それは再会というものなのか
レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートは、アウデンリート公爵の長子であると同時に、たったひとりの娘だった。
下に三人の弟を持つ彼女は、長子であるというだけで、他の同じ「貴族の令嬢」という立場の令嬢とは画一した教育を受け、育てられた。
――貴族の長子は、常に泰然とあれ。
男女関係なく、貴族の長子は常に落ち着き払い、何事にも動じずにいなくてはならない。
それが、アウデンリート公爵家の家訓のようなもののひとつだった。
ゆえに十五となったレアンドラは、凛乎とした雰囲気の淑女として成長した。
一般的な貴族の令嬢・淑女は、凛乎とした空気など纏わない。
令嬢たちは、幼い頃より花よ蝶と育てられる反面、いつしか嫁ぎ、旦那さまとなる結婚相手を支える良妻たるための教育を受け、良妻たるものは常に夫の後ろに控えるものだと教え込まれる。
だから、一般的な貴族の令嬢・淑女は、慎ましやかにおっとりとした雰囲気を持つ。凛々しく勇ましいきりっとした雰囲気を纏う令嬢など、普通の貴族の嫁としてはありえないのである。
そんな規格外な令嬢に長じたレアンドラではあるが、アウデンリート公爵家に生まれたものとしては何分おかしくはなかった。
アウデンリート公爵家は、古くから続く軍人の家系であった。戴く王家の有事や緊急時には、性別年齢関係なく武器を取り、王家を守る盾となり、王家に牙を向ける不届き者に矛先を向けなければならないのだから。
そんなアウデンリート公爵家では、剣も持てず、いざというときに落ち着きを持ち冷静になれないものなどいないのである――否、いてはならないのだ。
そんなレアンドラは、十五となった時に婚約をした。
婚約者となったのは、カシーリャス公爵家の長子・エドヴィンであった。
同じ公爵の家柄とはいえ、アウデンリート公爵家は開国より続く古い家柄、一方カシーリャス公爵家は先代の王のご兄弟、王弟が開いた新しい公爵家。
古きより続く家系と、臣下となった元王族の家系との縁続きが、政略による婚姻だというのは明らかだった。
貴族と政略による婚姻というものは、昔からよくある話であったし、そもそも貴族の婚姻の半数以上が、大小の差はあれど、何かしらの政略的理由を含んでいた。
貴族に生まれたものが皆、婚姻には政略的理由が伴うということを教えられて長じてゆく。
貴族の令嬢としては規格外なレアンドラも、その辺りは一般的な貴族の令嬢の認識を持っていた。
互いを恋い結ばれる恋愛の果ての婚姻など、貴族の令嬢には無縁の産物――のはずだった。
レアンドラも、そのはずだった。
レアンドラが、婚約者となったエドヴィンに会うその時までは。
その時、レアンドラは恋が唐突に訪れるものだと思い知った。
☆☆☆☆☆
「いらっしゃいませ――って、あら、嶌川さん」
入店した客に気付き顔をあげた店員が、買い取りカウンターに来た薫子を見ておっとりと微笑んだ。
薫子は、フルネームを嶌川薫子という。
「こんにちは、蔦村さん」
薫子も笑み返し、買い取りカウンターに本を一冊置いた。
大手中古本販売店の店員の蔦村は、薫子がいつも来店する時間帯――だいたい放課後だ――に必ずといっていいくらい応対してくれる、若い小柄な女性店員だった。まだ二十歳前後に見えることから、大学生かもしれない。
店員である蔦村からしても、放課後に制服姿で一冊だけ本を売りにくる女子高生は記憶に残りやすいようで、いつのまにか互いにさん付けで呼びあう間柄になっていた。
薫子の本を手に取り、パラパラとページを捲ったり、カバーを外して確認したりしていた蔦村は、ふとあるページで手を止めた。そして薫子を見上げ、小首を傾げる。薫子から見れば、蔦村は頭ひとつ分小さいのだ。何も薫子が大きいというわけではない――レアンドラならまた違うだろうけれども。
「本日は、こちらですか――また悪役のお嬢さまでも出たんですか?」
蔦村の質問というよりは確認の言葉に、薫子は苦笑を浮かべて答えとした。
けっこう早い段階で、蔦村は一冊だけ持ってくる常連の来店理由を察した。
「むむ、最近多いですねぇ」
蔦村はそれだけ呟き嘆息し、「査定が終わり次第お呼びしますね」と薫子に番号札を渡した。
薫子も慣れたもので、頷き返して店内へと向かった。
――これで何度目なのだろう、と胸中で嘆息しながら。
等間隔に本棚が並ぶ店内は、商品を立ち読みする客、見定める客、番号札を持ってぶらぶらする客などで満ちていた。
薫子も、新書サイズの書架の辺りを彷徨いていた。新書には、学術を論じたものが多い。
そのなかでも、ちょっとずれたものを薫子は探していた。
例えば――日本と外国の文化交流における布団の役割とか、関西と関東のカップうどんの味はどこから変化するのかとか、一息でケーキの上のローソクの灯りを消すとき、ローソクの限界本数と一息の大きさの比較だとか、世界の仰天過ぎる結婚式とお葬式ランキング、とかだ。
薫子は基本雑食で、ホラーと悪嬢以外は何でもござれのため、絵の代わりにグラフが描かれた小難しい(?)本も難なく読む。
レアンドラだった頃は、書物という存在はたいへん貴重なものだった。
レアンドラが生きたあの世界では、紙そのものが貴重品だったため、紙を大量に使う書物といったものは、現代日本のように流通するものではなかった。
書物は限られた場所で、選ばれた者だけに使用が許可される、とても高価な貴重品であり、金持ちの道楽の嗜好品だった。
例えば、限られた場所は政治の場だった。
例えば、選ばれた者は会議などを記録する書記官や、神の教えを伝える神殿の伝道師、もしくは知識を教え伝える教師だった。もしくは、金にものを言わせて貴族が手にいれた、一種のステータス、自慢に使うひとつのアイテムだった。
名門公爵家の娘だったレアンドラは、家庭教師の授業で使用した教本、もしくは公爵たる父親が、領地経営のために持っていた書物しか見たことがなかった。
そんな環境に生きたレアンドラにとって、書物は手の届かない貴重な嗜好品。
レアンドラは薫子として生まれたとき、たくさんたくさんある書物がある現代日本は、まさしく天国だと感動した。
レアンドラとしての価値観が根底にあるゆえに、薫子はたくさんの書物を、漁るように貪るように読む。薫子が基本雑食なのはここに由来している。
そして書物、本は、薫子の知的好奇心を満たす。
薫子は、日本海に沈む人工物に見える地形を論じた一冊を手にした。さすがにこの内容に悪嬢は出てこないだろうと、久々に読書を楽しめると意気揚々と、書架から移動した。
――その時だった。
「……番の番号札をお持ちの方、買い取りカウンターにお越しください」
薫子の番号が呼ばれた。
「ありがとうございました!」
蔦村の声を背に、薫子は店を後にした。
薫子は、考え事に意識をもっていかなれがらも、暮れ泥み始めた道を、家路に向かって歩き始めた。
そんな薫子の頭の中には、ひとつの言葉が繰り返し繰り返し響いていた。
『モニターを、お願いできませんか……?』
店員の蔦村が、お願いごとをしてきたのだ――一枚のメモを精算のレシートの下に隠して渡しながら。。
たまに精算の際に、「こういうのはどうでしょう」と、悪嬢が出てこないファンタジー要素のある恋愛ものを教えてくれたりする蔦村である。だから、今回のその蔦村の行動に、薫子は目を瞬かせた。
『何の……?』
『内容に関しましては、メモを見ていただけたら、と』
蔦村は、薫子の後ろをチラチラ見ながら答えた。そのことから、蔦村が言外に「次のお客様をお待たせしていますので」といっているのを、けして鈍くない薫子は察した。
薫子は貴族の社会をレアンドラとして生きた経験からか、同年代の少年少女よりもそういったことに過敏に気付く。
薫子はすぐに頷いて、メモをレシートとともに財布にしまったのだった。
――なので先ほどから薫子は、確認していないメモに対する考えに没頭していたのだ。
思考に没頭はしていても、薫子は迷わずに帰路を進んでいく。
春が近づいてきた二月下旬になったとはいえ、まだまだ陽が沈むのも早い季節なのは変わりはない。
薫子の影法師も細く長く伸びていき、周囲の街灯が明滅を繰り返してから点灯してゆき、薫子の影法師をゆらゆらゆらめかせる。
夕陽も三分の二を残して山の合間に沈み、空は朱金と暗闇のコントラストに彩られていた。
――つまり、逢う魔が時。
「……すみません、お嬢さん」
薫子に年若い男性の声がかけられる。けれども、考えに没頭している薫子は気付かない。
「お嬢さん!」
薫子は気付かないまま、一時停止のラインを停止せずに、そのまま足を前へ進め――
「危ないっ、お嬢さん失礼っ!」
キキィ、と急ブレーキを踏む甲高い音と、バンッ、と地面を転がる音がほぼ同時に響いた。
「おい、気を付けろ!」
乱暴な怒声が響き、乗用車がキュキュ、と急発進して走り去る。
いつの間にか、薫子は若い男性に体を抱き込まれていた。
「………………」
薫子は、ゆっくり瞬いて視線を泳がせながら、そろーりと肩越しに振り向いた。
「大丈夫ですか、立てますか……?」
吐息が聞こえる距離で薫子の顔を見下ろすのは、切れ長な明るい茶色の目が印象的な、爽やかな好青年だった。
心配げに見つめてくる目を見て、薫子は――レアンドラは“思いだした”。
その記憶は、薫子として得た日本人としての記憶ではなく、レアンドラとして得た“異世界人の記憶”だった。
「……っ」
日に焼けた肌は日本人のもの、顔立ちも鼻筋が通ってはいるけど日本人のものだ。なのに、なのに――
この青年は、あの人だ。
☆☆☆☆☆
それは、恋のように突然であった。
ひとつの再会が、吉となるか、はたまた凶となるかは、神のみぞ知る。