それは慟哭か、吐露か
(――……?)
レアンドラが気付いたとき、彼女はいつの間にか深い微睡みの中を漂っていた。
その深い微睡みの中にいつから漂い続けているのかは定かではなかった。また、そのことを考えるにしたって、この状態のレアンドラには到底無理だった。深い微睡みは、とても穏やかで暖かい場所だったのだ。
しかし、いつまでも漂っているわけでもなかった。
いまのレアンドラは、深い深い眠りから覚めかけ、ゆっくりゆっくり意識が浮上し始めた状態だった。
漂い続けたいけれど、抗えない何かによって、意識が浮上していく。
誰だって、気持ちの良い眠りからは覚めたくはない。けれども、抗えない何かは理不尽にもレアンドラを覚醒へと導いていく。
しばらく続いた穏やかな波に揺られるような微睡みは、突然やって来た覚醒によってかき消された。
レアンドラの耳に、突然聞きなれない声が聞こえたのだ。
「£%£#&!」
レアンドラはかっと目を見開いた。
それは男性の少年期の声変わり特有のものだった。その声の主は嬉しそうに興奮した調子で、何かを叫んでいる。
レアンドラは、その言葉を全く理解できなかった。
「………」
レアンドラは、しばらく固まっていた。
自由に動かない体は何故か仰向けのようで、天井の木の板がよく見える。レアンドラは柔らか布か何かの上に寝転んでいるようで、まわりには高い木の柵が確認できた。
その木の柵のすぐ側に、三人の人影があった。七歳前後と十歳前後の男児が一名ずつ、そして十代半ばの少年がひとり。
「々¥*#」
「∃ヰΕ!」
「£%、£%!」
皆一様に、喜びと興奮、幸福感に満ちた表情を浮かべていた。嬉しくて嬉しくて仕方がないといった様だった。
黒髪に黒い目、うっすらと黄色を帯びた白い肌の彼らは、レアンドラの知らない言語を交わしていた。
その言語は、カルツォーネ王国周辺で使用される言語を網羅していたレアンドラでさえ、初めて聞く未知の言語だった。
見た目だってそうだ。髪と瞳の黒色はカルツォーネではありふれてはいたけれど、肌や顔立ちはたまに見かけた東国の商人のように見えた。
――レアンドラはいま、見知らぬ場所で、仰向けに横たわって、見知らぬ子供たちに見下ろされている。
(……どうして、あたくし見知らぬ場所で、見知らぬ方々に見下ろされてしまってますの?)
レアンドラはいま自身が置かれている状況が、全くもって理解できなかった。
とにかく現状を理解するために声をかけてみようと、レアンドラは口を開いた。
「ぷぎゃあ、ぷぎゃあ!」
――口から出た言葉は単語にすらならなかった。レアンドラは「こちらはどちらかしら?」といったつもりだったのだが、ぷぎゃあだった。
――まるで、生まれたばかりの赤子のような声だった。やはり他に何かを口にしようとしても、「ぴぎゃ」とか「ふぎゃ」あたりにしか変換されなかった。
そして、レアンドラがぷぎゃぷぎゃいう度に、少年たちは喜びを増していく。もうお祭り騒ぎである。
「…………」
このあと放心したレアンドラが、現状を理解できるようになるまで……この時点ではまだ、あと数時間あった。
これが、レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートが嶌川薫子に生まれ変わったその日の出来事だった。
そして、第一声は本人にとって遺憾なことに、ぷぎゃあだった。
☆☆☆☆☆
レアンドラは何かしらの窮地に立ったとき、いつも堂々と対峙し、対処してきた。
それは嶌川薫子になっても変わらなかった。
レアンドラは、確かに嶌川薫子になった。
けれどもレアンドラであることには違いない。
レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートは嶌川薫子であり、嶌川薫子はレアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートである。
――現在の彼女は、「レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートの人生を終えた」延長線上にある「嶌川薫子の人生を歩む」状態のレアンドラだ。
ただ、暮らす環境と世界が「カルツォーネ王国」から「地球の現代日本」に、身分と立場が「貴族令嬢レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリート」から「一般人の女子高生・嶌川薫子」に変わっただけで。
――しかし、レアンドラのようにあちらから生まれ変わった人たちが、レアンドラと同じパターンで生まれ変わっているとは限らない。
エドヴィン・カシーリャスは、彼のまま生まれ変わらなかった。魂は同じなのに、人格は受け継がれなかったようだった。魂が同じだけの別人になってしまっていた。レアンドラの恋い焦がれた相手ではなくなっていたのだ。
アーシュ・チュエーカは、そのまま生まれ変わった。魂も、人格も、「アーシュ・チュエーカ」だった。
ならば、クララ・ジスレーヌは。
汐見姉弟を駒にし、レアンドラ=薫子と正答を出した上で汐見姉弟を接触させてきた、クララ・ジスレーヌと名乗る存在は。
はたしてレアンドラとアーシュ・チュエーカのように、記憶と人格を持ったまま生まれ変わったのだろうか。
はたまた、別の人物がクララ・ジスレーヌを騙っているのか――なら、何が目的なのか。
答えは、未だ出ない。
けれども、明らかなことはひとつ。
(何がしたいの。“あたくし”は、穏やかに暮らしたらいけないの?)
アーシュ・チュエーカである五百祢々子も、自称だろうが本人だろうが、クララ・ジスレーヌも、レアンドラである薫子を平穏にはさせてはくれないようだ。
汐見姉弟と利害による協力関係を結んだ薫子は、翌朝に敵襲を受けた。
いつも通りに支度を終えて、通学のために玄関の開き戸を開ければ――門の向こうで、敵一名が仁王立ちで腕を組んでいた。
『あんたは相変わらず、朝が早いのね……』
真ん丸な大きい目を夜叉のように吊り上げ、きっと薫子を睨み付け――いや、睨みあげた。五百祢々子は、同世代の女子生徒の平均身長より遥かに小柄だ。小さい+童顔+豊満な体つき=ロリ巨乳というやつであるためか、平均身長よりやや大きい薫子には効果が薄かった。薫子からすれば、子犬がきゃんきゃん吠えて、頑張って威嚇しているようにしか見えなかった。
『どう。これで逃げられないでしょう?』
五百祢々子は勝ち誇ったようにどやっと口角をあげた。
前世でもそうだった。平均身長のアーシュ・チュエーカを、身長が高かったレアンドラはよく見下ろしたものだった。身長差から自然と見下ろす形になってしまっただけなのだが。
――だから、薫子も見下ろした。
無言で、ちらりと。ただそれだけ。
それだけで、五百祢々子が瞠目し、どや顔が崩れていった。
わなわなと唇を震わす五百祢々子を置き去りにし、薫子は門ではなくカーポートの方から外へ出た。
『な、な、また無視するの? 何でよ、いまの状態ならあんたご近所さんに良く思われないわよ、あんたご近所さんに新しいお隣さんを無視するって思われたいの!? あんた、そんな冷たい性格だった!?』
そうだ、レアンドラは無視などしない。薫子もしない。しかし、例外を除いて。彼女は、二度と自らトラブルに飛び込まない。穏やかさを求める者が、飛んで火に入る夏の虫のようなことをするはずがないのだ。
それでも、虫除けくらいはする。多少の火傷を覚悟に、しつこい虫の虫除けはきっちりする。
「日本語でお話ください?」
だから、薫子は。
「貴方はいま、日本人でしょう」
あちらの言葉を話す五百祢々子に、現実を突きつける。
「貴方は、まだチュエーカ男爵令嬢アーシュのつもりでいるのですか」
アーシュ・チュエーカである五百祢々子にしろ、クララ・ジスレーヌにしろ、彼女らは何をしたいのだろうと、薫子はよく思う。
レアンドラである薫子は、嶌川薫子の今の人生を穏やかに暮らしたい。
薫子は、五百祢々子が何故あちらの言葉を話すのか、その行動理由は推測できないし、もちろん理解もできなかった。
「あなた、何に固執しているのですか」
おそらく、五百祢々子は――
『わ、たし……はっ、』
すたすた歩く薫子に、五百祢々子は早足で追う。
薫子は歩きながら、振り向かずに話していたのだ。
薫子は、五百祢々子の独りよがりな会話のために遅刻する気はない。
「いい加減、今を見たら如何です? エドヴィン様もいない、あなたの取り巻きの貴族令息もいない、ここはカルツォーネではないのですよ?」
薫子の言葉に、五百祢々子は息をのんだ。その音が、雰囲気が、じわりと薫子に伝わってくる。
それに、薫子は違和感を覚えた。あの女が、アーシュ・チュエーカが、これしきのことで息をのむ?
「さ、寂しくないの? こっちには、こっちには、誰もいないのよ! フランも、シプリーも、フェル先生も、……エドだって、エドだけどエドじゃない!」
混乱と、悲しみと、怒りと、やるせない負の感情が混ざりに混ざった声で、五百祢々子は薫子に向かって叫んだ。
それは、アーシュ・チュエーカを知っているはずの薫子には、違和感どころではなかった。
フランは、レアンドラの弟フランセスク。シプリーは、他国からの留学中の他国の王族のシプリアン。フェルは教師のフェリシアン。エドはもちろんエドヴィン。
みんな、みんなアーシュ・チュエーカの取り巻きだ。現代日本語風にいえば、逆ハーという言葉が一番的確である。
その逆ハーのメンバーはこちらにはいない。探せばいるかもしれないけど、いまはいない。エドヴィンは例外だが、いまの彼はそもそもエドヴィンであってエドヴィンではない。
彼らがいないから寂しい、誰もいないから寂しいなどと、アーシュ・チュエーカはそんなことをいう性格ではなかった。
「みんな、みんないないのよ。あたしは、ひとりなのよ」
常に誰かに囲まれ、ちやほやされていたアーシュ・チュエーカ。聖女の再来と謳われ、誰もが彼女を見た。
だけどいまは、アーシュ・チュエーカを見る者はいない。
だから、寂しいという。
「あたしを知るひとは、あんただけなのよ!」
五百祢々子は寂しいと吐露した。薫子はいよいよ「違う」と認めざるを得なかった。この五百祢々子は、薫子の想定していた“あの女”ではない。
それでも、薫子は。
「――水に流せはしないことをしたのに?」
薫子は振り向いた。少々の火傷は覚悟の上だ。向き合わないといけない、そう思った。
ふたつの視線が混じりあった。
真っ赤な顔で、五百祢々子は薫子を見た。
――その顔を見て、薫子は少し後悔した。
ぐしゃぐしゃに泣き潰れた、“あの女”らしくもない生々しい表情。
「あたしは、ひとりはいや」
五百祢々子は、薫子を真っ直ぐ見上げた。
薫子は、耳を塞ぎたくなった。認めない、認めない、認めない――
「これは、たぶん、……ううん、絶対に、あたしが犯した罪への罰」
五百祢々子は強い眼差しで、薫子の疑念の視線を受け止めた。そこに、あの狂った“あの女”の面影はなかった。
「あんたを陥れて、悪役に仕立てて、聖女だと自惚れ、何人もの未来を歪め、阻んだ」
何で、あの女が、狂ったあの女が自省しているのか。
「この世界で、あたしはあんたに、犯した罪の証であるあんたに償わなければならない」
もう、カルツォーネ王国などない世界で。
もう、生まれる前の身分や立場、そして同じ肉体ではない今の状態で。
レアンドラはただ、嶌川薫子として穏やかに暮らしたいだけなのに。
だからこそ、レアンドラは――薫子は関わることを避けたのに。
あの、女が、いう。あの、女が、罪を――
「何を、今さら」
薫子の本音はそれだった。
「今さらだけど!」
あの女――いまは五百祢々子である“あの女”は、さらなる衝撃を薫子に与えた。
「あんたが死んだ後、あたしには、あんたにしたことと同じことがかえってきた。あたしは、聖女を騙った罪で……」
――聖女の再来は、国王の名のもとに、偽物として処刑台の露となったと。




