初恋は実らないというものか
初対面のレアンドラに食ってかかってきたアーシュ・チュエーカは、不可思議な力を持っていた。
そのことから、「アーシュ・チュエーカ嬢は聖女の再来」と噂されるようになった。
聖女は、天より地へ降り立った奇跡。
美しい銀の髪をなびかせて、戦乱により混沌とした世をひとつにまとめあげ、民を安寧の世へと導いた伝説の存在。
慈悲と献身の心に満ちていた聖女は、惜しまずに奇跡の御技を行使したという。
民の全ての負傷を無傷に戻し、疲弊した大地を甦らせた稀有な力の持ち主だった。
聖女の御技は再生の力、それを行使する聖女は、天より使わされた御遣いと謳われる。
アーシュ・チュエーカはその聖女の奇跡の御技、再生の力を持っていたのだ。
しかし聖女と同じ力を持っているからといって、持ち主の心根まで聖女と同じとは限らない。
「あたしの力を、世界は求めているの! あたしの力が、世界には必要なの! 世界はあたしの力なしには続かない。だから、あたしは世界を思うがままに動かしてもいいの!」
伝説の聖女の力を持っている聖女の再来といわれ、もてはやされ、驕ってしまっていたからなのか。それとも元からそうだったのか、はたまた元からの傲慢さに拍車がかかってしまったのか――それはわからない。
けれども、これだけははっきりしている。アーシュ・チュエーカは傲慢で、慈悲と献身の心根など持っていなかったということは。
聖女の再来は、力だけが再来で中身は再来ではなかったのだ。
そして、人々は聖女と同じ力だけしか見なかった。皆、聖女と同じ力を持つのだから心根もそうだろうと錯覚した。皆、再来とはいえ聖女を疑うことなんて考えにも及ばなかったのだ。
だから、騙されたのだろうか。
「あの方が、あたしを貶めようとしたんですっ……!」
レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートは、アーシュ・チュエーカの奸計にはめられても、誰もがアーシュ・チュエーカの言をこれっぽっちも疑わなかった。
恋に落ちたレアンドラはクピドに目隠しをされ、盲目だった。
恋に溺れ盲目だったレアンドラは、嫉妬からアーシュ・チュエーカに小さな悪戯さえしたけれど、アーシュ・チュエーカのように自作自演や誇張などはしなかった。
その小さな悪戯さえ、アーシュ・チュエーカのはかりごとのひとつの結果だった。
「レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートに次ぐ。貴様は一生幽閉、暗闇の中で過ごすのだ。死んで世俗から解放されることさえ許されない。罪を償うことさえさせない――稀代の悪女にはふさわしかろう?」
――誰が悪女というのか。
罠にはめられ作られた道化の悪女と、罠にはめて偽りをしたてあげた聖女の再来。
どちらが悪女というのか。どちらが、悪役令嬢というのか――……。
☆☆☆☆☆
嶌川薫子に生まれ変わったレアンドラは、薫子としての初恋をまだ経験したことがない。
そもそも、薫子はレアンドラの人格のままであるのだから、レアンドラ=薫子の状態での初恋は、レアンドラの頃の初恋がそうだといえるだろう。
そうだとすれば、レアンドラの初恋はエドヴィンだ。
もしくは人生ひとつひとつに初恋があるのだとしたら、レアンドラとしての人生の初恋の他に、薫子としての人生の初恋もあることになる。
そうだとすれば、薫子の初恋はあの青年だろう。レアンドラ同様遅かったといえる薫子は、エドヴィンの生まれ変わったあの青年が初恋なのだから。
「はじめまして、お隣に引っ越してきた五百です」
青年――五百は、にこにこと頭を下げた。
「こちらこそ。嶌川です」
音次郎は表面上は穏やかさを作りながらも、内面は警戒心を解いてはいないようで、そのことが声の様子からうかがい知れた。
薫子は音次郎の背に隠れたまま、動けなかった。
もう二度と会うことはないだろうと思っていた相手が、そこにいる。
その事実だけで、薫子は「らしくもなく」心臓が早鐘のようになっているというのに……、あの女の生まれ変わりだと確信している転入生と同じ姓で、しかもとどめとばかりにお隣さん。
これは最近ライトノベルで見る「詰んだ」という状況かと、薫子は溜め息を量産したくなった。
「あれ、君?」
この詰んだ状況から、どのようにして脱出しようかと考えを巡らせていた薫子の耳に、五百青年の声が届いた。
そして五百青年は、兄の背に隠れていた薫子に気づき、顔を覗き込んだ。
「この間の。世間て狭いね」
悪げもなく、一度会ったことがあると五百青年は暴露した。薫子は絶句し、兄の背中がこわばったことに気づいた……あとで問い質されそうだ。この男とどこで知り合った、どのような関係だ、と目くじらたてて。
「はじめまして、五百龍雅です」
五百青年は、嶌川兄妹の心境など露知らず、ふたりに自己紹介をした。そんな据わった肝っ玉っぷりが、またエドヴィンそのままだと薫子は呆れた。本当に、五百青年はエドヴィンそのままだ。悲しくなって、泣きたいくらいに。
薫子は無意識に兄の服を強く引っ張った。
レアンドラと違い、薫子には兄がいる。守ってくれる存在がなかったレアンドラて違い、壁になって守ってくれる存在がいる。
薫子はそのことに心の底から感謝し、安堵した。めったに取り乱しはしない薫子でも、取り乱したときに安心させてくれる存在があるかないかでは、大きく差が違ってくる。
だから、兄に次いで、落ち着き払って自己紹介ができた。
「はじめまして。嶌川薫子と申します、お見知りおきください」
にこやかに頷く五百青年に、同じように笑みを返しつつも――薫子は「はじめまして」といわれたことに、どこか寂しさを感じたことを拭えなかった。
薫子はその日、再び寝付けなかった。
シスコン重症患者の音次郎の追及をどうやって逃れたのか、薫子は全く覚えていない。
入眠しようと目を瞑っても、瞼の裏からあの青年が離れない。離れる兆しさえ、ない。
それほどまでに、五百青年の「はじめまして」は、薫子の精神的被害が大きかったのだ。
彼に向き合い、彼を正面から見た薫子は察してしまったのだ……直感で。
「記憶は、なさそう……」
薫子は、レアンドラだ。レアンドラの人生の終着点の延長が、薫子の人生の始発点に繋がっていたから、レアンドラの人格のままで薫子になった。
けれども、彼は違う。
彼の発言から、薫子は「わかって」しまったのだ。ほぼ勘だが、それでも間違はないのだと、薫子は本能で理解してしまった。
五百青年は五百龍雅であり、エドヴィン・カシーリャスとイコールではないと。たとえ生まれ変わりであっても、薫子と違う。彼はあくまでも「エドヴィン・カシーリャスと同じ魂を持つだけ」の青年にすぎないのだ。
その事実が、薫子の寂しさを感じる根本の原因だった。
薫子はもう一度恋に落ちた。でもそれは、頭のどこかで期待していたからなのだろう。あの青年も自分と同じように記憶があるのだと。
でも、記憶はない。そして魂が同じだけの青年。そう、同じだけの。
「エドヴィン様じゃ、ない……?」
薫子はレアンドラの口調で呟いた。口に出してみれば、自然とエドヴィンに様づけをして呼んでいたのだ。
『あたくしの、恋したエドヴィン様じゃ、ない』
それは無意識だった。
薫子はカルツォーネの言語で呟いていた。
それに気付いた薫子は、思わず手のひらを口に当てた。それは、驚愕したときのレアンドラの癖。
――まさしく、目から鱗だった。
『本当に“エドヴィン様“なのか、この言葉を向ければいい』
薫子は確信を確実にするために、決意した。
今まで使う必要などなかったあの言語を、彼の前で一言口にすれば結果は自ずと見えてくる。
レアンドラの故国カルツォーネの言語は、ヨーロッパにて使われる言語体系によく似ているけれど、全く違う言語体系だった。
薫子は、カルツォーネと同じ言語が地球にないことを知っている。一度興味本位から調べたことがあったのだ。
――地球上にない言語に反応するか、しないか。
薫子は早速明日に行動に移そうと心に決めたのだった。
――翌日は日曜日だった。
三兄弟は皆、仕事に出払っていた。三兄弟、とくに音次郎は、可愛い妹をひとりにすることにたいへん不満そうであった。それでもしぶしぶ音次郎は仕事にいったのだけれども。
(……い、た………)
お目当ての人物が玄関から颯爽と登場した。
片手に塵取り、片手に箒――道具だけを見れば朝の清掃なのだなとすぐにわかる出で立ちであった。
その背に、薫子は声をかけた。
『おはようございます、エドヴィン様……レアンドラでございます』
意を決した薫子の挨拶は、
「うん? ああ、おはようございます。えっと、ドイツ語……?」
見事に撃沈した。そして確信は確実になった。
適当に返事を誤魔化す薫子を怪訝そうに眺める五百青年は、薫子の話したカルツォーネの言語の意味を全く理解していなかったのだから。
やはり、彼はレアンドラが恋い焦がれたエドヴィン自身ではなかったのだ。ただ、魂が同じだけだった。魂が同じだけの、別人だった。
そうはっきり自覚した途端、憑き物が落ちたように薫子は意識がクリアになった。
薫子は、頭のどこかで期待していたのだろう。自分自身がそうだったように、他の生まれ変わりのひとも記憶があるのだと、人格はそのままだと。
そして、変わらぬままの彼を見て、彼だと錯覚していたのだろう。
はっきり自覚した今は、五百青年にはもう感じないのだ……あの場所での再会のときに確かに感じた、恋に落ちた気持ちが。
薫子はレアンドラだ。レアンドラが恋い焦がれたのはエドヴィン。レアンドラである薫子は、やはりエドヴィンを求めていたのだ。そしてエドヴィンでなかったとわかれば、不思議と気持ちがさめた。
(ならば、今度こそ)
ならば、今度こそ。今こそ、悪縁を断ち切ろう。
薫子になってもレアンドラが恋い焦がれるエドヴィンは、もうどこにもいないのだから。
薫子は、再び失恋をした。
恋い焦がれるエドヴィンには、もう二度と会えないのだから。
五百青年と別れ、薫子は家の鍵を閉めて歩き出した。気分転換に、早朝の散歩でもと思ったのだ。
そして数分ほど歩を進めたところで、薫子は呼び止められた。
『ちょっと、待ちなさいよ』
――故国カルツォーネの言語で。




