第弐章
1,
聖地、と呼ばれるその場所は、かつては水も涸れ果て緑も生い茂ることの無い、不毛の土地だったという。しかしある時から其処は、聖地と称されるようになった。神殿が建設された年である。その年を境に、この地は肥沃な大地へと変じた。これを人々は『玉繭神』の恵みという。だが実際のところ本当かどうか確かめる術はない。しかしこれが偶然でないことは、誰の目にも明らかだった。
神殿の内部は、一様に暗い。所によっては白昼から灯りを点していたりする。それは神殿に窓が殆ど無いことに起因しているのだが、その理由を知る者は神官長の他にいない。当の神官長は神殿に窓が異様に少ない理由を防犯のためだと言い張っているが、この話を信じている者は神官の中にもいない。
その日は神官騎士団の入団式があったためティアリスは珍しく、神殿東部の区画にある神官騎士団の兵営を訪れていた。いつもは兵営の雰囲気が厭で滅多にこの場所を訪れることはないのだが、入団式ともなれば巫女が出席しないわけにもいかない。
薄闇の中、松明の煌々とした炎だけが唯一の灯りだった。広い室内に、松明はたった四つだけ。しかも窓らしき窓はない。壁に沿って小さな四角い穴が幾つも空いてはいるものの、明かり取りの役割は殆ど果たしていない。もともとそんな役割を持たせる気もなかったのだろう。
ここは神官騎士団の兵営の中でも最も広い大広間で、同時に神殿内で最も暗い場所だった。
「…」
ティアリスは暗い室内に満ちる異様な雰囲気に呑まれて身動き一つできず、大人しく椅子に座っていた。心なしか、気分も悪い。
「巫女様、どうなされた?辛そうなお顔をなさっておいでだが」
訊ねたのは、隣に座っていた団長のアーネスト=ウォールスティンだ。
「何でもないよ。平気」
「それならば良いが…」
彼は一見、とても騎士などには見えないような優男なのだが、実力はかなりのものらしい。そういった点ではミレーナもアーネストも似ていたが、性格は正反対だと噂に聞いていた。ティアリスも実際に彼に会うのは儀式や何かのときぐらいで、私的な会話は殆どしない。
正義感に溢れていて神官長への忠誠心も篤い一方、融通が利かず厳格。ミレーナや神官たちのアーネストに対する評判は、あまり良くない。ただ若い神官たちからの支持は圧倒的だった。
若い神官たちがまるで狂信者のように彼に尽くしている様子、ティアリスにはそれが滑稽に見えた。
――強すぎる正義感や忠誠心は、時に狂気の如く人を盲目にするもの。己の信じる正義の為に、犠牲を払うことも厭わなくさせるほどに。
そうして気付いたときには、道を外れてしまっている。
アーネストの狂気は全てを巻き込んで、道を外れようとしていた。
2,
入団式が終ったあと、ティアリスはミレーナと共に神殿の中庭で談笑していた。他の多くの騎士たちも中庭に雪崩れ込み、一時その場は宴会場と化した。幸いなことに厳格な団長アーネストは神官長の許へ行っているため、叱るものはいない。仕舞いにはどこからか酒肴を持ち出してきた者もいて、そのうち本当に宴が始まってしまった。
ティアリスは賑やかな饗宴の中、一人きりでぽつんと立ち尽くしていた。ミレーナは神官たちと飲み比べをしているため、側にはいない。その上ティアリスはこういった賑やかな場には慣れておらず、どうしたものかさっぱり分からない。
そんなとき、ティアリスは彼を見つけた。
血のように赫い瞳と、真っ黒な髪。年の頃はティアリスとそう変わらないようなのに、どこか大人びて冷めた表情をしている。
ティアリスはその少年を遠目に見た瞬間、奇妙な既視感と同時に言いようのない恐怖感を覚えた。胸の奥が不安でざわめいて、息が止まりそうになる。
ティアリスは必死に恐怖を抑え、近くにいた神官を呼び止めて問う。
「…あの、あそこにいる彼は?新しい団員か何か?」
「…巫女様、それよりミレーナさんがすごいんですよ。酒豪ってやつですかね。三人抜きですよ」
神官は敢えて問いを無視したように見えた。
「話しを、逸らさないで」
できるだけ強い口調で言い放つ。慣れていないせいか威厳はないが、それは功を奏したようだった。
「…巫女様、あいつには関わらない方がいいですよ。あいつは鬼神の子なんだそうで…」
神官は恐る恐る語った。
彼はアルミナ帝国とヴァルザ央国の戦乱で両親を亡くした孤児だった。故郷の村は焼き払われ、彼以外の村人は皆殺しにされた。しかし幼かった彼は鬼神のごとき恐ろしい力で、自分を殺そうとした軍の連隊を壊滅に追い込んだ。その後、恐ろしがられて引き取り手のいない彼の噂を聞きつけたミレーナが、彼を引き取って養育したのだという。
「ミレーナが…」
それを聞き終えて、ティアリスは驚きと共に呟いた。
ミレーナに彼の話を聞いたことはなかった。一度もそのようなことを、言ってはいなかった。
隠していた理由は分からないが、きっとアーネストか誰かに危険視されて彼の存在を隠していたのだろう、と神官は付け加えた。
ティアリスはあの少年がひたすらに恐ろしくて、ミレーナを中庭に残したまま自室に戻った。
黄昏の残照が差し込む窓辺に佇み、静かに息を吐く。
なぜ初対面の彼が、あんなに恐ろしかったのか。そもそも顔も見たことのない彼に、なぜ既視感を覚えたのだろう。それともどこかで一度、見えたことがあったのだろうか。
そんな風に悶々としているうち、やがて夜が来た。
ティアリスは気分が優れないと言って夕餉も食べず部屋に閉じこもり、誰も入ってこれないように鍵を掛けて眠った。
夜半、ティアリスは窓から差し込む弱々しい月明かりで目を覚ました。早くに眠ったためか頭は冴え渡ってしまい、再び眠る気にはならない。
仕方なくティアリスは眠るのを諦め、書棚から本を取り出し窓辺の椅子に腰掛けた。
見上げると、窓の外には星の海が広がっている。どうやら今日は満月らしく、真ん丸い白銀色の月が微笑むように聖地の街並みを照らし出している。
「…」
無言で月を見上げていた、その瞬間。
黒い巨大な影が、月を横切った。錯覚かと思ったが、それは二度三度と現れる。大きさからして鳥ではない。しかもよくよく目を凝らして見れば、それは巨大な狼の姿をしていた。背には蝙蝠のような翼が生えている。
異獣、と、ティアリスは小さく呟いた。
異獣は人間に仇なすものとして、古来より存在してきた。その起源も生態も、何もかもが謎に包まれた種族だが、彼らは人間の肉を糧として生きている。ゆえに人間の側は彼らを敵と判断している。
異獣に理性はないが、中には言葉を解し知恵を持ち、楽しみとして人間を喰らうものもいるらしい。しかし大抵はただの猛獣に等しく、その行動理由も食糧を追い求めるがために過ぎない。
だが彼らにもたった一つだけ、掟が存在する。それは聖地を侵さないことだ。聖地に異獣は現れない。だから『玉繭神』の巫女はこの聖地の神殿に暮らすよう義務付けられている。
――けれど月明かりに浮かぶあの影は、紛れもない異獣。ティアリスは暫く呆然として、空を翔けてゆく異獣を見つめていた。
するとその背中に、見知った人影があるのを見つける。
それは、あの赫い瞳の少年だった。
つづく