まさかの事態
「ほらほら。ボタンはちゃんと上まで締めた方がいいわよ、セレーノ」
夜の八時前。何を着ていこうか迷ったセレーノは、隣人であるアローネに服を見てもらっていた。正確には、今夜のことをヴェントから聞きつけたアローネが、自分も何かできないかしら、とセレーノの家に押し掛けてきたのだ。
「ほら、うちは娘ばかりだったから、セレーノが隣に越して来てくれた時は嬉しかったのよね。なんだか息子ができたみたいで」
そう言いながら着せ替え人形のようにどんどん服を着せていくアローネ。
そんな彼女に苦笑しつつも、セレーノはアローネのそんなおせっかいな性格が好きだった。
「そう言ってもらえて嬉しいけど、そろそろ出かけないと時間に間に合わないんだけどな」
「あら、もうそんな時間なの? そうねえ……。じゃあ、この黒のズボンに、おろしたての真っ白なシャツ。それにこのジャケットがいいわね」
渡された服に急いで着替え、セレーノは鏡の前で髪をブラシで梳かす。
すべての身支度をすませ、どう? とアローネに尋ねると、彼女はうっとりとした表情を浮かべて満足そうに言った。
「やっぱりセレーノはきちんと身だしなみを整えれば良い男よね。いつもはほつれたジーパンとか色あせたズボンなんかを穿いてるし、それにティーシャツかだらしなく着たワイシャツでしょ? おまけに絵の具はついてるし……」
「それは汚れてもいいように、わざとそうしているんだよ」
あら、そうかしら? とアローネは鼻でフンッと笑い、我が子を窘めるように言った。
「だったらせめてヒゲや髪の毛ぐらいはきちんとなさい。いつもヒゲはのびてるし、髪の毛だって寝癖がついていたのが一度や二度じゃないんですからね」
「ああ、わかったわかった。これからは気をつけるよ。さあ、もう出かける時間だから俺は行くよ。いろいろありがとう、アローネ」
これ以上アローネに怒られないうちに、セレーノはさっさと家を出て行った。
待ち合わせ場所であるチェレスティアーレ大聖堂の前まで来ると、そこにはすでにティコ・キアーロの姿が見えた。セレーノは片手を挙げて声をかける。
「やあ、おまたせ。まだ十分前なのに、早いね。仕事の方は大丈夫なのかい……わあ!」
目の前の彼女の姿を目にしたとたん、セレーノは驚いて思わず固まってしまった。
今日のティコは、アメリカンスリーブのショートドレスに、エナメル素材のハイヒールという出で立ちで、どちらも暗めのネイビーカラーで合わせられており、落ち着いた印象だ。
ショートヘアの黒髪には、小さめの白い花の髪飾りがその頭の上で可憐に花開いている。
いつも生地の硬そうな郵便配達員の制服で、頭のてっぺんから爪先まで身を固めているため、女性らしい姿の彼女を見るのはこれが初めてである。
「おかしいですか……?」
口をぽかんと開けたまま一言も発しないセレーノに、ティコは自分がおかしな格好をしてきてしまったのではないかと不安になった。
「いや、そんなことないさ。驚いたよ。いつも制服姿しか見ていなかったから、その、とてもきれいだよ」
目の前でもじもじと恥ずかしそうに俯くティコに、セレーノのもやや緊張しながらそっと手をさしだした。
「さあ、行こう。きっと君も気に入ってくれるリストランテを見つけたんだ。店自体は小さなものなんだけど、ヴェントのお墨付きだから味の方だってきっと抜群だよ」
暖かなオレンジ色の街灯の下、チェントロの中心街から離れ、細い路地を通りながらセレーノはティコをヴェネルディへとつれていく。
道中、いろいろとティコに話しかけたのだが、不思議と彼女は足下を見たまま、そうですね、とか、そうでもないです、といったかんじで、あまり返事をしてくれなかった。
(仕事で疲れているのかな……)
どうせなら彼女の休みの日に誘えばよかった、と気が利かない自分に心の中でそっと溜め息を吐いた。
会話があまりはずまないまま、気づけばあっという間に二人はヴェネルディの前までやって来ていた。
「さあ、着いたよ。ここが美味しいと評判の店、ヴェネルディだ!」
何はともあれ、これは彼女へのお詫びの食事である。今日はしっかりティコを楽しませなくては……。
そんなことを考えつつ、セレーノは笑顔で店の紹介をする。
しかし、ティコはハッと顔をあげて目の前の店を見ると、眉間に皺をよせて申し訳なそうな顔をした。
「あれ? どうかしたのかい」
もしかしてこの店には来たくなかったのかと不安に思い、ティコの顔を覗き込むように尋ねたその時、
「お待ちしておりました、コルディアーレ様。あれ?」
カランという乾いた音ともに開いた扉から、昼間の若いカメリエーレが姿を現した。するとカメリエーレはセレーノの後ろに立つティコを見て驚きの声をあげた。
「おい、ティコじゃないか! デートはもうすんだのかよ。さっき出て行ったばかりだろう? あ、わかったぜ。からかわれたんだろう。お前があまりにも愛想がない女だから、野郎どもに賭けのネタにされたんだ。誰が先にお前を落とせるか、てな」
そう言いながら、さも楽しそうに笑うカメリエーレ。さっきまでの品の良い喋りはどこへ行ってしまったのか。
そんな男の百八十度変わった口調にもびっくりだが、この男とティコが知り合いだということにもセレーノは驚いた。
「おい、なに黙ってんだよ? まあ、お前が無口なのはいつものことか。それともショックで声が出ないのか? なんなら、俺が慰めてやってもいいんだぜ。ただし、仕事が終わってからだけどな」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
尚も客であるセレーノの存在など無視してティコに話しかけるものだから、セレーノはなにがなんだかわけがわからない。
「これはいったいどういうことなんだ? 君たちは知り合いなのか」
たまらずカメリエーレの言葉を遮ってどういうことかとティコに尋ねると、彼女は申し訳なさそうにぽつりと呟いた。
「ここはわたしの家なんです」