女神の首と小さなプリンセス
午前十時を過ぎた頃。セレーノは期待半分緊張半分というやや複雑な気持ちで、人の行き交うチェントロを大きなキャンバスと画材一式を持って歩いていた。
今日のセレーノはいつもより一時間も早く起きて、綺麗にヒゲを剃り、ぼさぼさの髪をいつもより丁寧に梳かしてきちんと一つに結い上げていた。
(久しぶりのお客さんだ……。頑張らないとな)
セレーノが今向かっているのは、チェントロにあるペェシェ・スパーダというヴェントもおすすめの海鮮料理屋である。そこのオーナーの孫娘が近々記念すべき十歳の誕生日を迎えるとかで、是非とも店に飾れるような立派な肖像画を描いて欲しいという依頼がきたからだった。
そのことをヴェントに話すと、
「はは! あそこのジジイのやりそうなことだ! 経営者としては確かなんだが、とにかく孫に甘々なんだよ。孫に、大きくなったらジイジと結婚するの、て言われたことを本気にしてるぐらいなんだから、救いようがないよ」
と、笑い転げていた。
まあ、セレーノにしてみれば久しぶりのきちんとした仕事だ。孫命のおじいさんだろうと、大切なお客様に変わりはない。
この街に来てからというもの、セレーノはこういった本来の絵描きらしい仕事は初めてだった。
最近では観光客相手だけではなかなか生活していけないので、時々ヴェントの店を手伝いながら画廊などを巡って、描いた絵を置かしてもらっている。そんな状況のため、今のセレーノにとっては絵を注文してくれるのならどんな人だって大歓迎なのだ。
ただこのオーナーは、孫以外にはとても厳しい人らしく、家族だろうが客だろうが自分の気に入らないことがあれば火山が爆発したかのごとく顔を真っ赤にして怒鳴りちらすという。時間に遅れようものならば、うちの孫娘が待ちくたびれてしまっただろうが、このクソガキがっ! と言われるのは確実だとヴェントが言っていた。
「よし。これなら約束の十一時には間に合いそうだ。さすがにこの年でガキとは言われたくないからな……」
セレーノは普段めったにしない腕時計で時間を確認して、少し安心しつつも急ぎ足で依頼主の店に向かっていた。
するとその時、
「おい、聞いたかよ。大聖堂の女神像の首がついにぽっきりいっちまったらしいぜ」
という話し声が聞こえてきた。
「え?」
思わず立ち止まるセレーノ。見ればちょうどチェレスティアーレ広場の前まで来ていた。
いったいどういうことかと耳をすますと、すれ違う人々が口々に話している声が聞こえてくる。
「ほら。この前、軽い地震があったろう? それでついにやられちまったんだってよ」
「おいおい。それじゃあ余計に反対派と賛成が揉めるんじゃないのか?」
「けど大聖堂の改修工事も女神像の取り壊しも、もうとっくに決まったことなんじゃないのかよ? 今更揉めるも何もないだろうに」
「馬鹿だな、お前。決まったも何も、あれは街の代表が強引に改修工事と女神像の取り壊しを押し切ったのが悪いんだろうが。大聖堂の改修工事は仕方がないとしても、女神像の取り壊しだけは反対派としては何とかしたいんだよ。それで、邪魔してでも工事の開始を先延ばしにしてるみたいだぜ」
そう話しながら二人の男がセレーノの前を通り過ぎて行く。
「嘘だろ……」
居ても立ってもいられなくなったセレーノは、約束のことなんかすっかり頭からすっ飛ばして、急いで大聖堂へ走って行った。
バサバサとたくさんの鳩が空高く飛び立つ中、セレーノが大聖堂の前に着くとその重い扉が開き、中から神父を挟むようにして何時ぞやの橋の上の男と、小柄で眼鏡をかけた男が激しい口論をしながら姿を現した。
「だから言ったんです。早く決断しないからこういう事態になるんですよ。サント、君の気持ちはわかるが、あの女神像の悲惨な姿を見ただろう? もう取り壊すしかないんだよ」
「神父様、テオの言葉なんか聞かなくてけっこうですよ。テオ、君は取り壊すことの意味がわかっていないから、そんな酷いことが言えるんだ!」
間に挟まれた神父は、口を真一文字に結んで難しそうな顔をしたまま、何も言わない。それを良いことに二人の会話はどんどん熱くなり、そのまま三人はどこかへ行ってしまった。
そんな三人をよそに、セレーノは急いで扉を押し開けて、主祭壇の後ろに飾られた大きな女神像の前まで走って行く。
しかし大聖堂のひんやりとした空気の中、女神像はその身をすっぽりと大きな白い布で隠し、その姿を見ることはできなかった。
見れば頭一つ分小さく見える。本来ならそこには女神の美しい顔があるのだろうが、今ではそれが過去のことだということが布越しでも見て取れた。
「ああ。本当なのか……」
セレーノは鈍い音を響かせながら持っていた荷物を床に落とし、ただただ目の前の光景に呆然としていた。
(ティコはもうこのことを知っているのかな……)
彼女にとって女神像はある意味思い出の場所だ。それがどいういった思いのものなのかセレーノには計り知れないが、それでもこの大聖堂の話しをしてくれた時の彼女からは、何か特別な思いを抱いていることは感じ取れた。
そんなことを考えていると、どこからかすすり泣くような小さな声が聞こえてきた。
(なんだ? 誰かの泣いているのか)
大聖堂の中にはセレーノの他に数人の観光客がいたのだが、けれど別に誰も泣いている様子はない。
不思議に思って声のする方へ近づいてみると、祭壇の後ろで足を抱えるようにして座っている小さな女の子を見つけた。
「どうしたんだい、こんな所で」
膝に顔を埋めるようにして肩を震わせている女の子に、セレーノはそっと声をかける。
「どうして泣いているのかな? パパとママはどこだい」
優しく頭を撫でながら、セレーノは目の前の女の子を観察する。
見た限り年は五歳ぐらいだろうか。長い柔らかな髪はゆるく巻いており、頭にはキラキラ輝くティアラをのせている。服は小さな花模様があしらわれたドレスの様なピンクのワンピースで、高さニセンチぐらいのヒールのあるサンダルを履いていた。
(なんか、高そうな服を着ているな……)
文字通り頭のてっぺんから爪先まで高そうな物で身を包んでいる少女は、あきらかにどこぞのセレブの娘であることが伺える。
(この年の子にこんな高そうな服を着せるなんて、よっぽど溺愛しているんだろうな……)
などと半ば呆れながらも、セレーノは女の子に再び声をかけた。
「もしかして一人なのかな? 迷子かい?」
「ちがうわ」
舌ったらずな喋り方で、女の子はようやく顔を上げてセレーノに言った。
「ローザにはパパなんていないの。ママだっていないわ。ローザはひとりぼっちなの」
「え。どういう意味なだい。それは迷子ってことじゃないのかな?」
「ちーがーうーの、パパもママもいないの!」
再び泣き出す女の子。今度は大聖堂中に響くような大きな声で泣き出すものだから、セレーノは慌てて女の子に謝った。
「ああ、ごめんごめん。わかったから、泣かないでくれよ」
セレーノは女の子を抱き上げて、よしよしと背中をさすってやる。
それから優しく、
「さあ、泣かないでプリンセス。君の名前は何ていうのかな?」
と尋ねると、顔中を涙で濡らしていた女の子は泣くのを止めて、不機嫌に言った。
「あなた、失礼よ。人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るものなのよ」
その答えにはさすがにセレーノも驚いた。一瞬、生意気だな、と思ったがそこは口に出さない。
降ろせとばかりに足をバタバタさせる女の子を降ろして、セレーノは目線を合わせるようにかがむと、うやうやしく彼女に頭を下げた。
「これは失礼いたしました、プリンセス。俺の……いや、私めの名はセレーノ・コルディアーレと申します。プリンセスにお目にかかれて光栄でございます」
すると女の子がすっと手の甲を突き出して来たので、セレーノはそれに優しくキスをした。
その時、
「何をやっているんですか、こんな所で」
久しぶりに聞く彼女の声がした。