幕間〜毒念・怨念は世界を越え
毒念……悪い考え、またはよこしまな考えのこと。邪念のこと。
汐見姉弟がクララ・ジスレーヌと初めて会ったのは、汐見姉弟の住む辺りでは曰く付きの場所だった。
――いわく。戦地より敗走した落武者が、対戦相手を呪いながらこの池にて入水して果てた。
――いわく。愛人に夫を奪われた正妻が、復讐に裏切った夫と憎々しい愛人を心中に見せかけて命を奪い、自身も後を追ったとか。
――いわく。世を儚んだ老神官が、池にて封じられた古の邪神に生け贄を毎晩捧げ続け、負のエネルギーの溜まった不浄の地なのだとか。
……等々、おどろおどろしいネタに事欠かない、地元でも有数の肝試しスポットの池の端にて、クララ・ジスレーヌはうつ伏せで倒れていた。
この池が実は水田用の溜め池であり、かつ昭和の中頃に整地されたのだと知る汐見姉弟は、毎朝ここ付近を愛犬の散歩コースとしていた。
その日の朝、中型犬の雑種のタロキチが池に近づくにつれ、激しく鳴き始めた時点で、汐見姉弟はここを通らなければよかったのかもしれない。
しかし、汐見姉弟はここを通ってしまい、そして見てしまった。
『憎い、あの女が……』
下半身を池に浸けたまま、赤々とした豊かな髪を振り乱し、殺気を孕んだ瞳をぎらつかせ、クララ・ジスレーヌは狂気の笑みを浮かべて――
「ひっ……」
まず、那由多と目があった。
那由多は八キロもあるタロキチを抱き締め、数歩後ずさった。後ろにいた景虎にぶつかり、腰を抜かしかけていた景虎は、その拍子に尻餅をつき、動けなくなった……もちろん、恐怖から。
那由多に抱き締められたタロキチは一生懸命、クララ・ジスレーヌに向かって吠えまくった。
ホラーだった。ものすごくホラーだった。
全身びしょ濡れで、下半身がうっすら透けて向こう側が見える、時代錯誤な中世ヨーロッパのようなドレスの出で立ちの女。
その女が、ずりっずりっとドレスを引き摺る音を立てて、那由多との距離をつめる。
「近づかないで!」
――実は、那由多と景虎以外に、その場には他に一人いたのだ。
一番上の姉と、一緒だったのだ。汐見姉弟は、姉二人弟一人の、三人姉弟だった。
体の弱い、療養中の姉と。姉の体力作りと、気分転換も兼ねて、朝の早い時刻から愛犬の散歩をしていたのだ。
もちろん、ボディーガードは愛犬タロキチだ。これでも猟友会に参加し、活躍する猟犬でもある。怖がりの臆病な末弟は、戦力に数えられていなかった。
「……っ、姉さん!?」
姉は、クララ・ジスレーヌと那由多との間に入り込み、
『わたくしの邪魔するでないわ!』
ガシッ、とクララ・ジスレーヌに肩を掴まれた。
――そこからは、あっという間だった。
クララ・ジスレーヌの姿が靄のように薄れ、那由多を庇った姉に重なり、そして吸い込まれたように見えた。
「…………」
しばらく、重い沈黙が辺りを支配した。
那由多と景虎の姉・八重歌は、ゆっくりと手を握っては開き、握っては開きを繰り返していた。
先ほどまで吠えていたタロキチは、静かに静かに唸り、殺気を放っている。
『っ、あははは!!』
突如、八重歌が大きく肩を震わせ、笑いだした。狂ったような哄笑だった。
そして、八重歌は振り向いた。
『この体は、ちょうど良い――』
途端、タロキチの威嚇の吠え声が響き渡った。
振り向いた姉の顔に、那由多と景虎は戦慄した。
……姉の首から上は、クララ・ジスレーヌになっていた。
それが、三ヶ月前の話。
八重歌の姿が、クララ・ジスレーヌに見えるのはかれら二人だけ。
そして、たまに八重歌として登校するクララ・ジスレーヌが――八重歌は、病弱ゆえあまり高校に登校できず、特別に自宅学習が認められていた――、遠目に薫子を発見することとなる。
汐見姉弟の望みは、クララ・ジスレーヌからの姉の解放。そして、姉をあのような目に遭わせているクララ・ジスレーヌを、ざまぁして調伏することだ。
姉の命を盾にとって、姉の体を乗っとるクララ・ジスレーヌと戦うために、ふたりは薫子に全てを説明した――




