これが笑止というものか
笑止……おかしなこと、馬鹿馬鹿しいこと、また、奇怪なこと。
レアンドラが生きた時代、カルツォーネ国王には、後の世にその名を広く知らしめたみっつの異名がある。
そのひとつが、好色王。
時のカルツォーネ国王・エフシミオス三世の生涯にわたる後宮の人数の多さは、歴代の王たちのなかでも群を抜く多さであった。
そしてふたつめは、狂犬王。
とても好戦的であり、少しでも逆らう素振りを見せる者があったならば、喜び勇んでその芽を刈り取りにいったという。
その時の王の顔は、喜悦と狂喜に満ち満ちていたという。
最後、みっつめの名は異名のなかでも特に雷名を轟かせ、かの王の存在を後世に印象付けた名である。
――監視王。
狂犬王と呼ばれる側面に、かの王は、子飼いの猟犬という名の手駒をたくさん所有していた。手駒は諜報員であり、その数は数多。
監視王の名は、この手駒を使い全てをあまねく見張っていたゆえである。
手駒、すなわち王の目は国内外問わず広く放たれ、民や貴族――国民と他国を余すことなく監視していたという。
狂犬王であるがゆえに監視王、監視王であるがゆえに狂犬王。
このふたつの異名は、もうひとつの異名の好色王と違い、最もかの王の性質を表しているという。つまり、好色の名はこのふたつの異名を隠す隠れ蓑に他ならない、と。
また、かの王はみっつの異名以外に、後世に強く印象付けるひとつの存在があった。
かの王の優秀な手駒、クララ・ジスレーヌの存在だ。
クララ・ジスレーヌは、王の手駒とはまた別枠に、独立した諜報部隊――“猫”を使役する。自らは使役するだけで、後宮からは一切出なかったという。
後世では、彼女の存在を隠すためだけに、巨大な後宮を築き上げたのではといわれている。
――木を隠すならば、森の中。
優秀な手駒を隠すため、ただそれだけで後宮を作った。
だからこそ、クララ・ジスレーヌは真の寵姫といわれている。
王妃を除き、王の子を孕み産んだのはクララ・ジスレーヌのみだからである。
レアンドラはその名をよく知っていた。
後宮に入る際に側妃たちは姓を喪う――外戚に力を持たせないためと、王家のものということを知らしめるためからだ。
クララ・ジスレーヌの喪った姓は、アティエンサ。レアンドラの師の娘である。三歳の幼い頃より師と接していたレアンドラが、師の娘と接触する機会がないわけがなかった。後宮に入るまえだから、こそ。
ただ、それが短い間だったとしても。クララ・ジスレーヌが、父と袂を分かつその時までの短期間でも。
レアンドラがクララ・ジスレーヌを知るには十分だったから。
そのため、レアンドラはクララ・ジスレーヌの王への執着ぶりも、その賢さや手腕の強さもよく知っている。
……そして。
クララ・ジスレーヌは、レアンドラを牢獄へ叩き込んだ張本人。
直接手は下してはいないが、レアンドラが置かした罪の証拠、物的証拠を用意したのは彼女だった。
そのため、レアンドラは誰よりもよく知っている。
――優秀といわれたクララ・ジスレーヌが、わざと行ったことを。
☆☆☆☆☆
可愛らしい童話世界の雰囲気を醸す店内とは真逆に、薫子の心中は荒れに荒れて、まるで嵐の日のごとき様相を呈していた。
それでもやはり、この嵐は長く続くことはなかった。
嵐は止み、空を覆う暗雲はすぐに去り、青く澄み渡った空が顔を出す。
薫子はさらに笑みを深めた。口の端をゆっくりとつり上げ、目を細めて汐見姉弟を見下ろす。
――女王、降臨。
汐見姉弟は、薫子を見てそんな言葉が頭に過った。実際、薫子の周辺(家族や親しい友人・知人間)で「女帝降臨」といわれていたりする。きっと五百祢々子が見れば、「レアンドラ!」と唇を噛んだことだろう――つまりは「貴族令嬢モード」である。
そして、この状態になると……薫子は容赦はしない。レアンドラらしく、上位貴族らしく振る舞い、格差を――上下の差を、相手のその身に刻み付ける。
「ゆっくり、お話をいたしましょうか」
含み笑う薫子に、汐見姉弟は真っ青になりながら、コクコクと激しく上下に首を振るのだった。
薫子は、並んで座る汐見姉弟と机を挟んで向かい合う形で着席した。
ちなみに厨房前のこの席はヘンゼルとグレーテルがテーマ、まるで薫子が魔女で汐見姉弟が主人公ふたりのようである。
汐見姉弟――とくに汐見弟の方が、不安をあらわに周囲に視線を泳がせていた。
汐見姉はといえば、口を一文字に引き結び、頑張って薫子を見据えていた……が、やはり震えている。
薫子は、自分の目的のためには一切手を抜かない。もう一度あのような終わりを迎える人生なんて、あのような最後に結び付く未来なんて、絶対に避ける。
だから、その道を阻むやつは徹底的に避ける――五百祢々子のように。
けれど、それが今のように避けられないのなら、正面から堂々と向かい合う。
――『レアン。いいか、よく聞け』
薫子の脳裏に、かつての師の言葉が蘇る。
――『ヤられたら、喧嘩ァ売られたら、ぜってぇ姑息な真似は使うんじゃねぇよ』
師匠は姑息という言葉を嫌い、正々堂々という言葉を好んだ。
実の娘と意見が食い違い袂が分かたれても、その信念は覆さなかった。胸を張って己の理念を貫き通した。
――『だから、真っ向から、討て』
レアンドラの――間接的とはいえ――命を奪ったクララ・ジスレーヌが今生も生き、そしてレアンドラである薫子に接触を図るならば、全力で迎え討つ。
そう、レアンドラらしく、薫子らしく――師匠の教えの通り、真っ向から臨む。
――『レアン。お前は姑息な手段に、決して負けるな』
レアンドラの頃は、恋に溺れて負けるという失態を見せてしまった。師匠との約束を守れなかった。
けれども、レアンドラは――薫子はもう失敗はしない。前車の轍を踏む真似はしない。
だから、――さあ、かかってこい。
薫子は狩人の眼差しをまず弟に向けた。
「……っ、お、おれは」
汐見姉よりも精神的耐久力が弱かった汐見弟は、薫子に頭を下げた。つまり、プレッシャーに負けたのだ。
「虎!?」
汐見姉が短い悲鳴と共に汐見弟の名を呼んだ。その顔は青い。
「最初から、クララさんとやらに、私をつけて得た情報を報告する流れだったのでしょう」
薫子は淡々と述べた。
汐見姉は薫子を見て瞠目する。その顔色はさらに悪化していく。
その汐見姉の反応が、この話し合いでの薫子の立場をより強くする。
「あの手紙で動揺でもさせ、あの場所へ導き、そしてあとをつける。反応と動向を見てくるようにいわれているのでは?」
薫子は容赦なく、言葉で畳み掛けていく。真っ向から、真っ直ぐな飾りなどない言葉で、事実を突きつけていく。ただただゆっくりと、淡々と。
いまの薫子は狩人、姿が丸見えの獲物は決して逃がしはせんと、堂々と矢を放つ。何も遮るものもない近距離で、矢を向けられた獲物は意外に冷静にはなれないことを、薫子は経験で知っている。
いまの薫子は、汐見姉弟よりも優位だ。それを隠さずに、相手に差を見せつけ、理解させる。こいつには勝てないのだと思わさせる。
「答えなさい。その理由を。クララさんとやらからどのような命を受けた?」
汐見姉弟ふたりが薫子と「お話」をしてから、十分経過した頃。ようやく「お話」は終局をみせようとしていた。
軽食店メルヘンにて行われた学生三人の「お話」は、終始薫子側のリードだった。十分間、ずっと。
結果は、もちろん薫子の勝ち。たった十分で、だ。
そして、薫子はこの十分でいくつかの情報を入手し、ある取引をした。
薫子が汐見姉弟との勝利によって得た情報は、汐見姉弟の身内にクララ・ジスレーヌがいるということ、汐見姉弟は何らかの弱みをクララ・ジスレーヌに握られているということ。その為に、このような事をさせられているのだと。
汐見姉弟どちらとも、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべながら、そういった。
クララ・ジスレーヌのことだ、ふたりにそのようにいわせ、油断でも誘うつもりでいるのかと薫子は推測していた。しかしふたりのその表情から見るに、それは邪推だとわかった。
レアンドラへの仕打ち、そしてレアンドラの頃接した性格から、薫子はクララ・ジスレーヌが絡むと穿った捉え方をするようになる。
それはクララ・ジスレーヌがレアンドラにしたことがしたことであるため、仕方のないことかもしれなかった。
「ならば、私はおふたりに提案します」
薫子は、ある提案をふたりにし、いくつかの条件を取引し、同意を取り付けた。両者ともに、慎重に。
「これを」
汐見姉は、一枚のメモを机の下から薫子に渡した。
「今日のことは、相談しとおりに伝えます」
汐見姉は、誰にとはいわなかった。
そして、汐見姉は暇を告げ、一言告げて帰っていった。
とても、意味深な内容の言葉を。
「貴方にお会いしたならば、伝えろといわれました。“お伽噺は終わらない”、だそうです」
――その晩、薫子はなかなか寝付けなかった……わけではなかったが、あちらの世界を夢に見た。なかなかに趣味の悪い夢を。
『エディと別れて、エディを、彼を自由にしなさいよ。貴女は彼に相応しくないの。わかる?』
『……いいえ、理解できません。エドヴィン様に誰が相応しいかなんて、エドヴィン様自身がお決めになることですもの。あたくしにはその権利はありません。そしてそれは貴女にもありません。たとえ、貴女がエドヴィン様とどれだけ親しくとも』
『あたしに、ないって?』
『ありません。エドヴィン様のお隣に立つ人は、最終的に選ぶ権利はエドヴィン様だけが持ちうるものですわ』
『違う、違う、違う!』
『……、何が違う、というのです』
『選ぶのは、あたし。あたしが選ぶのよ! ……この世界はあたしの力を求めてる。だからあたしがいらないと思えば、あんたは世界からいらないものになる』
『……、会話が噛み合っていませんわね。
人はそれぞれ違いますわ。貴女が自己中心的でもそれは個性といえるかもしれませんけれど』
あの女の狂気に触れた時の夢。
初対面から会話が成立しているようでしなかった、会ったその時から既に狂っていたあの女。
恋に溺れていたレアンドラは、真っ向からあの女を否定した。恋に溺れていなければ、「笑止の至りですわ」と正々堂々と無視して、全く相手にしなかっただろうに。
『これだけはいえます。貴女は現実をお伽噺のように見ている』
レアンドラは、あの女の言葉を誇大妄想と切って捨てた。その時の誇大妄想を指摘する発言が、お伽噺に例えたあの発言だった。
――自分がお伽噺の主人公のような、まるで神のような自信満々な態度だったから。
「寝付き、最悪……」
いつもより早く目が覚めた薫子の目の下には、くっきりと隈が存在を主張していた。
薫子があんな夢を見たのは、汐見姉のあの発言の影響だろう。
「会うのよね」
薫子はクララ・ジスレーヌに会わなければならない。この先穏やかな人生を送るためにも、不穏な芽は早いうちに摘まないといけないから。
そして、もうひとり。
「五百、祢々子」
昨日休みだった五百祢々子とも、何かしらあるはずだ。先日、あのようなことになったのだから。




