橋の上の騒動
ヴェントの店から一番近い船着き場からバルケッタに乗り、セレーノはアルモ川との合流地点にあるこの街一番の船着き場に向かった。
そこは東西南北に張り巡らされた小運河がもっとも多く集まる所で、市場やその他の店も多く集まり、観光客や商人などで賑わう場所であった。ここらはほぼ街の中心地区であり、チェントロと呼ばれた。
バルケッタから降りると、セレーノは船着き場の隅の方に陣取り、絵の具を広げてそこで働く人々をキャンバスに写していった。
セレーノは人が好きだった。彼が描く絵のほとんどが人を中心に描かれたものであり、風景画はあまり描かなかった。
「リエッラ、メント。今日もいい天気だね」
ときどきそこで働いている人たちに話しかけながら、セレーノは日が暮れるまで夢中で絵を描きつづけた。
辺りが薄暗くなってきた頃、セレーノは家に帰るためにバルケッタに乗っていた。
「あれは……」
ふと目線を向けた目の前に架かる橋の上で、今まさにそこから飛び降りようとしている男性と、それを止めようと必死に掴み掛かっている女性の姿が見えた。よく見るとその女性は今朝出会った郵便配達員の女性である。
「放せ、放してくれ!これは自殺行為なんかじゃねえんだ。神を冒瀆した奴らへの抗議なんだ!俺は死なねえ。あいつらが間違っていましたと頭を下げるまで、俺はぜったいに死なねえよ!」
「たとえ死ななくても危険な行為です!それにこんなことをしても状況は変わりません。とにかく一度頭を冷やしてください!」
その様子を見ていた船頭が驚いた声で言った。
「あれはチェレスティアーレ大聖堂のサントじゃないか!」
「知り合いかい?」
「ああ。もしかしてあいつ酒ひっかけてるな。ふだんは大人しい男なんだが、酒を飲んじまうとどうにも手がつけられなくなるんだよ」
そうこう言っているうちに橋の上のサントはどんどん熱くなっていく。
「よっく見ておけ、馬鹿野郎共!俺は抗議する。大聖堂を潰そうなんて、女神様を殺そうなんて、そんなことは馬鹿のすることだ!」
そう叫ぶと止める彼女を振り切って、サントは橋の上から身を投げた。と同時に、彼にしがみついていた彼女も引っ張られるように橋から落ちてしまった。
「危ない!」
そう叫んだ頃にはもう遅く、セレーノたちの目の前にに鈍い音をたてながら大きな水しぶきをつくって、二人は暗く冷たい水の中へと消えていった。
「おい、大丈夫か!?どこだ、どこにいるんだ!」
なかなか浮いてこない二人をセレーノたちは必死になって探した。
だいぶチェントロから離れた人通りの少ない場所とはいえ、その騒ぎを聞きつけた人々がどこからともなく現れてその場が騒然となる。
「まったく浮いてくる気配がない……。潜って探してくるよ」
セレーノはそう言って上着を脱いだ。
「待ちなよ、セレーノ。辺りもだいぶ暗くなってきた。これじゃ水に入ったって、暗くて中が見えないよ。警察がくるのを待ったほうがいい」
「そんなことを言って、二人にもしものことがあったらどうするんだ。警察なんて待ってられないよ!」
船頭の止める声を無視して飛び込もうとしたその時、二人のバルケッタから少し離れたところでサントを抱えた郵便配達員、ティコ・キアーロが水面から顔を出した。
「大丈夫か!こっちだ。今助けるからな」
セレーノたちは急いでバルケッタを側までよせると、ズブぬれで通常よりも重くなった二人を船へと引き上げる。
「サントさんは気を失っています!」
そう叫ぶとティコは仰向けに横たわるサントの口元に耳をあて呼吸を確認する。次に顎を上にあげて鼻をつまみ、自分の口をサントのそれに重ねて息を吹き込んだ。それから素早く心臓マッサージにうつる。
その行為を何度か続けていると、気を失っていたサントが口から水を吐き出し、低く力のない声で唸って目を開けた。
そうしている間にもバルケッタは陸まで漕がれて、目を覚ましたサントはその場に急いでやってきた仲間と思われる男たちに引き渡された。自然とその周りには黒山の人垣ができる。
「おい。大丈夫か、サント!」
「お前って奴は、自分から飛び込んでおいて気を失うなんて、どれだけ間抜けなんだよ」
まったくだ、とサントを囲みながら、みんな安堵した表情を浮かべてその場は和やかな雰囲気に包まれる。
「悪い、みんな。心配かけたよ。でもおかげで酔いは覚めたみたいだ」
咳き込みながらも謝るサントの言葉を聞いて、その場はどっと笑い声であふれた。
「そりゃあ、良かった!お前は飲むと手に負えないからな」
そんなサントの無事な姿を見て、セレーノはほっと息を吐く。
「よかった、無事で。それもこれも彼女のおかげだ……あれ?」
当然サントの命の恩人である郵便配達員の彼女も人の輪の中にいると思って探したのだが、まったく見当たらない。
不思議に思ってセレーノは辺りを見回したのだが、すると少し離れた酒場の横で黙ってこちらに背をむけてその場をあとにする彼女の姿が見えた。
水を吸って重くなったであろう制帽を被り直して、酒場に止めていた自転車に跨がり、彼女は何も言わずに去って行く。
その後ろ姿は、サントが助かって明るく和やかな雰囲気の人々とは反対に、どこか寂しいものに見えた。
「おい!ちょっと待ってくれよ」
呼び止めようとするセレーノ。しかしその声は彼女に届かなかったのか、華奢なズブ濡れの背中はどんどん小さくなり、あっという間に薄暗い闇の中に紛れて見えなくなってしまった。
その後ろ姿を黙って見ていると、船頭が家の前まで送りますよと声をかけてきた。
「ありがとう。頼むよ、メント」
セレーノは船頭に礼を言って、再びバルケッタに乗り込だ。
それを確認すると船頭は、誰が命の恩人なのかをサントに告げてゆっくりと船を漕ぎはじめる。
(明日も彼女に会えるかな……)
彼女ともっと話しをしてみたい。
セレーノは彼女が姿を消した方角をじっと見つめていた。