これはクピドの罠というものなのか
『――恋とは、落ちるもの。それはクピドの罠、クピドが掘った落とし穴、ある日ある時気付けばはまった恋の罠、気付けば落ちてた恋の穴』
それは、街から街へと渡り鳥のように渡り歩く吟遊詩人が奏でる恋の唄。
レアンドラはその唄を聞いたとき、思わず鼻で笑った。もちろん表になど出さずに、心の中でこっそりと。
レアンドラは恋をとても馬鹿馬鹿しく思っていた。
他の貴族の令嬢方は、騎士たちの凱旋を見てはよく黄色い歓声をあげていたものだが、レアンドラはいつもその様子を冷めた目で見ていた。
だから、吟遊詩人の恋の唄に、貴族の令嬢たちが夢見るように蕩ける笑みを浮かべたり、旅の一座の演じる恋愛劇に熱い眼差しを向けたりするのを見ては、冷笑していた。
恋は貴族には不要なものだと、レアンドラはそう思っている。
婚姻の約束を交わした相手や、嫁いだ相手に愛を覚えるのはまだいい。
異性間の特別な感情など、結ばれたあとに抱くものだとレアンドラは疑わなかった。それは、見事に「恋は馬鹿馬鹿しい」というアウデンリートの教育の成果の賜物だった。
貴族の令嬢としては一般的ではないと揶揄されるレアンドラは、その点は貴族に生まれた令嬢として花丸であった。
けれども、アウデンリートのその教育は見事に散ることとなり、吟遊詩人の唄は馬鹿にできないことを、レアンドラはその身をもって思い知る。
「はじめまして、アウデンリート公爵令嬢」
そういって、初対面の彼は春のひだまりのように優しく微笑み、レアンドラに手を差しのべた。
陽射しに照らされた蜂蜜色の髪は、きらきらと光を纏い、さながら琥珀のように見えた。
レアンドラは眩しく感じ、思わず目を伏せた。何て、何て眩しい人なんだと。それでも、レアンドラは逸らさないように前を向いて、顔をあげた。
彼が、はにかんだ。
細められた瞳は、陽にかざしたアメジストのように繊細な透明さがあり、彫像のように固まったレアンドラを映し出していた。
彼の瞳に自分が映し出されているのを見て、レアンドラの脳裏に一瞬にして閃くものがあった。
(――ああ、ああ。何ということでしょう。あたくしは囚われてしまったのですか)
レアンドラは、彼に囚われた。
レアンドラは、彼を一目見たとたん、高鳴る胸、熱く火照っていく顔を知覚した。
世界に流れる時間が、レアンドラには、ひどくゆったりとしたものに感じた瞬間だった。
レアンドラは、恋に落ちた。クピドの仕掛けた罠に、はまったのだ。
☆☆☆☆☆
薫子は、舌打ちをしたくてたまらない衝動と戦っていた。
薫子の生前、レアンドラが生きた世界にはひとつの有名な言葉があった。
『――恋とは、落ちるもの。それはクピドの罠、クピドが掘った落とし穴、ある日ある時気付けばはまった恋の罠、気付けば落ちてた恋の穴』
吟遊詩人が奏でる恋の唄の一節だ。クピドは恋と愛の女神の愛弟子で、悪戯で人と人との間に罠を仕掛けたり、穴を掘ったりする神話の存在だ。クピドは、現代の西洋に伝わるキューピッドと似て非なる。
恋を馬鹿にしていたレアンドラは、皮肉にもクピドの罠にはまった――恋に落ちた。
レアンドラが恋愛を馬鹿にし嘲笑していたのは、育った背景から仕方ないことかもしれない。家の者がいうことを、教育を、生来素直だった幼いレアンドラは額縁通りに受け取り、そのまま育ったのだから。
けれども「貴族だった自分」も恋に落ち、痛い目を見た薫子としては、恋愛は物語の中だけのもので済ますつもりだった。
いつか結婚したとしても、お見合いでもして、結婚後に愛を育めばいいと――その辺りはレアンドラだった頃から変わらない――無意識に高を括っていた。
なのに、今。
「……………」
またクピドの罠にはまってしまった自分がいると、薫子は自覚した。
「もしもーし? どこか、頭でも……いや、打ってませんよね? 打ってませんでしたよ、ね……?」
今、薫子の前で大きな手を振りながら、泣きそうな表情でそわそわしている彼。その彼に、薫子は恋に落ちた。
日に焼けた肌も、顔立ちも、服装も、現代の日本人のもの。なのに、レアンドラとして得た“異世界人の記憶”が、生まれ変わりを体験した魂が、直感で薫子に伝えてくる。
この青年は、あの人だと。
戸惑いを隠せない明るい茶色の瞳に、自身が映し出されているのを、薫子は見た。
――再び、囚われた。
薫子は叫びだしたかった。
何で、何で何で。何で、また。何で、再び彼に会う? 何で、また恋に――彼に囚われる?
生まれ変わりを身をもって体験した薫子は、その生まれ変わりを実行させた神様がいるならば、その神様にもの申したくてたまらなくなった。
何で、彼まで生まれ変わっていて、しかも再会まで果たし、最悪なことにまた恋に囚われた。
薫子は、自分の運命に舌打ちをしたくてたまらない。
「えっと、救急車、警察、えっと、どっちが先――」
薫子を後方から抱き寄せたさいに尻餅をつき、いまだ薫子を抱えたままの彼は、見事に混乱の極みにあった。
そんな彼を見て、薫子の中のレアンドラの記憶が刺激され、色々ふつふつと仕舞いこんでいた記憶が、泡のように浮き上がってきた――次から、次へと。
彼は、優しいひとだった。
彼は、大のつくお人好しだった。
彼は、レアンドラを選ばなかったのに、最期までレアンドラの受ける罰を軽くしようと、ひとりで手を尽くした。
彼は、どこまでも素直で純粋だった。まぶしい太陽のように、直視できない光を放っていた。
彼は、彼は――
洪水のように記憶は溢れ、水底へ封じ込めていた彼への気持ちが息を吹き返し、薫子の中に再び浮上した。
そして、薫子は懸念した。
また、恋に振り回されてしまうというのか。また、あのような最期を迎えろとでも。翻弄され、裏切られ、陥れられ、はめられ、失い、ひとり淋しく――また、あの最期を?
レアンドラとしての最期を、薫子は隅々まで覚えている。
いつの間にか大層な罪を着せられ、陽の差さない窓のない地下の牢獄で、汚れた藁に身をくるんで、幻を見ながら死んでいくあの時を。
恋に落ちたときと同じように、彼が手を差し伸べてくれている幻。
――眩しいと目を伏せながらも、火照る顔を逸らさないように、きちんと前を向いて、その手をとろうとして、レアンドラは尽きた。
レアンドラは幻を見て、なおすがるまでに、心身ともに衰弱していた。
薫子は――レアンドラは、もうこりごりだった。もう二度と、恋に身を滅ぼしたくはない。
「大丈夫です、お気遣いなく」
だから、薫子は淡々と立ち上がった。淡白に、突き放すように、氷のように。
――この彼が、薫子との繋がりを持ってしまわないように。
薫子は、レアンドラは最初から縁を断つことを選んだ。
前世から繋がっている悪縁を。
「大丈夫? 本当に、大丈夫? 痛いところはないの?」
――なのに。
立ち上がった薫子にあわせ、彼も立ち上がり、薫子の制服についた土埃を優しく払った。
「車に当たる前も、ぼうっとしていたでしょう? どこか、熱はないの? ほら、赤いよ? やっぱり、救急――」
薫子と向き合い、彼はその大きな手を薫子の額に当てた。火照った顔に、ひんやりとした感触が気持ち良く、薫子は泣きたくなった。
何で、彼は優しい。やはり、彼は優しい。
彼は、変わっていない。あの彼ではないのに、根本的なところで変わっていない。
薫子は、レアンドラは泣きたくなった。
もう、優しくしないでと。
この彼はあの彼ではないからこそ、優しくしないでとほしかった。関わらないでほしかった。
この彼はあの彼ではないからこそ、別人ではないからこそ、薫子は、レアンドラは関わってはいけない。
薫子は、レアンドラは、変わらない彼の幸せを汚す存在にはなりたくないのだから。
「本当に、大丈夫ですから」
薫子は軽くお辞儀をし、背を向けた。今度こそ、背を向けて走り出した。
後ろで「どこか痛くなったら病院へ行くんだよ〜」という声が聞こえたけれど、薫子は振り向かなかった。