大聖堂
その夜、セレーノはなかなか眠りにつくことができず、結局一睡もしていなかった。そのかわり毎日欠かさず書いている手紙を書き、完成間近だった絵を仕上げて夜を過ごしていた。
朝は眠い目をこすりながら冷水で顔を洗いヒゲを剃り、軽い朝食をつくっていつものように家の前のベンチで道行く人々に手を振りながら食事をした。
もしかしたら今朝もあの郵便配達員が通るのではないかという思いから、朝食を食べ終わってもしばらくベンチに腰掛けていたのだが、来る気配がないことを知ると、数点の完成したキャンバスと無地の色紙と画材を持って出かけることにした。
今日はチェントロにあるチェレスティアーレ広場で絵を売りながら観光客の似顔絵を描くちょっとした商売をしに向かったのだが、その途中で乗っていたバルケッタを一度船着き場に止めてもらい、昨夜書いた手紙をポストに投函していった。
広場は相変わらず観光客で賑わっており、セレーノは三人の女神像が優雅に踊る噴水の前に店を広げたるこにした。
ここチェレスティアーレ広場は、この街で一番古い聖堂であるチェレスティアーレ大聖堂が建つ場所であり、その前に立つ三美神の像が美しい噴水や、聖堂を囲むように左右に建てられた旧市街の建物があり、歴史を肌で感じることができるこの街の観光名所の一つである。
セレーノは折りたたみ式の簡易な椅子に腰掛け、ふと夕べのことを思い出した。
(そういえば、あの橋から飛び降りた人はこの大聖堂の人だって言ってたな……)
たしか大聖堂が云々叫んでいた。なにぶん酔って呂律の廻らない舌で叫んでいたものだから、セレーノにはよく理解できなかった。いったい彼は何を叫んでいたのだろう……。
そんなことを考えていると、さっそく年配の老夫婦が旅の記念に似顔絵を描いてくれないかと言ってきたので、セレーノの思考はそこで中断した。
太陽が空高く位置する正午。セレーノはグストーゾでヴェントにつくってもらったパニーニを食べながら、ちょっとした昼休憩をとっていた。
午前中は老夫婦や家族連れなんかが似顔絵を求めにやってきたり、冷やかし半分に覗きにきた客なんかと楽しく話しをしながら過ごしていた。
そんななか興味深い話しを聞いた。正確には一人旅でこの街に訪れたという二十代半ばぐらいの青年がセレーノに尋ねてきたことなのだが、彼の話しによると近々このチェレスティアーレ大聖堂は改修工事がなされるというのだ。
本当かと尋ねれば、大聖堂の司祭とその知り合いらしき男がその件についてもめているところを見たという。
それを聞いてセレーノは一人納得した。夕べ男が騒いでいたのはきっとこのことについてだろう。
たしかにこの聖堂はとても古く、今から二百年前に完成したものだという。しかも完成するまでに五百年はかかっているらしい。
この聖堂には当時の有名な彫刻家たちが施した彫像などもある。故にとても貴重な建造物であり、そして長い年月のためにところどころにガタがきている。改修工事をせざるをえない状況だとしても、それはやむをえないことだろう。
(聖堂の関係者ならそのことの重大さぐらいわかるだろうに……。なぜあの男はあんなことをしたのだろう?)
セレーノが再び思考の海のなかに潜ろうとしていた時、視界の隅で見覚えのあるボトルグリーンの制服が見えた。それは今朝セレーノが待っていた郵便配達員のティコ・キアーロであった。
「おーい! 郵便屋さん。一緒にごはんでも食べないかい?」
会えたことが嬉しくておもわず大声で手を振ると、それに気がついたティコは恥ずかしそうに慌てて駆け寄ってきた。
「何なんですか、あなた!恥ずかしいからそういうことはやめてください」
相変わらずの無表情に少しだけ怒りの表情を覗かせて、ティコはセレーノに注意した。
「ごめん。君に会いたかったものだからつい、ね。ティコも昼休み中かい?」
セレーノの言葉にティコは一瞬目を見開いた。
それからセレーノが商品の絵を置くために使っていた予備の椅子をすすめてきたので、迷いながらもそれに腰掛けた。
「そんなところです。それより、コルディアーレさんはピットォーレだったんですね」
セレーノの周りに置かれた絵を見ながらティコが言う。
「ピットォーレ?ああ、絵描きのことか。そうだよ。まあ、売れない画家だけどね」
それから、とセレーノが続ける。
「セレーノだ。俺の名前はセレーノ・コルディアーレ。コルディアーレさん、じゃなくて、セレーノって呼んでくれよ」
その言葉にティコは少し俯いて、セレーノの顔を見ずに尋ねた。
「……セレーノさんはなぜわたしの名前を知っているんですか?」
「ヴェントから聞いたんだ。知ってるかい、グストーゾって店の主人なんだけど」
知っています、と頷くティコ。
すると唐突に、ありがとうございました、と彼女は礼を言ってきた。
「夕べは橋から落ちたところを助けていただき、感謝しています」
「それは違うよ。俺は君に感謝されるようなことは何もしていないさ。むしろ感謝されるべきは君の方だろう?あんなこと、なかなかできるもんじゃない」
「わたしは当然のことをしたまでです。わたしじゃなくても、あの場にいれば誰だって同じことをしたでしょう」
「いや。やっぱり君はすごいよ」
けっして自慢したりすることのないその態度に、セレーノはただただ感心していた。それからふと思い出した、気になっていた例の件についてティコに訊いてみることにした。
「そういえばさっき聞いた話しなんだけど、このチェレスティアーレ大聖堂が近々改修工事がされるんだってね。もしかして、夕べの彼はそのことについて抗議していたのかい?」
「ええ、そうです」
ティコは後ろに聳え建つ厳かな雰囲気をまとったチェレスティアーレ大聖堂を見上げて静かに言った。
「この大聖堂は古く歴史のある建造物です。歴史ある故に最近ではいたるところにヒビが入り、改修工事をすることになりました」
「でもそれって、やむをえないことだろう?なぜ彼は怒ってあんな無茶なことをしたんだろう」
「お酒を飲まれていたので多少大袈裟なことを言われていましたけど、一番は主祭壇に飾られた女神像にあるんです」
どいうことだと尋ねると、ティコはセレーノを振り返り淡々と事のあらましを話しだした。