、ただ糧にして。
☆☆☆☆☆
薫子達の作戦は、“結果を見れば”成功した。
懸念していた、観察対象であるクララ・ジスレーヌに気付かれてはいないようだった。
――表向きには成功したのだ、けれど。
「……つけられている。後ろに、いるわ」
頂上の公園で那由多と別れた後、薫子たちは行きとは別の道を歩いて帰路についていた。丘の頂きに登り至る道筋は、何本もわかれていた――主に緩やかな道と、急な道と、階段に。
ふたりは、いまはゆっくりと階段をおりている。階段の道が、行きの緩やかな坂道よりは傾斜が優しかったのだ――主に祢々子の足に。
「何にって、」
祢々子は振り向きかけたけれど、すぐにやめた。尾行者がいるのなら、不自然な動作はあまり宜しくないと気付いたのだ。振り向くなど、相手に対し「気付いていますよ」とアピールするようなもの。
「そりゃあ、わからないわよ」
薫子は淡々と応じた。
その様子からは、尾行に気付く前とどこも変わったところは見受けられなかった。
そんな薫子に対し、
「やっぱりレアンドラよね。本当に変わらない」
祢々子は呆れたように小さくぼやいた。
あちらの世界でのレアンドラは、幾多もの実戦経験をもつ強者だった。それ故に規格外といわれ、視線や視線に込められた感情を敏感に察知し、視線を送ってきたものに逆に送り返して返り討ちにしてさえいた――相応の視線を持って。
嶌川薫子となってからも、その感覚は健在であったようで、祢々子はそのことに感心したのだった。根本的なところは何も変わらないのだと。
「精度は多少落ちたようだけどね。クララの視線には気付けなかった」
変わらないけれど、性能は落ちたと薫子は少しショックだった。それは仕方のないことといえるかもしれない。薫子として生きて十七年を過ごす日本は、魔物や獰猛な獣もいない。そして薫子は、命さえ狙われる貴族の身分にもいない。
「一般人に近くなってしまったのかしらね」
日本はあの世界と比べたらなんとも平和で、ぬるま湯のような甘く緩い世界なのだから、薫子の感性も精度が鈍ったのだろう。
祢々子の呟きに、薫子は軽く息を吐きながら、
「――多少、ねぇ」
と返すのだった。
多少と落ちた性能とはいえ、尾行に気付くのははたして一般人といえるのか。
「クララでさえ、気付いていなかったのよ、さっき。私たちの視線に」
――平和に毒され、牙が丸くなったのは薫子だけではない。
そうだとすれば、薫子がクララの視線に気付けなかったことも、その逆である先ほどのことも説明がつく。……でなければ、クララの殺気に、レアンドラたる薫子が真っ先に気付かないなんてないのだから。
「でも」
薫子は、少し間を置いて言葉を繋げた。
「この尾行してる輩からは、殺気とか、敵意とかは感じない。ただ、好意、興味……? を感じるのよ」
珍しく、薫子は少し戸惑いを感じていた。
公園から感じる視線。
精度が鈍ったとはいえ、それは確かに好奇心というのか、好意というのか――負を全く感じない正の感情そのものだった。
それはレアンドラのときも、薫子である今でもあまり感じない“強い”好意。
そして――
「……直感として、覚えがあるのよね、この視線に込められた感情というか、気配というか」
薫子は、自分の直感は馬鹿にはできないと思っているし、そういうものだと理解している。薫子になったことによって、直感は強くなったともいえるかもしれない。
「……まさか、といいたいのだけれど、ね」
薫子は足を止めた。
「……薫子?」
薫子の突然の行動に、祢々子が訝しみ、悲鳴じみた声をあげた。
「薫子!?」
薫子は、振り向いた。振り向いて、降りてきた階段を登り始めたのだ。
薫子の突然の行動に、祢々子は驚愕し固まった。
――薫子の行動は、尾行者に「あなた方に気付いてますけど」といったことを知らせることと同義であり、まさに飛んで火に入る夏の虫。
「……そのまさか、だった」
しばらくして、薫子は視線の主を見つけた。
隠れることもせず、彼は普通にそこに佇んでいた。
「ハーク……あんた、なの」
――薫子は、見てわかった。直感でわかった。
やはり、前世の関係者の生まれ変わりは、見てそれとわかってしまうらしい……お互いに。
「レアンディ」
視線の主は、イーリスの弟・ハーキュリーズ――ハークそのひとだった。




