これは奇縁な出会いというものか
建国の世に、天から降り地へ立った聖女により導かれ開国されたカルツォーネ国。
聖女は天へと帰る前に、地上の男性との間にひとりの息子をもうけていた。
その男性こそ、聖女とともに開国の祖となった開国王であり、ひとりの息子が開かれた国を穏やかに治めた安寧王である。
いつしか聖女は開国の聖女と呼ばれるようになり、伝説として崇められていくこととなる。
よって、カルツォーネの王族は聖女の血筋となる。
そして、開国の世より数百年の年月が過ぎ去った。
幾代も幾代も経て、聖女の血など最早薄まっているだろうその時代に、聖女の再来は生まれた。
齢十代にして、聖女と「同じ力」に目覚めたという少女は、下級貴族の庶子。
その少女の周囲は、少女の異能を隠しはしなかった。それどころか、知れ渡るように――大々的とまではいかないが――言いふらす始末。
この事態を、聖女の子孫である王家が黙っているはずがなかった。
果たして、建国数百年にして現れた異能の少女は、吉と出るか凶となるか。
その答えは火を見るより明らかであった。
「――聖女の再来だと……?」
王宮の最奥にある後宮の一室にて、不機嫌にグラスを傾ける男がひとり。
華美な寝台に腰をおろした男は、髭も立派な中年の域に差し掛かる齢に見えた。
男は絹の上等なガウンを気崩しだらけた風であり、酒をグッとぞんざいに煽るも、全く酔った気配も見られない。
男の目は爛爛とし、まるで獲物を狙い定める狩人のそれであった。
「ええ、市中ではそのような噂で持ちきりでしてよ。何とも怖いもの知らずがいたものですわ。いずれ、身の程を弁えない阿呆に担がれると、下々の頭の回るものは判じているのですって」
この一室を与えられている赤毛の美しい女が、紅くはいた唇の端を吊り上げて、笑みの形をつくった。
女の手は群青色が鮮やかで美しい酒瓶を傾け、横に座る男のグラスへと蜜色の酒を注ぐ。
「お前がそういうのだから、そうなのだろうよ」
男は呵呵と肩を震わせ、女の髪に接吻を落とす。
「あら、おかしいことをおっしゃって。陛下の子飼い……いいえ、配下の猟犬たちと、わたくしの猫ちゃんたちは雲泥の差。比べることさえおこがましいですわ」
女は猫のような金の瞳を細め、白魚のような指でそっと男の手を掴んだ。
「お前の謙遜は全く謙遜に聞こえんな?」
男は女の指を掴み返し、そのまま寝台へと優しく押し倒す。
「ふふ、狂犬王と異名をとる貴方さまからの誉め言葉として受け取っておきますわ……ねぇ、陛下? 陛下の為に調べたんですもの、……褒美をくださいな?」
女はうっとりと艶のある笑みを浮かべ、自ら男に抱きついた。
それを合図に、男は寝台の近くの明かりを消した。
男は後宮を訪れることが許された唯一の男、国王である。
女の寵姫という立場は表の顔であり、私的な諜報部隊を持つ王の駒という裏の顔をもっていた。女は寵姫であり王の懐刀であった。
国王は女に命じ、聖女の再来と自称する少女を監視し始める。
聖女の血筋であるがゆえに王である国王は、少女を国とおのが地位の安寧を脅かすに十分値すると判断した。
――下級貴族の庶子である少女の名はアーシュ・チュエーカ、このまま国王が危惧するように、王家への反逆の旗頭となるか、否か。
国王と聖女を騙る少女の戦いは始まったばかりだ。
☆☆☆☆☆
古書店を出た薫子は、蔦村と連れだって付近の喫茶店へと向かった。
古書店の休憩スペースにて、薫子はひとつの熱烈な視線を感じ取っていた。
あちらの世界でいた頃、レアンドラは幾度も幾度も実戦を経験してきた。
その体験からか、レアンドラは視線や、その視線に込められた感情――例えば敵意などに敏感だった。
嶌川薫子となってからも、その感覚は健在であった。
古書店から感じている視線は、いまもなお続く。
(こちらが気付いていないと思っている?)
薫子は直感で、尾行者が「こちらが感づいていることに感づいていない」と悟った。それはやはり、師匠と行った実戦経験の賜物だった。
(あと、男だ。ひとり、背丈は大きくない)
薫子は蔦村と会話に興じる振りをしながら、その気配や足音、体重の移動の仕方などから尾行者の外見的特徴を割り出していく。
(そして、若い……生徒?)
割り出していった結果、出た答えは男子生徒。そして、尾行はド素人のようだ。
(協力者、か)
おそらくは、協力者。顔を直接見れば、あちらの世界からの生まれ変わりかどうかわかるだろう。しかし、薫子はそちらを見ない。
「こちらなんです」
蔦村はある建物の前で足を止めた。
そこは、薫子の家に比較的近い個人経営の軽食店だった。
オレンジ色の瓦に白い壁の平屋建ての建物からは、とても美味しそうな香りが漂ってきている。
メルヘンと書かれたプレートのかかる扉を押し開けながら、にっこりと蔦村は中へ案内する。
「ここはとても紅茶が美味しいんです」
さ、中へ入りましょう? と続ける蔦村に、表向きは「そうなんですね」と相槌を打ちながら、薫子は世間てものは狭いなと思った。
――軽食店、メルヘン。それは薫子の三番目の兄・助三郎(二十三歳)が調理師として勤める職場だった。
嶌川家の家族構成は、公務員の長男・太一郎(三十一才)、介護福祉士の次男・音次郎(二十五歳)、調理師の三男・助三郎(二十三歳)、高校一年生の長女・薫子(十六歳)である。
助三郎は三兄弟の中でも、特に一番家から近い職場だった。
その職場がいま薫子が入店した場所である。
「いらっしゃいませ……おや、薫子ちゃん!」
出入口の扉を開ければ、まずカントリー調のカウンターがある。そのカウンターは会計の場所であり、また来店客の受け付け・案内をする場所だ。
いまはそこに四十代半ばの人の良さそうな女性が立っていた。彼女は店主・猪野さんの奥さんであり、助三郎の上司である。
そして、薫子の小さい頃から可愛がってくれた、近所の優しいおばさんでもある。
「おや、お友達とかい?」
にこにこと笑いかけてくる猪野夫人に悪気はない。なので、ショックを受けて固まる蔦村にかわり、薫子は蔦村を紹介した。
「音次郎兄さんのご学友の蔦村さんです」
薫子は遠回しに蔦村の年齢を濁して告げた。それに猪野夫人は破顔した。
「おや、堪忍ねぇ。すごく可愛らしい子だから。……音君もすみにおけないねぇ」
猪野夫人はにやにやと楽しそうに笑う。
「いや、わ、わ、わた、わた、私は」
蔦村は両の腕をぶんぶん振って否定した。その顔は熟れた林檎さながらだった。
ひとりプチパニック状態の蔦村をよそに、猪野夫人は薫子に耳打ちした。
「で? 薫子ちゃん。もうひとりはいないね?」
「いません」
ふたりの会話はそよ風のように囁くものである。なので、現在進行形でまわりが見えていない蔦村には、もちろん聞こえていない。
「なら、別の席に案内するよ。離れた、ね」
猪野夫人はそういって、耳打ちは終了させた。
「青い鳥テーブルにお二人様ご案内!」
猪野夫人が可愛らしいベルを鳴らせば、赤ずきんを模した制服の店員がやってきて、蔦村と薫子を奥の青のソファーへと案内していった。
ふたりが席に向かうのを見て、猪野夫人は半開きの扉の方へと顔を向けた。
「外はまだ寒いですから、中へどうぞ、お客様“方”?」
ふたりが案内された青い鳥席は、ロイヤルブルーの布が飾れた黒の革張りのソファーが向かい合い、小鳥が戯れ合う飾り彫りがされた焦げ茶の木のテーブルが可愛らしい席だった。
「メニュー表が絵本仕立てっ……!」
着席した蔦村は、手のひらサイズのメニュー表に釘付けになっていた。
メニュー表は、一冊一冊が店主のお手製である。掲載されたメニューは同じであれど、一冊一冊が席のテーマのメルヘンにあった挿し絵と装丁が施されている。この青い鳥席ならば、青い鳥とチルチル・ミチル兄妹の絵が描かれているように。
「聞いてた以上に萌えっ……!」
蔦村は鼻の辺りを押さえながら、たいへん幸せそうな表情を浮かべている。
「…………」
薫子の生暖かい見守るような眼差しに、蔦村が我にかえったのはもうしばらく後のことである。
この日、薫子と蔦村は次の日曜日に会うことを約束する。もちろん音次郎の同伴で、である。
そして、薫子を尾行していた者はといえば――
「薫子、こいつらだ」
蔦村と別れたあと、薫子はメルヘンにとどまっていた。尾行していた者に会うためだ。尾行していた者は、猪野夫人が目敏く気づき、こっそり店内の奥――厨房付近へと誘導していた。薫子の兄、助三郎のいる厨房に。
可愛い妹(薫子)をつけていた不審な輩を、兄自ら監視していたわけである。
そして、お話を終えた薫子がその席に来てみれば。
「……」
「……」
角刈りに眼鏡、そしてラグビー部のような体つきのの助三郎に監視されていた男子生徒と女子生徒は、ぷるぷる震えていた。助三郎の眼光は泣く子をさらに泣かせ、笑う子も泣かせてしまう強面なので、きっとその影響だろう。
そのぷるぷる震える二人組を見て、薫子は――同情はしないが――溜め息を吐いた。
「……兄さん、見つめすぎ」
薫子がちら、と兄を見てダメ出しをすれば、
「……………」
助三郎はそっと二人組から視線をそらした。
「兄さん、ありがとう」
そんな助三郎に近づき礼をいえば、助三郎は顔を真っ赤にして背を向けた。
薫子の三人の兄の中でも、助三郎は一番素直で純情、そして優しい兄だった。照れ屋で口下手な助三郎に、他の兄同様の秘技などいらない。ただこちらも素直になればいいだけなのだ。……ピュアなので傷付きやすいため、言動には要注意なのではあるが。
薫子は二人組をじっと見た。どちらも薫子にとって見覚えのある生徒だった。確か、図書室によくいる――
「……二年三組所属、汐見那由多先輩に、一年一組所属、汐見景虎君ですね。
学校からはずっと汐見君が、古書店からこちらへの道中に汐見先輩が合流されて、私の後を追っていましたよね。私、嶌川薫子に何のご用でしょうか?」
薫子は同じ学校に通う姉弟を見下ろし、笑みを浮かべた――その笑みは高貴でいて犯しては罪を負っててしまうような、思わず額づいて平伏してしまいそうな、そんな強さと迫力のある笑みだった。
――そう、威風堂々と胸を張り自信に満ち溢れ、高貴さが滲み出るレアンドラらしく、薫子はふたりを見下ろしていたのだ。
「あ、あたしたちはっ……、クララさんに頼まれただけでっ」
俯きながら、汐見(姉)は辿々しく、つっかえつっかえ声を出した。薫子のプレッシャーにびくびくしているのだ。
そんな汐見(姉)の口から出た名前に、薫子の脳裏に直感で閃く人物がいた。
「クララ・ジスレーヌ?」
薫子が呟いた名に、汐見姉弟がびくりとひときわ大きく身を震わせたことが、薫子には酷く印象的だった。
――クララ・ジスレーヌ、レアンドラが生きたあの国、あの時代の国王の寵姫であり、子飼いの猫を率いる側妃の名だった。




