転校生
それは季節外れの雪のようにはらはらと零れ落ちた桜の花びらがアスファルトを薄紅色に染めていたあの日から始まるお話です。ここは三重県の伊勢湾沿いにある小さな町にある宮床中学校。今年などは一年生の女子が二十三人で、吹奏楽部やらテニス部、それに陸上部なんかとパイの奪い合いをしたわけですが、私たち必死の勧誘活動が実って大量八人ものルーキーを獲得できました。やったね。
体育館では入部届けを出してくれた新入生の皆さんが加わって最初の練習が今まさに始まろうとしていました。体操服に身を包んだ初々しい肉体たちに先の事も分からない緊張した面持ちで私を見つめられると私も感染しそうになりました。一度大きく息を吐いて落ち着くと、それからは堰を切ったようにこの時のために集めておいた言葉たちを解放しました。
「私が宮床中学バレーボール部キャプテンの天沼笙です。ええ、まずは多くの部活の中からバレー部を選んでくださり、本当にありがとうございます。私も小学生の頃は何もやっていなかったけど中学からバレーを始めた口ですし、未経験者でもやる気さえあればいくらでも試合に出る事はできます。最終的に勝つことが出来ればそれが一番いいですが、まずは怪我をせず、みんなで楽しくバレーをして行きましょう」
お喋りはそんなに得意ではない私ですが第一印象は大事ですから、出来るだけ丁寧にゆっくりとした口調で、優しそうな人だと思わせるような話し方をしました。見た目で言うと、主にきりりとしすぎた造形の目つきが原因で「性格がきつそう」「怒ってる」と言われる事も多いですからね。髪も短いほうですしやや地黒なのもそれを助長しているようです。「そうじゃないよ」と声を大にして言いたいのです。
次に行われた新入部員の自己紹介では皆さんそれなりにリラックスした声だったので少し安心しました。なお部員は全員バレー未経験者で、体格も「数日前まで現役小学生でした」という事実を強く認識させる、ワイヤーのように華奢な四肢を引っさげたとてもかわいらしい子ばかりでした。一連のスピーチが終わるとまずアップとしてランニングをしましたが、この時点で遅れを取る新入部員もちらほらと見られました。
続いて、柔軟体操を経てバレーボールに必要な動きを覚えるための様々なステップ、後ろに走ったり横に動いたり、そういうもののやり方を教えました。新入部員は慣れない動きに四苦八苦しており、これが終わったところで私は一度休憩を指示しました。
「ふう、先は長そうね」
分かっていた事ではありますが、即戦力になりそうな人材は皆無。もっともこの町はそれほどスポーツが盛んでもないし期待するほうがおかしいのですが、それでも思わずため息をついてしまいました。そんな私を見ていた副キャプテンの園山亜衣さんがこちらに向けて足音を響かせ近寄って来ました。
「とりあえずお疲れキャプテン。それにしても八人かあ。今年こそ何とか一勝はしたいわね」
「そうね、園山さん。何とかうまく育ってくれたらいいけど」
「でもあれを見る限りじゃ一本立ちするにしても私たちがいなくなった後になりそうね」
「ええ。でもまあ最初は誰でもそうよ。大体園山さんだって最初はあんなもんだったでしょ」
「言うわねえ。最初のサイドステップでいきなりこけたくせにいけしゃあしゃあとキャプテンに任命されたのはどこの誰よ」
「もう過去の話よ。今はしっかり出来てるわけだしいいじゃないそれで」
その時、何の気なしに扉のほうへ目をやると制服姿の女子が一人こちらを見つめているのを発見しました。数年前に人数不足が原因でバスケ部が休止になった現状、体育館には私たちバレー部しかいません。ならば彼女の目的は私たちバレー部にあるのでしょう。
しかし彼女は誰なのでしょうか。私たちバレー部の部員は全員集合していると確認済みですし、新入生ならとっくに合流している頃合でしょうに。園山さんと一緒にいぶかしがっているとキンキン響く高音が背中を突き刺しました。
「あれは同じクラスにいる辻原友里さんです。ほら、この春に転校して来た」
「わっ! 柳さんね! ああ、びっくりしたわ。いきなり話に入って来るんだから」
「あんたは声が大きいんだから、少しは音量調整しなきゃ」
「すみません先輩。でもあれは辻原さんですよ。同じクラスですし間違いありません」
いつの間にか私の後ろに立っていた一年後輩の柳知佳さんがすっと割り込んで来ました。私たちの宮床中学はそれほど規模が大きくない学校なので、一年生から三年生まで誰もがほぼ全員の顔と名前を知っているのが普通です。私も当然その知識はあるのですが、「この春、二年生に辻原という転校生が入った」という情報だけインプットされていたものの、実際に顔を見たのはこれが初めてでした。
さて、辻原友里さんの見た目による第一印象を正直に申しますと、信じられないほどに美しくてこの世のものとは思えないほどでした。透き通った青い瞳は聡明さに満ちており、春を彩る桜の花びらをそのまま持ってきたかのように紅く染まる頬、小さな輪郭を柔らかく包む艶やかな黒髪など私にないものばかりでした。青いブレザーに赤いリボンはまぎれもなく私たちの制服なのですが、そんな見慣れたはずの制服でさえもモデルが違うとまるで別物に見えてきます。
どこかの神話で古代、神様が泥から人間を作る時に最初のほうは丁寧に一体ずつ作っていたのですが途中から面倒になったので縄を引きずって適当に飛び散った泥を人間にしたという話があったような気がしますが、辻原さんは前者の代表なんでしょうね。立ち姿もピシッと芯が通っていますし、とにかく人体として作りこみのレベルが違います。
「そう言えば彼女、バレーに興味があるのかしら?」
「その辺はあんまり話した事ないんですけど、じゃあちょっと聞いてきますね」
柳さんはそう言って彼女の側へと走りましたが、そこでまた世にも恐ろしい光景が現れました。柳さんはバレー部の中でも色白なほうでしたが、そんな柳さんでさえ辻原さんの横に並ぶとひと夏を越してきたかのように肌の色が濃く見えるのです。それと辻原さんはかなり高身長だと判明しました。柳さんとは顔が一つ分ぐらい違いましたから。
さて、柳さんは「うちでは絶対何かの部活に入らないといけないから」「バレー部は弱いし楽にレギュラー取れるからお勧めよ」などと言いつつ辻原さんを体育館の中へ引っ張ってくるのに成功しました。さすが誰とでも友人になれる柳さんの面目躍如です。ただまあ私たちのバレー部が弱いのは誰もが知っている事実ですが、柳さんにはもっとこう手心と言うか、言い方をちょっとでも考えてくれるとなお良かったのですが。まあ嘘をつけない人ですし仕方ないとも言えますが。
もっとも柳さんとしてもこれを私に聞かれたのは想定外だったかも知れません。実を言うと、私は人よりも耳がいいらしいのです。それを人は聖耳と言いますが、この聞こえ方が私にとって生まれてからずっと当然だったので凄いと言われても実感はありません。
まあそれはともかく、柳さんがうまく言いくるめて連れてきた辻原さんですが、遠くから見ても美人と分かるのに近くに来るとあまりにも輝きすぎているので直視すると目が潰れそうなほどでした。目線の高さはクラスの女子で四番目に身長が高い私よりも顔半分ほど高く、それでもすらりとした体格のお陰でそこまで威圧感は感じませんでした。
「あなたが辻原友里さんね? 柳さんから話は聞いたわ。私はバレー部キャプテンの天沼です。あなた、バレーに興味はあるの?」
「はい。小学生の頃からやっていましたから」
初めて聞いた辻原さんの声は草原を駆け抜けて福音をもたらすベルのように澄んだ美しいソプラノで、私は思わず聞きほれてしまい次の言葉をなかなか継げませんでした。でも私がボーっとしていると話が進まないので気を取り直してどうにか言葉を続けました。
「そうなの。それならもう早速入部してくれると嬉しいなって思うんだけどまあ無理強いは出来ないし、とりあえずは今日の練習をよく見学してくださいね」
「はい、そうします」
そう言うと、辻原さんはくるりと振り向いてから奥にある舞台の右端に腰掛けました。このような何気ない、どうでもいいような仕草のひとつとっても無駄がなく流れるように洗練されており、生まれ持った優雅さが感じられます。下級生のいるほうからため息が漏れる音が聞こえたので私は「さあ、練習再開よ。しまっていきましょう」と自分に言い聞かせる意味も込めていつも以上に声を張り上げました。
「はい、次はサーブの練習をします! 皆はコートの左右、二手に分かれて!」
「はい!」
「ええ、サーブはこのエンドラインの外から打つのは多分知ってると思いますが、まあこういう風にやります。それっ!」
大雑把な説明とともに模範演技をやってみましたが、ちょっといい格好しようと思って慣れないジャンプサーブに走ったのは間違いでした。左手から勢いよく放たれたボールはネットに当たり、ポンポンと力なくバウンドしながらこちら側へ跳ね返ってきました。四方八方から放たれるしらけた視線が私の体に突き刺さります。私もまた下手なのですからこのような失態の一度や二度、三度や四度なかったとは言わせませんが、全然模範にならない模範演技は我ながらさすがに寒かったですね。
「ええ、これが悪い例。こうならないように、まずは確実に相手のコートに入れる事が大切です。さあ、打って!」
咳払いなどしてごまかしつつ、練習を開始させました。ボールをある程度自由に触れる喜びから新入部員たちはバシバシとボールをしばきあげますがそこはやはり未経験者、コントロールはまるでありません。一番確実と言われるアンダーハンドサーブでもコースが大きくそれるのですから。
「今のはちょっと力入りすぎたわね。もっと肩の力を抜いて」
「おっ、うまいうまい! まず確実に入れるのが大事よ」
「打つポイントはもう少し前にしたほうがコースも安定するんじゃないかな」
私たち上級生は自分たちのサーブ練習をしつつ、新入部員に打ち方の指南をするという任務もこなしました。まだ最初なのでアドバイスも簡単な、それこそ誰でも出来る類のものですが新入部員たちは一日でも早く自分のものにしようと熱心に聞き入っていました。
しかし私たち上級生の実力も高が知れていますからね。ただでさえ自分たちの力量が低い中で他人の心配をしながらとなると、まあ精度も低くなるというものです。そんな中、一番端で私とサーブを打ち合っている園山さんがコースを誤って舞台のほうへと強いサーブを放ってしまったのです。ボールは見学中の辻原さんに向かって一直線に飛んでいきました。
「ああっ! 辻原さん危ない!」
私が叫び終える前に辻原さんは舞台からするりと飛び降りて、猛烈な勢いで飛んできたボールに対しても慌てずに素早く両手を組み合わせて腰を落とし、正確なアンダーハンドレシーブで私にボールを送ったのでした。そのあまりにも滑らかな挙動に私は鳥肌が立ちました。今の動きひとつだけでもこの空間に存在する誰よりも傑出した技量の持ち主である事は一目瞭然だったからです。
「辻原さん! あなたやっぱりバレー部に入るべきよ! そうでしょう?」
もうこうなったら見境ありません。私は練習も中断して一目散に駆け出してまくし立てました。辻原さんは私の剣幕に押されながらも表情を変えずに「ええ、最初からそのつもりでしたから」と返事したので安心しましたが、はっと気付くと「バレー部キャプテンが右も左もわからない転校生を脅して入部させようとしている」みたいな絵になっていたので慌てて握っていた両手を離しました。すると今度は逆に辻原さんのほうから握り返してくれたのです。
「でも、一度こうして練習を見てみたかったから。もう明日からは練習に参加するつもりなのでよろしくお願いします天沼キャプテン」
「ええ、こちらこそよろしくね辻原さん」
翌日、言葉通り辻原さんはバレー部の一員となり、練習にも参加するようになりました。やはりと言うべきか彼女の技量は凄まじく、同じ道具を使っているはずなのに私たちとはもはや別競技をやっているかのようでした。
目を閉じてでも四隅を的確に突く事が出来る上に変化球も多彩なサーブ。一人で後衛全体を任せられるのではという程に守備範囲が広くて当然レシーブも正確そのもの。どんな悪いボールも正確なアシストに進化させるトスも惚れ惚れしますし、ダンクシュートが出来そうなほどに高いジャンプから繰り出されるスパイクは威力抜群。ボールをコントロールするのに四苦八苦している私たちって一体何なんでしょうと人生を考え直させるほどにレベルが違うのです。
「凄いわねえ辻原さん! どこでそんなテクニック覚えたの?」
「ええ、まあずっと好きでやってきましたから」
私たちからの羨望入り混じった追求にも笑顔を絶やさず答え、それがいささかたりとも嫌味にならないのも辻原さんの持つ人間的資質のひとつです。その瞳に正面から向き合えばサファイアのような青く強い輝きをギラギラと発しているように見えますが、夕暮れ時などにふと横から覗くとまるでガラス玉のように透き通っており、この世を憂う聖女のようでさえありました。
「ゴールデンウィークには大会があるから、まずはそこに向けて頑張っていきましょう」
今年こそはいける! 何と言っても私たちにはこの世の宝石を集めても足りないほどの輝きを秘めた素晴らしい人材を思いがけず手に入れたのだから。「大会よ早く来い」と願ったのは初めての事でした。次の大会は必ず勝てると、なぜかその時は確信していたのです。
「どうしたんだい笙ちゃん? ずいぶん嬉しそうだけど」
その日の夜、帰宅後。自分の部屋でくつろいでいる時に窓の向こうからガラスをノックする音とともに馴染みのある声が聞こえてきました。声の主は私の隣の家に住んでいる丹羽灯君でした。灯君とは幼稚園の頃からずっと同級生をやってきた、まさに幼馴染としか言いようがない関係の男です。部屋が隣り合わせなのでこうして直接お話をする事もたやすく、他愛のないお話をしたり宿題を見せ合ったりしてきました。と言うか宿題に関しては私のを灯君が写してばかりですが。
まあそういうわけで灯君は私にとって一番気の置けない親友と言えます。だから灯君には嘘偽りとかキャプテンとしての建前が入っていない率直な心を出せるわけです。それはこの時も同じでした。私は自然とにやけてくる顔を抑えず、はしゃいだ口調でバレー部での出来事を伝えました。
「ふふふ、そりゃあ大ニュースよ。私たちのバレー部もついに公式戦初勝利の日が近づいたんだから!」
「おっ、ナイスジョーク。ああ、それとももしかして負けすぎたからついに頭がおかしくなっちゃった?」
「ふん、馬鹿にしちゃって。今度は本当に本気なんだから。凄い子が入ったのよ! 辻原友里さんって言ってね、今まで東京にいたんだけどこの春に転校して来た二年生なのよ。これがもう凄いの何の! これで勝てないわけないってぐらい本当にうまいんだから!」
「ははは、そんなに凄いんなら今度の大会は応援にでも行ってあげようかな。ちょうど同じ日に同じところで俺の陸上部も大会あるし、賑やかしにはちょうどいいだろ?」
「そうね。あんたも一応男だし、それでやる気を見せる子だっているかもしれないわね」
「いつもみたいに行ってみたらもう敗退してましたってならない事を祈ってるよ! それじゃ、大会頑張って!」
「そっちもね。じゃあ、おやすみ」
灯君はついこの間まで私より身長が低かったちんちくりんのくせに意外ともてるらしく、まあ顔はそれなりにまとまってるとは思いますがね。ただ私に関しては付き合いが長すぎるからでしょうけど私を女だと思っていないようですし、私もあれを男とは思っていません。だから客観的にどうとは言えませんが、絶対性格悪いですよあれは。
それはともかく、ここ数日は興奮のあまり「おやすみ」と言われてもすぐに眠りにつけないような夜を過ごしています。それも全ては辻原さんが素晴らしすぎるプレーを毎日のように見せてくれるからです。彼女がいればバレーに関してどんな事だって出来そうに思えました。期待を胸に抱きながら流れる時は早く、気付いたら四月は消え去っていました。