夏が来た
七月の終わりになると夏の県大会が開催されます。私たち三年生にとってはこれが中学生活で最後の大会となります。そんな大事な大会ですが、今まではあっさりと負けて「ああ、残念だったね」で終わるのが常でした。そして私たちもまたそのように終わるのだろうと思っていました。
しかしそれはもはや過去の話。私たちは生まれ変わったのです。まずは一学年下の転校生、辻原友里さんによって。そして辻原さんに影響を受けて「変わりたい」という明確な意志の下で今までにないほどの練習を積み重ねてきた私たち自身によって。もう春のように「辻原さんがいるから私たちが何もしなくても勝ったも同然」などと惰弱な考えを持つような過ちは繰り返しません。そしてそう言えるだけの練習は積み重ねて来ました。
私たちが「鍛えられたなあ」とまず実感したのは体重増加という事実からでした。まあこれは太った言うか筋肉がついたという感じで、見た目でいうとむしろシュッとしたほどですし、園山さんなどは「体型が格好良くなった」と喜んでさえいました。確かにくびれとか凄く出ていて、ちょっとうらやましい気もします。私だってまったくないわけじゃないんですがね。逆に見た目も明らかにボリュームアップしたのは斉藤さんと柳さんでした。二人とも華奢でしたからね。まさに効果覿面という奴でした。
そう言えばこの二人は途中で涙を流しつつ「もうこんな辛い練習は嫌」と投げ出しそうになっていました。あれは六月の「今日は一日中雨が降る模様です」という気象予報士の発言に体よく騙されたある日でした。確かに午前は雨がざんざんと降りしきっていましたが、午後になると黒雲はいずこへと消え去り、雨を含有していない白っぽい雲が空を覆いました。
私の「もう雨は降ってないわね。さあ、ランニング行くわよ」という号令に対しても「あーあ、もう少し雨雲が頑張ってくれたらなあ」「今からでも雨降ればいいのに」などという声が漏れて、どうにもふにゃっと湿った雰囲気が横行していました。そりゃあ私だってちょっと楽というか楽しい筋トレだったらなあという気持ちがないわけではありませんでしたが、こうなった以上は仕方ないので諦めました。大自然の力を前にしては人智如きが出る幕はありませんからね。
「天気に文句言ってもしょうがないでしょ。さあ、行きましょう!」
「はーい」
かくして私たちは濡れたアスファルトを踏みしめて海岸へと足を進めたのですが、心なしかいつもより掛け声が小さいような気がしました。どうしよう、ちょっと注意すべきかしらと思った瞬間、辻原さんが「どうしたのみんな? いつもより元気がないみたいだけど」と声をかけてくれました。まさに天佑。普段は意外と口数が少ない辻原さんですが、それだけに一度口を開いた時の言葉にはえも言われぬ説得力が生まれるというものです。
便乗する形で私も「そうね。そりゃあ気持ちは分かるけど、そろそろ次の大会も迫ってきたんだからここで頑張らないと」と走りながら問いかけました。すると、「もう嫌なのこんなの!」という斉藤さんの叫び声が響きました。物静かな斉藤さんが見せた意外な行動に驚いて振り向くと、斉藤さんはボロボロと涙を流しつつ地面に座り込んでいました。
「ど、どうしたの斉藤さん!?」
「だってそうでしょう? 日常あってのクラブ活動なのに今の練習は厳しすぎるわ! 主客転倒よ!」
「私もそう思います! 練習で疲れるから授業だって全然身が入らないし、私はただサーブが打てれば良かったのに、このままじゃ落第しちゃいます!」
斉藤さんの慟哭に共鳴したのは柳さんでした。確かに柳さんは自分でも「運動神経はないほう」と公言していて、ジャンプの練習でも武智さんによく「もっと高く跳べ!」などと怒鳴られていました。陽気なあの子だって何も考えていないわけではないのは人間であるがゆえに当然でしょう。思えば私が頑張れと言ったのは張り詰めていた心の糸をプツリと切るような無責任な所業だったのかも知れません。ちょっと反省しつつ、でもこのままではいけないのでどうにか説得を試みました。
「で、でもねえ、武智さんだって何も私たちが嫌いだからあんな練習を課しているんじゃないわ。そう、期待されているのよ」
「期待されてるのは辻原さんだけでしょう?」
「そうですよ。第一私たちなんてこれまでろくに練習してなかったのにいきなり次の夏にどうにかしようなんて発想がそもそも無理だったんですよ!」
「だから、辻原さんだけじゃ勝てないってのが春の大会でしょう。もうあんな情けない負け方はしたくないって思ったから練習だって今までとは違ってしっかりやるようになったんでしょう。ねえ、辻原さん?」
このままでは埒が明かなそうだったので辻原さんに助け舟を出してもらおうと話を振りました。しかし辻原さんは表情ひとつ変えず、冷たささえ感じる声でこう言い放ちました。
「私だって人の心を操ることは出来ないわ。やりたくないならやらなければいい。それは先輩やともちゃんの自由でしょう」
割とドライな言葉に私は次に用意していた言葉を放棄せざるを得ませんでした。さらに辻原さんは追い討ちをかけるように「練習だって毎日出ないといけない決まりなんてないんだし、風邪を引けば休みになるわ。無理だと思えば帰ればいいのよ」などと続けました。気まずい沈黙がしばし流れました。
「まあそれならそれでいいんだけどさ、でも私は行くわ。武智さんの指導は間違っているとは思わないもの」
「私もそのつもりよ。何としても次は勝ちたいもの。それは皆同じはずでしょう」
三分ぐらい続いていた無音状態を切り裂いてくれたのが園山さんと三上さんの言葉でした。二人とも、春の悔しさを忘れてはいませんでした。だから勝ちたいと強く願っていたのです。これに乗って私も言葉を続けました。
「私だってそうよ。でも確かに辻原さんの言う通り無理強いは出来ないわね。肉体が壊れそうになったら休んでも仕方ないわ。そうね、斉藤さん、それに柳さんは風邪を引いたのよ。だから今日の練習は休むけど、また今の風邪が治ったら練習に戻ってくればいいんだから」
中途半端な妥協案でひとまず問題を終わらせて私たちは再び走り出しました。その場に残った斉藤さんと柳さんはどんな表情をしているんだろうと想像するだけで肉体が硬直しそうになるほど恐ろしく、とても振り返る勇気が出ないまま、ただ一心に海岸を目指しました。
この日の練習はいつもより身が入りませんでした。話の流れで斉藤さんと柳さんを斬るような事になってしまいましたが「本当にそれで良かったの?」と自問自答を続けて夜も眠れないほどでした。
翌日の練習は参加者が半減していました。ああ、やはり口には出せなくても内心では「こんなきつい練習ついていけない」と思っていたのでしょう。このままでは初勝利どころかチームの空中分解は不可避。キャプテンでありながら何という事をしてしまったのでしょうか。出来る事ならば人の目をはばからず泣き喚きたい心境でした。
「大丈夫ですキャプテン。私たちは私たちの出来る事を続けていけばいいんです。ともちゃんだってバレーが好きなんだから、きっと伝わります」
「……そうね。ありがとう辻原さん」
あまりに暗くてキャプテンにあるまじき表情の私を見かねた辻原さんが励ましてくれました。空元気だろうがないよりましです。表情を整えると「さあ、ランニング行くわよ!」と、誰よりも自分を奮い立たせるために声を張り上げました。
その日の練習も終わり、制服に着替え終えてまさに校門を出ようとする時、ちょうど柳さんも校舎から出たのが見えました。私は門の外で少し待って、柳さんが門を通ったら偶然を装って声をかけました。柳さんは顔を背けましたがそもそも帰り道は大体一緒なので構わず寄って行きました。
「今帰るところなの?」
「はい。今日はちょっと図書室に行ってましたから」
「そうなんだ。そういえばさ、ともちゃんはどんな本を読むの?」
「ええ、外国の小説とかそういうのです」
オレンジ色のアスファルトに長い影が二つ寄り添いながらゆっくりと進む中で、私と柳さんはとりとめのないお話を続けました。ただバレーに関するお話はまったくしませんでした。
そもそも柳さんとは近所の顔なじみで、柳さんのお姉さんは私の同級生なので妹の柳さん、という言い方も何かややこしいので今に限っては下の名前からともちゃんと呼称する事にします。とにかく、妹のともちゃんはもう十年以上の付き合いとなります。その付き合いの中で先輩後輩とかキャプテンと部員なんて関係はまるで最近の話です。だから、今回呼びかける時も「柳さん」ではなく「ともちゃん」だったわけです。幼い頃と同じように。
「最近出てきたでしょう、ファンタジーゾーンとか言う五人組の」
「あれはないと思います!」
「ともちゃんもそう思う? 私もないと思うわ。頭でグルグル回るところとか完全にギャグだし」
でもすぐに行き詰まりました。心の中で本当に言いたい言葉を使わずして会話を続けるのは本当に難しい事です。適当に「夕陽がきれいね」とか言うのもどうにも場が持たないし、試験にももう少し間があるしと色々考えているうちにもう私の家が近づいてきました。太陽はわずかな時間の隙間に山の彼方へ沈んでおり、今の空は仄暗い青に染まっていました。
「ああ、もう着いたのね。話してるといつもの道もあっという間ね。それじゃあ、また」
「はい! それと明日は練習行きますから! 色々考えたけどやっぱりもっと頑張らなくっちゃって今はっきりと悟ったんです! 迷惑かけてごめんなさい」
「そう、それなら良かったわ。私こそあの時はごめんね。本当は私がまとめていないといけなかったし、今だって柳さんに色々言う事はあったはずなのに」
「キャプテンは悪くありません! ただ私が弱かったからキャプテンの優しさに甘えて逃げようとしていたんです。斉藤先輩もきっと明日は来ますよ」
「そうだといいけど。それじゃ、明日は部室でね!」
「はい!」
唐突に部活の事を切り出されたのでさすがに驚きましたが、柳さんも心の中に言い出せなかった言葉を溜めていたんでしょう。そして柳さんは私より勇気を持っていました。そして翌日には斉藤さんも「やっぱりバレーをしていないと駄目だって気付いたから」などと言いながら部室に戻ってくれました。それ以外の部員もしだいに集まってきて、どうにか一件落着となりました。本当に良かった。
この話に関して私が何をしたというわけでもないのですが、とにかく柳さんと斉藤さんはこの数日の遅れを取り戻すかのように熱心に練習に励みました。そのお陰で、ここ数日で見る見るアスリートっぽい体つきになってきました。やっぱり本当に強いアスリートは肉体や所作も美しいものですから、見てくれだけを気にした猿真似ではなくナチュラルに滲み出るものがそうであれは、それは間違いなくレベルアップしたという証拠でしょう。
立ち姿やサーブ、スパイクなど一連の動作の滑らかさもそれまでとはまったく違うものになってきました。春のような「掃き溜めに鶴」という状態ではなく、多少は濁っているかも知れませんが一応河川に鶴が舞い降りたぐらいの体裁を整える事が可能になったのです。
さて、今日の一回戦の相手は安田中と当たります。この安田中は元々私たち宮床中と同じレベルの実力で大体毎年一回戦で敗退していました。そういう意味では私たちの進境を計るにはちょうどいい相手と言えるでしょう。さて、私たちの先発は以下の通りです。
BR 6 柳
FR 1 天沼
FC 2 園山
FL 7 辻原
BL 4 斉藤
BC 3 三上
まあメンバー自体は春とまったく変わっていません。しかしメンバーの心構えはまったく違っています。そして実力も。サーブ権は安田中が得ました。相手が放ったサーブを斉藤さんがレシーブし、私がトスをして辻原さんが強烈なスパイクを相手コートに叩き込みました。まるで特別なプレーもない、滑らかな流れからあっさりと先制に成功しました。
「サーブしっかり! キャプテン」
「分かってるわ辻原さん。それっ!」
右手に持ったバレーボールを軽く空に放り投げて、コンパクトに振り下ろす左手で力強く捕らえる。ボールは糸を引いたように真っ直ぐ相手コートの右隅を刺し、また私たちに得点が入りました。こんな展開を繰り返すうちに気付いたら得点は16対4と、とんでもない差がついていました。
「凄いわ! まるでベルトコンベアーで運ばれるように得点が積み重なっていく!」
「そ、そうね。こんなの初めてだわ」
「この勢いならもしかすると……」
「待って待って柳さん! それ以上は言っちゃ駄目よ」
「そ、そうですね。でも、ああ、変な興奮してきちゃいます」
私は柳さんを制しつつもその言い回しは柳さんと同じくらいに興奮を抑えられない、はやる気持ちが見え見えでした。だってこんなにリードしたのは初めてでしたから。それはもう誰もが「これは行ける! 勝てる!」と思っていました。しかし春も同じ事を思いながら結局悲しい結果に終わったので、最後まで邪念を捨てて臨もうと決めていたのです。まあ勝利という言葉を必要以上に意識しすぎるのもまた邪念なのですが。
試合に関して、第一セットは25対9で圧勝。第二セットも途中までは凄まじい勢いでポイントと奪い続けてあっという間にセットポイントまで到達しました。しかし具体的な勝利を目の前にするとどうしても怖気づいてしまい、三上さんがスパイクをネットにぶつけるなどしょうもないミスを続けてしまいました。あと少しで勝てると思うと、私も全身が震えてうまく肉体が躍動してくれませんでした。
「こういう場面だからこそリラックスが大事よ! 普段通りしっかりレシーブしてトスを上げて、そしてアタック。特別なプレーは何もいらないし、練習通りで行きましょう!」
緊張しすぎている姿を見かねたのでしょう、辻原さんがアドバイスを送ってくれました。このタイミングが良かったので私たちの肉体に張り付いた呪縛は失せました。相手のサーブを柳さんが受けて私がトスを送り、そして最後はやはり辻原さんが誰よりも高いジャンプからスパイクを叩き込んで勝利を決めました。
「やった、やったわ! 初めて勝てた!」
「今まで頑張ってきて良かった……」
これが勝利の味なのでしょうか。皆は誰彼なく抱き合い、涙もろい斉藤さんなどはその瞳から熱いものがこぼれていました。そして私もかなりの高揚感が心の中で湧き上がってきつつもそれ以外の、なぜかどこか醒めたような感情も確かに胸の奥で感じられました。まだ戦いは終わっていない。むしろこれからだと誰かに言われているようでした。そっと辻原さんのほうに顔を向けるとやはり同じような表情をしていました。