デートのお誘い
バルケッタに飛び乗ったセレーノは、できるだけ急いでくれと船頭に言って、チェレスティアーレ大聖堂へと向かって行った。
バルケッタが船着き場に着くと、船頭に短く礼を言って、セレーノは勢い良く船を飛び出していく。
今は夜の十時前。リストランテなどの店の照明や街灯が照らす中、夜の街を観光客なんかがゆったりと歩いている。そんな人々の間を突風にでもなったかのように、セレーノは石造りの通りを駆け抜けて行った。
船着き場からさほど離れていないとはいえ、チェレスティアーレ大聖堂の前に着いた頃にはもう息が切れ切れで、額にはうっすら汗をかいていた。
「はあ……。こんなに、走ったのは、久しぶりだ。さすがに絵描きには、辛いな……」
もともと身体を動かすのが苦手な男である。また絵描きという職業柄、そうそう走ることもない。
足の力が抜けて立っていられなくなり、セレーノは大聖堂の扉の前に座り込んで、空を見上げながら弾む息を整える。今日は綺麗な満月だ。
輝く満月を見ていると、重厚な大聖堂の扉が開き、中からティコが姿を現した。
「あなたは……。こんな時間にそんな所に座り込んで、何をなさってるんですか?」
扉を開けた真ん前でゼエゼエ息を切らした予想外の男がいる。まさかこんな時間に会うとは思わないので、不思議に思ってティコは声をかけた。
「やあ、ティコ。今日は月が綺麗だね」
「……はい?」
何を言っているんですか、という顔のティコに、セレーノは慌てて訂正する。
「ああ、違う違う。俺の馬鹿。君に謝りに来たんだ」
「謝りに、て……、そのためだけにこんな時間にここまで来たんですか?」
そうだ、と頷くセレーノ。それを見てティコはあきれて言った。
「それはわざわざご苦労様です」
「いや、いいんだ。それより俺の話しを聞いてくれ」
ふう、と一つ息を吐いて、セレーノはまっすぐティコを見る。
「この前は本当にすまなかった。君が大切な話しをしてくれたのに、俺は真面目に話しを聞かなかった。それに、君にとって不快なことも言ってしまった。でも悪気があったわけじゃないんだ。お願いだ、どうか許してくれないか?」
必死に謝るセレーノに、ティコは変わらないポーカーフェイスでぽつりと尋ねた。
「本当にそんなことを言うためだけに、ここまでやって来たんですか。……どうしてです?」
「どうして、て……」
額の汗を拭いながら、逆にセレーノは何故そんなことを訊くのかとばかりにティコに言った。
「そんなことじゃないだろう? 君にとって大切なことだと思ったからだよ。それに誰かを傷つけておきながら平気で暮らしていけるほど、俺は大きな男じゃないんでね」
そうにっこり笑いながら言うセレーノを見て、ティコは胸がきゅっと掴まれたような、経験したことのない不思議な気持ちがした。
「……大丈夫です。別に気にしてなんていませんから。それに、思えばコルディアーレさんはまだこの街に来たばかりなわけですし、そんな人がいきなりあんな話しを聞かされても、何を言って良いかわからないのが当たり前ですよ」
「いや、それは違うよ」
セレーノはティコの言葉に強く首を振る。
「女神像がなくなるのはやっぱり寂しいよ。俺も初めてこの街を訪れた時に一度、あの大聖堂の女神像を見たことがある。優しい眼差しでこっちを見ていたよ。それを見たとき、何も言葉が浮かばなかった。ただただ女神様に優しく抱きしめられているような、そんな気がしたんだ。不思議と心が満たされたよ。本当にあの女神像は美しかった」
セレーノは真剣な眼差しでティコに言う。
「きっとそれは、この街を訪れたすべての人が感じたことだと思うんだ。女神像はこの街の人たちだけの物じゃない。だからやっぱり壊しちゃいけないんだよ」
その言葉を聞いたティコは素直に感動していた。
「ありがとうございます、コルディアーレさん。そう言ってもらえると嬉しいです」
「いや、礼を言われるほどじゃないよ。俺は思ったこと言っているだけさ」
照れたように笑うセレーノ。だが、ふと眉間に小さく皺を寄せた。
「もし俺のことを許してくれるのなら、コルディアーレさんじゃなくて、セレーノって呼んでくれないか?」
「……セレーノさん、ですか?」
少し顔を下げてほのかに頬を染めながら、そのポーカーフェイスを崩してティコは恥ずかしそうに微笑んだ。
それを見たセレーノはやっぱり、と嬉しそうに笑った。
「俺の目は間違いじゃなかった。君は笑ったほうが可愛いよ」
その言葉に驚いたティコは、目を大きくして固まってしまった。けれどすぐにいつもの無表情に戻すと、これまたいつもの抑揚のない淡々とした口調で言った。
「冗談はよしてください。もう遅いのでわたしはこれで失礼します」
「あ、待ってくれよ。お詫びに何かさせてくれないかい。そうだな、明日の夜は空いているかな? よかったら美味しい物でもごちそうするよ」
ティコは少しの間どうしようかと考えた。けれど、なんだかんだで悪い人ではなさそうだし、なによりセレーノと食事ができることを嬉しいと感じていた。そんな自分に驚きながらも、
「八時過ぎなら」
と少し躊躇いがちに、小さな声でそう告げた。
「よし、わかった。じゃあ、八時半にここで待ち合わせだ。それまでにどこかいい店を探しておくから、楽しみにしていてくれよ」
セレーノがまかせろ、とばかりに片目をつむってみせると、ティコは黙って頷き軽くお辞儀をして足早に大聖堂を去って行った。
その姿を見送って、セレーノは数十分前とはまったく違う晴れやかな気持ちで家に帰っていった。