プロローグ
少女は走っていた。
息を切らせ、ぬかるみに足を取られ、小枝や木肌で肌を傷つけ、なお走り続けた。
少女は逃げていた。
森の中をただ一人。
孤独と不安と戦いながら。
木漏れ日が差し込む森の中。
聞こえるのは少女の足音と荒い息遣いだけ。
少女の背後から、何かが少女を捕まえんと迫ってきていた。
それは人では無い。
その姿は蜘蛛によく似ていた。
だが、全長は2メートルを越えており、蜘蛛と呼ぶには語弊があった。
巨体が木々にぶつかる気配もなく確実に迫ってくる。
森に入れば逃げ切れる、甘い考えだったと今さらになって少女は気がつかされた。
一体どういった動きをすればあの巨体でそんな芸当ができるのか。
疑問は浮き上がるが、ただでさえ日頃運動不足な少女はすでに満身創痍。
背後を振り返る裕などはなく、ただひたすら走り続けた。
不意に少女の足が止まった。
目の前には切り立った岸壁。
少女の足では乗り越えることは不可能な高さだ。
一つ、大きく息を吸い込む。
もう駄目だという絶望か、もう走らなくて良いという安堵か、自然と口元に笑みがこぼれた。
振り返り、森の奥を睨みつける。
まだ怪物の姿は見えない。
首に下げていた小さな青い石のついたペンダントを強く握りしめた。
さあ来い化け物、最後まで私は抗ってやる。
それが虚勢でしかないことを少女自信知っていた。
しかしその瞳に絶望の色はない。
そして、それはやって来た。
靄のように虚ろな輪郭がゆっくりとこちらへ迫ってくる。
それは木々をすり抜け、足音もない。
近づくにつれ、虚ろな輪郭は存在を確かなものへと変えていく。
胴体から生えた八本の多関節の脚。
その姿は大蜘蛛といったところだが、その姿には二つの特徴があった。
一つは、本来蜘蛛には無い胴体と頭部の結合部分があること。
二つは、その頭部を含め、体がまるで人骨のようであること。
怪物はゆっくりと歩を進め、少女とほんの数メートルの距離まで近づいた。
その姿はもう靄でも虚ろでもない。
地面に脚を食い込ませ、その巨体相応の足音を響かせながら歩いていた。
少女は化け物を睨みつける。
化け物もまた、少女を値踏みするかのように虚ろな目で見下ろす。
最初に動いたのは少女でも化け物でも無かった。
それは、突然空からやってきた。
「唸れ!神無槌!」
それは一瞬。
巨大な槌が化け物に撃ち下ろされる。
突然のことに回避することもできず、化け物の体に槌がめり込んだ。
落ちてきたのは槌だけではなかった。
外套に身を包んだ女性。
槌の柄を握り締めていることから、この女性が巨大な槌を振るった本人だとわかる。
女性の後ろ姿は美しかった。
伸びた黒髪は腰の長さまであり、女性らしい華奢な体はとても5メートルはあるであろう巨大な槌を振り回すには不相応に思えた。
そして、その容姿には見覚えがあった。
「先…輩…?」