ヴェントのおすすめ
翌朝。三日間ろくに寝ていなかったせいか、目を覚ますと時計の針は昼の一時半をさしていた。
「やばい! こんな時間だっ」
ベッド代わりのソファーから飛び起きて、急いで顔を洗い、いつもの絵具のついた白いシャツに着替えて、髪の毛の寝癖も気にせずセレーノは家を飛び出して行った。
予定では今日はティコとのディナーのために、美味しいリストランテを探すはずであった。それなのにもう昼である。
セレーノはそんな自分に腹を立てつつ、とりあえず遅い朝食を食べにグストーゾへ向かった。
もちろん目的は朝食だけではない。ヴェントならばどこか美味しいリストランテを知っているかもしれないと思ったからだ。
「リエッラ、ヴェント!」
メニューを注文して、セレーノはさっそく昨夜のことをヴェントに話した。
「なんだ、セレーノ! あの鉄のポスティーノをデートに誘ったのかよ?」
「デートじゃないさ。ただのお詫びの食事だよ。それでヴェント、どこか美味しいリストランテを知らないかい?」
「もちろん、美味い飯屋ならたくさん知っているさ。まあ、この店もその一つなんだが……」
そう言いながらも、ヴェントはまだ信じられないといった顔でセレーノを見ている。
「おいおい、セレーノ。マジでティコに惚れてるんじゃないのか? どうするんだよ、恋人は」
「違うって言ってるだろ。ティコは友達なんだ」
「友達、ねえ。もしそうなら、お前はあいつの初めての友達ってことになるんだろうな」
ヴェントは腕を組んで、じっとセレーノの顔を見た。
「なんだよ、それ?」
「あの性格だぜ? 人付き合いが良いとはお世辞にも言えねえだろ。第一、あいつが女友達と楽しく買い物とかしている所なんて、見たことねえよ」
「それは、ヴェントが知らないだけだろう」
いいや、とヴェントは首を振り、人差し指をビシッと立てて力強く言った。
「ぜったい、いねえよ」
あまりにも断定的に言うものだから、セレーノはティコのことが気の毒に思い、話題を変えた。
「話しがずれたよ。本題に戻そう」
ああ、そうだったな、とヴェントは再び腕を組んで考えた。
「俺が知っている限りでは、一つ、二つ……三つだな。この街にはたくさん美味い飯屋があるけど、俺が気に入っているのはまずはペェシェ・スパーダっていう海鮮料理屋だ。次にティーモっていう飯屋。ここは店の裏で野菜を育てて、それを料理に使ってる。この二つはチェントロにあるぜ。あとは……あ!」
いきなりヴェントは大きな声をだし、ひらめいたとばかりに手の平をポンと打った。
「いかんいかん、忘れてたぜ。チェントロに一番おすすめの店があるんだ。知りたいか?」
ニヤリと楽しいイタズラでも思いついた子供みたいな顔のヴェント。
もったいつけて教えてくれない彼に、セレーノはため息を吐きながらも手を合わせて懇願した。
「どうか教えてください、ヴェント様!」
そんな姿に満足したのか、ヴェントはまだニヤニヤしながらも、セレーノに一押しの店を教えてやった。
「そこまで言うなら仕方がねえ。少し見つけにくい店なんだが、名前をヴェネルディって言うんだ。料理ももちろんだが、店がアルモ川沿いにあって、窓から街頭で照らされた夜の川なんかが見えるもんだから、なかなか良い雰囲気だぜ。俺も女と行ったことがあるが、ロマンチックな光景に彼女もぽうっとしてたっけな」
その時のことでも思い出しているのか、ヴェントは遠くを懐かしそうに見つめている。
この厳ついヴェントがそんなおしゃれ場所で食事をしたなんて……。
セレーノは思わず吹き出しそうになったが、そこは必死でぐっとこらえた。けれど、それを敏感に察したヴェントはむっとした顔で、おい、とセレーノを睨んだ。
「ごめんごめん。ヴェントも意外とおしゃれさんなんだね。ああ、怒らないでくれよ。俺が悪かった。それで? そこはけっこう人気の高い店なんだろう。今から予約しても間に合うかな?」
「それは、大丈夫だと思うぜ。なんたってティコが一緒なんだ……いや、深い意味はないぞ。とにかく予約なんて気にしなくて平気さ。ヴェネルディならあのポスティーノだってぜったい満足するぜ。ほら、いま地図書いてやるから、これから下見にでも行ってこいよ。お前がリードして連れて行かなきゃならねえんだ。迷子になったら困るだろう?」
それからセレーノはいつものようにポストに手紙を投函し、チェントロにあるとういうヴェント一押しの店、ヴェネルディへと向かって行った。
地図はチェントロの船着き場から書かれており、チェレスティアーレ大聖堂の前を通って北へ矢印がのびている。
進むにつれて賑やかなチェントロの中心街から離れていき、途中やや細い路地や住宅街なんかを通ったりもした。
(本当にこんな所にあるのか?)
ヴェントにからかわれたのではないかと少し心配になってきた頃、近くで水の流れる音がした。
「もしかしてアルモ川か」
からかわれていたわけではなかった、と安心するとともに、地図に書かれたとおり目の前の角を右に曲がると、そこにはヴェネルディと書かれた品の良い店が姿を現した。
ブロックを積んだような石造りの外壁。アーチを描くように木材でできた扉からは、日が傾いてきたためか、灯された店内の明かりがガラス窓から漏れていた。
「すてきな店だな……」
セレーノは思わず見とれてしまい、店の前にも関わらず、しばらく入り口の真ん前でぼうっとそれらを眺めていた。
するとカランという乾いた音ともに扉が開き、中から黒のスーツに蝶ネクタイをした、これまた品の良さそうな若い男が姿を現した。
「おや? リエッラ、お客様。いかがなさいました。もしやご予約のお客様でございますか?」
現実に引き戻されたセレーノは慌てて男に言う。
「いや。予約はしてないんだ。ただ、知り合いにこの店はとても料理が美味しいと聞いてね。夜にでも友人と二で来てみようと思ったんだ」
そこでふとセレーノは考えた。ヴェントの言う通り、とても雰囲気の良さそうな店だ。ヴェントは大丈夫だとい言っていたが、こんな人気の高そうな店が予約無しで利用できるはずがないのではないか。
そう思いセレーノは目の前の男、たぶんカメリエーレだろう、に今夜の店の予約状況を尋ねてみることにした。
「今夜はもう予約でいっぱいかな?」
「ええと……、少々おまちください」
そう言って胸のポケットから小さな黒革のノートを取り出し予約の状況を確認すると、若いカメリエーレは笑顔でセレーノに言った。
「いえ。お席の方はまだ若干空きがあるようです。ご予約なさいますか?」
やった、とセレーノは心の中でガッツポーズをした。
せっかく空きがあるんだ。これで予約せずに来て、席が埋まってしまいました、などと言われたら格好がつかない。セレーノは一つ頷き、予約するよ、と言った。
「ありがとうございます。それではお客様のお名前をお訊きしてもよろしいですか?」
「セレーノ・コルディアーレだ。あと、友人が一人。八時半過ぎには来るよ」
「コルディアーレ様とご友人様のお二人ですね。かしこまりました。それでは、心よりお待ちしております」
セレーノは丁寧に頭を下げるカメリエーレに軽く手を振って、今夜の準備のためにウキウキと来た道を引き返して行った。