これが晴天の霹靂というものか
「ねえ、レアン」
ある晴れた日の昼下がり、木の下で読書をしていたイーリスがレアンドラを見上げた。
「どうしたのかしら、イーリス」
剣の素振りをしていたレアンドラは、汗を拭いながらイーリスの横へ座った。
「恋って、遊び?」
基本無表情のイーリスの真面目な表情に、レアンドラは少し驚きながらもずばっと即答した。
「遊びでしょう」
貴族たちは結婚していてもしていなくても、恋愛事を――火遊びのように――遊びと割り切って行っていた。レアンドラの一族は違うが、他の貴族では「遊びの結果生じた庶子」がたくさんいる。
カルツォーネを含め、諸外国の貴族はだいたいこのような倫理観だった。恋は馬鹿げたこととみなすアウデンリートの考えも、この倫理観の影響が皆無とはいえないだろう。
そして、貴族の令嬢として規格外なレアンドラとイーリスは、全く色恋沙汰のいの字さえ見当たらなかった。
この日、イーリスの口から恋という単語が出るまでは。
「そう、遊びよね」
イーリスはそう呟いてから、すぐに読書に戻った。レアンドラはとくに気にとめずに、素振りを再開した。
――その翌日、レアンドラに弟弟子ができる。ハーキュリーズ・レザンスカ、イーリスの弟である。
イーリスのあの日の質問の意図は、結局レアンドラはわからないまま最期を迎えた。
恋を馬鹿げたこととみなしていたレアンドラが、もしもあの日に質問の意図を確認していたら――、その未来は変わっていたかもしれない。
彼女に恋した少年と、その姉によって。
しかし、「もしも」は起こり得なかったからこそ描ける想像だ。
もしも、あの時こうしていれば。もしも、この時ああしていれば。
悔いは先にはできず、後になってからするもの。
遊びではない恋に身を落としたレアンドラ、遊びではない恋を叶えられなかったレアンドラ。
ただし、叶えられなかった恋はもうひとつ。
レアンドラが知らなかった恋が、もうひとつ。
「レアンディ!!」
暗い牢にて、恋した相手の亡骸を抱いて、もうひとつの叶えられなかった恋は終焉を迎えた。
――もしも、があるならば。
彼は、亡骸を抱きながら望んだ。
「次があるならば、必ず――」
それは、恋を叶えられなかったレアンドラが知らない、別の恋を叶えられなかった話。。
☆☆☆☆☆
薫子の次兄・音次郎は、薫子の兄たちの中で唯一薫子と同じ趣味であった。
長男は家事が趣味。
次男は読書が趣味。
三男は調理が趣味。
長女は読書が趣味。
同じ家で育ったというのに、見事に男三人は趣味が違った。共通点はインドア派という点くらいだろうか。そもそも長男の趣味がおかしい。
そんななかで、音次郎にとって妹が唯一同じ趣味だった。
趣味が同じ、それは一緒に過ごす時間も自ずと多くなるということだ。つまり、他の兄弟よりも長い時間妹をひとりじめできるのだ。
妹ひとりじめ――それを意識したとき、シスコン重症患者がひとり発症したのであった。
実際に幼い頃の薫子は、音次郎の部屋――蔵書の多さに図書室化しかけている――に入り浸っていた。
趣味が同じということが、音次郎の妹への溺愛っぷりを加速、より重症化させることとなった。
「音次郎兄さん、寒いね」
日曜日、薫子は次兄・音次郎とともに駅前広場にて人を待っていた。
――兄妹ふたりが手を繋いで、である。
土日の午前中の駅というたいへん人の集まるなか、成人した兄と思春期の妹が。
一般的な思春期の妹ならば、衆人環視の前で成人した兄と手を繋ぐのを嫌うだろう。
しかし、そこは薫子である。「一般的な」思春期の妹ではないし、厳密には二度目の人生、二度目の思春期だ。
だから、「年頃の妹が兄と手を繋ぐときの」薫子の反応はこうである。
「兄さん、寒い」
スルーである。意に介していないのである。見事なまでのスルースキルである。
ただし、「お兄ちゃんと手を繋ぐなんて!」的なスルーではない。
薫子は「兄とは妹に対して無条件にデレるものであり、目の中へ入れても痛くない存在」だとたいへん誤った「兄妹関係」の認識をしている。
なので、妹大好きすぎる兄たちにドン引きすることなく、穏やかな関係でいられるのだ。穏やかなスルーである。
「何か飲みますか」
音次郎は近くのコンビニエンスストアを指差した。
既に三月に入り、暦上は一応春である。けれどもまだまだ外は寒く、厚手の防寒具も手放させない。
なので、薫子も音次郎もコートにマフラーといった冬装備である。
「うん、飲む」
こうしてふたりがコンビニエンスストアに入り、しばらくして缶コーヒー等の暖かい飲料を持って外へ出てくると――
「さ、さ、寒いです!?」
――薄手の春物コートに身を包んだ待ち人、蔦村が待っていた。
「先輩、相変わらずズレていますね」
嶌川兄妹と蔦村の三人は、電車を何本か乗り継ぎ本日の目的地に向かっていた。
単線の私鉄に乗り換えた三人の他には乗客はいなかった。そんな車内にて、音次郎と蔦村の間は外気温のように冷え冷えとしていた。
隣で繰り広げられる痴話(?)喧嘩に、薫子は止めに入らない。今は、あの時の本屋のような「人目は」無いからだ。今の音次郎と蔦村が、「脅す側と脅される側」にしか見えなくとも。
「何で春物なのですか」
「だって、だって……予報では春物で大丈夫だって……」
「だからといって、実際は寒いでしょうが」
「で、でも、この服、買ったばかりで、き、着たかった、し……」
音次郎の巨体が小柄な蔦村に、覆い被さるように迫る。なかなかの迫力なのであるが、迫られた蔦村はといえば、顔を真っ赤にして音次郎から視線を逸らしたり、見つめたり、あたふたしたりと実に忙しない。
――そして、段々と真っ赤っかレベルがあがっていく。
(……面白い……)
レアンドラとして生きていた頃、薫子はたくさんの恋の鞘当てを見てきた。もちろん貴族の恋の鞘当てであり、貴族というものは恋愛を遊戯、つまりはゲームの一種として見なしていた。恋多きあの女、アーシュ・チュエーカは本心だったのかゲームのつもりだったのかは、今となってはわからないが。
なので、本心からの恋心というものを薫子は見たことがなかった。蔦村が音次郎に対して好意を抱き、妹以外眼中外の音次郎は見事に鈍く、全く気付いていない。あれはわざとではなく、見事なにぶちんというスルーモンスターだ。
ともかく、薫子となってからはたくさんの恋愛を見てきた。
こちらの世界は、レアンドラとして生きていた世界とは違い総じて早熟であり、薫子は小学生の頃には既に目が肥えていたのである。……二次元ではなく、現実の恋愛事に対して。
その経験を踏まえなくとも、蔦村の気持ちはわかりやすいものだが――とにかく、蔦村が音次郎へ向ける気持ち、そしていまも発揮されている音次郎の見事なスルースキルに薫子は内心にやにやが止まらなかった。
結局、薫子のにやにやは目的地につくまで止まることはなかった。
薫子たちは無人駅に降りたあと、しばらく田野の間にのびる道を歩いた。どう見ても、自動車が対向できない農道であった。
田んぼにでは堆肥などがまかれる様子が見られ、またあちこちに鳥が何羽も降り立ち、地面のあちこちをつついている。その様子は何とものどかであった。
歩き続けて半時間が経過した頃、林の中にぽつりと立つ一軒家が見えた。
「あちらです」
ぐきゅるる、という大きな音ともに、蔦村が一軒家を指差した。その顔は、電車内で見られたものとは違う意味で真っ赤だった。
蔦村のそんな様子に、音次郎はからかいかけて――すぐに止めた。
「十二時近いですからね」
薫子も、ぐきゅうという音ともに応じたからだった。
空きっ腹の薫子は、一軒家に近づくにつれてより空腹感が強くなってしまっていた。それは辿り着いた今さらに強い。
蔦村も同じようで、こちらはまだ赤面したままであった。音次郎を直視できないのもそのままである。
随分と長い間真っ赤で疲れたりはしないのだろうか、と思いながらも、薫子はその一軒家から目が離せない。
門部屋のある塀に囲まれた鈍く光る瓦葺きの平屋、門の間から覗く白い漆喰に、庭に面した長い縁側。
どこからか鶏の鳴き声が聞こえるこの建物は、古き農家の一軒家といった風情だった。
ただ、門に飾られたのは表札ではなく、同じくらいのサイズの木製の看板だった。
――“農カフェ・四季郷”
「農……、カフェ?」
この一軒家は、どうやら一般家庭ではなく飲食店のようだ。
「でも、……貸し切り?」
表札サイズの看板の下には、“本日貸し切り”のプレートがぶら下がっていた。
「ああ、私たちですよ」
薫子の呟きに、蔦村が反応した。
「“たち”、ですか、先輩」
蔦村は胸を張り、どや顔で大仰に頷いた。
「ここで、お会いするのです!」
――薫子と音次郎は、今日誰と会うかは知っている。
けれども、次の瞬間ふたりとも表情がぴしっと石化した。
「行方先生姉妹と!」
ふたりがこれから会うのは、姉作家こと行方アリーだけではなく、妹作家こと行方シズルも、らしい。




