絵描きの失態
「一番被害が甚大なのは主祭壇の周りでした。それで改修工事をするために女神像は一度別の場所に保管されることになったのですが、その周りを確認していた時、女神像の背面にも大きく深い傷があるのが見つかったんです」
ティコはふっと溜め息を吐いた。
「それだけならばまだ直しようがあったのですが、先月あった地震の影響で女神様の傷が深くなり、首が今にも落ちてしまいそうなまでになってしまいました」
「そんなに大きな地震だったのかい?」
いいえ、とティコは首を振る。
「幸いさほど大きな揺れではありませんでした。けれど、あれだけの揺れでああも悲惨な姿になってしまったのは、それだけ女神像も古く脆くなっていたということなんだと思います」
そう話すティコの顔にはわずかながら悲しみの色が伺えた。
「女神像もそうですが、建物のいたるところで被害が拡大していて、早急な改修工事が求められるようになったのです。けれど女神様の像だけは取り壊して新しく作り直すことが決まったんです」
え、とセレーノは驚きの声をあげた。
「修理するんじゃ駄目なのかい?女神像だって歴史的価値のある彫像品の一つなんだろう」
「それだけ傷が大きいということです。それを綺麗に直せる人がこの国にはいませんし、本当なら腕のいい修復家を国外から呼べればいいのですが、その他の部分を直すだけでも相当な金額になります。それならば国外から人を呼ばず、国内にいる腕のいい彫刻家たちにできるだけ当時の姿に似せた女神像を新しくつくってもらう方が、金銭的にも得なんですよ」
そのために女神像を一度取り壊し、新しい女神像をつくる。でもそれは同じ姿をした女神像ではあっても、けして長い間この街で人々を見守ってきた女神像ではないのである。
「どんなに同じ姿をしていようとも、一度壊してしまったものは二度とは戻らないんです。それはもう、まったくの別の代物なんです。サントさんはそのことを強く主張されていました。なんとか国外から腕の立つ修復家を呼べないか、とも言っていました。サントさんにとって大聖堂だけでなく、女神様の像もとても大切な代物なんです」
セレーノはティコの真剣な眼差しを見て、彼女にとってもその像がとても大切な代物なんだということを感じた。
それでも彼女はまったく表情を変えずに淡々とした口調で話し続けているので、セレーノはついおかしなことを言ってしまった。
「パニーニ、て言ってごらん?」
「はい?」
予想もしていなかった言葉に、ティコは思わず目を丸くして聞き返す。
「だから、パニーニだよ。知ってるだろ?ほらこう、口角をキュッと上げて、パニーニ、て言ってごらんよ」
「わたしは真剣な話しをしているんですよ?しかもそちらから訊いてきたことなのに。それをパニーニだなんて、馬鹿にしているんですか?」
その顔にわずかに怒りの表情をにじませて、ティコは勢いよく席を立った。
「いや、違うよ。誤解だ。なんていうか、君の笑った顔を見たことがないなと思って。それでつい、ね。気を悪くしたなら謝るよ」
「今わたしが何の話しをしていたか、あなたは聞いていましたか? 聞いていたなら分かるでしょう、笑える話しなんかこれっぽっちもしていないということが!」
「悪かったよ。ことの重大さは理解できた。君もその女神像のことを大切に想っているということもね。なら、もっと悲しい顔をしたらどうだい?どうしてそんなに表情を、感情を隠そうとするんだよ」
その言葉にティコは一瞬傷ついたような表情を見せた。けれどすぐにいつもの無表情に戻すと、じっとセレーノを見下ろした。被った制帽の影でよくは見えなかったが、その瞳はどんな深い海の底よりも暗く、冷たいものに見えた。
「たしかグストーゾの主人からわたしの名前を聞いたと言っていましたね。その時わたしのことを、無愛想で面白みもなくて、つまらない女だ、て言われたんじゃないですか?」
「そこまでは言われてないよ」
「そこまで、ですか。別に気になんてしていませんから、気遣いは無用です。それにもうけっこうです。あなたにこんな話しをしたわたしが間違っていました。仕事に戻るのでこれで失礼します。さようなら、コルディアーレさん」
最後まで感情を抑えた喋りで彼女はセレーノのに背中を向けると、止める声を無視してさっさとその場を去ってしまった。
「ちょっと待ってくれよ! 俺が悪かった。話しを聞いてくれよ」
こんなはずじゃなかったのに……。
彼女の後ろ姿を見つめながら、セレーノは乱暴に髪をかきあげた。