ありえない
その後もセレーノとティコはたわいない話しをしながら(とはいえほとんどセレーノの話しにティコが相づち打つ形ではあったが)二人はゆっくり食事を楽しんだ。
途中、今日誕生日を迎えるという五歳の少女のサプライズケーキの登場とともに、店に来ていた客全員でバースデーソングを歌うという微笑ましいイベントもあったりと、気がつけばあっという間に時間は過ぎて閉店間近となっていた。
「いやあ、本当に美味しかったよ。それに君とたくさん話しもできたし、すごく楽しかった」
石畳の道を街灯がオレンジ色に照らす中、店の前ではセレーノが満足そうな笑顔でティコに話しかけていた。
「そう言っていただければ、きっとビアンコ夫妻も喜びます。それにわたしこそ誘っていただけて感謝しています。本当にありがとうございました。よろしければ途中まで送りますよ」
そう言って歩き出そうとするティコを、セレーノは慌てて腕を掴んで呼び止める。
「いや、大丈夫だよ。それにもう暗いんだから君は家に入った方がいい。俺は男だから平気だけど、君は女の子なんだから。俺と別れた後に何かあっても困るからね」
「大丈夫です。これでも護身術を身につけているので、自分の身ぐらい自分で守れますから」
「それでもダメだ」
セレーノは力強く首を振ってティコの身体をくるりと反転させると、家に戻るように背中を押した。
「君が家に入るのを見届けたら、俺は帰ることにするよ。ほら、いいから行って」
そう言われてはティコもしぶしぶ扉を開けて家に入るしかない。けれど、やはり気になって少しだけドアの隙間から顔を出し、セレーノの様子を窺った。
それを見たセレーノは笑顔でじゃあまた、と手を挙げるとヴェネルディをあとにした。
遠のいていく男の後ろ姿を見送って、ティコは静かに溜め息を吐いた。
「よう、ティコ。どうした、溜め息なんか吐いて。もしかして恋煩いかい?」
店の後片付け中なのか、片手にモップを持ったオーリオがニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。
「そんなんじゃありません。着替えてしましたいのでそこをどいてください」
「なんだよ。相変わらずつれない女だな」
つまらなさそうに口を尖らせるオーリオを無視して、ティコは店の三階にある自分の部屋へと行ってしまった。
その姿を見ていたヴェネルディのシェフで、オーリオの母、ティコにとっては育ての母でもあるぺぺ・ビアンコが、どこか逃げるように去った娘の背中を見送りながらそっと息子に囁いた。
「あの子、ひょっとして本当に恋してるのかもしれないわね」
「ええ! 何言ってんだよ、母さん! ティコが恋なんかするわけないだろう」
「あら? あんただってさっきティコに訊いてたじゃない、恋煩いか、て」
「あれはちょっとからかっただけだろう。ティコが恋とかするわけないさ。ましてやティコが嫁になんていくわけないんだ!」
そう叫ぶとオーリオはモップを放り投げ、階段を駆け上がって同じく三階の自室へと消えてしまった。
「嫁って……。私はそこまで言ってないわよ」
唖然と走り去る息子の背中を見送るぺぺに、奥で会話を聞いていた夫のビーノがやって来てその肩にそっと手を置いた。
「母さん、察してやってくれ。オーリオの気持ちを」
「何よ、それ?」
ぺぺは何がなんだかわからない、と首を傾げるのだった。
「はあ……」
脱いだドレスをハンガーにかけて、ティコはそのままベッドへうつ伏せに倒れ込んだ。
ふと見上げれば窓際に置かれたベッドから夜空に輝く月が見える。
(なんだかとても疲れたな……)
別にセレーノのことが嫌いなわけではないのだが、けれど彼といるとなんだか落ち着かないのだ。妙に緊張してしまう。
とはいえ、もとからティコは感情を表に出すような人間ではないため、自分といるとティコが緊張して疲れているなど、セレーノは微塵も思っていないだろう。
「いったいどうしたんだろう」
はあ、とティコは今日何度目かの溜め息を吐いた。
このままこのモヤモヤした気持ちが続くとなるとさすがに困る。
『もしかして恋煩いかい?』
その時先程のオーリオの言葉が頭をよぎった。
「まさか。そんなことありえない……」
自分が誰かに恋をするなんてありえない。ましてや既に恋人がいる男に恋をするだなんて非常識である。
だいたいティコのセレーノに対しての第一印象はあまり良いものとは言えなかった。
はじめて彼を見た時、彼はのんきに家の前のベンチに座ってパニーニを食べながら船で道行く人々に手を振っていた。
明るい長めの金髪は無造作にゴムで括られていて、着ているものも絵具の付いた白のワイシャツにくたびれたジーンズ。それに足下はサンダルだ。それだけでどんなゆるい生活をしているのかが窺える。
それに極めつけはあの顔だ。終始ニコニコ笑っていて、誰にでも話しかける。まるで随分長いことこの街に住んでいるようにだ。
(なんて悩み事のなさそうな、平和ボケした顔だろう)
人によっては愛想があって良いという人もいるのだろうが、ティコにとってはどうしても胡散臭い男にしか見えなかった。
しかし今は違う。
たしかに一度は腹を立てたこともあったが、彼と話してみれば実際のところ実に良い人である。
夕べだって、わざわざあんな時間に謝りにこなくてもよさそうなものを、彼は走って会いに来てくれた。それに「そんなこと」と言った自分の言葉を否定して、「大切なことだ」と言ってくれたのである。
そういったことから、ティコはセレーノという人物が誠実な人なんだと考えを改めた。
だからといって、そんなことで自分は簡単に恋をしてしまうものなのだろうか?
(ありえない……)
ティコは仰向けに転がり、否定するように頭を振った。
けれどいくら頭を振っても、あの男の笑った顔がまるで張り付いてしまったかの様に頭の中から消えてくれない。
(こんな思いをするなんて……。やっぱりセレーノさんなんて嫌いだ)
そんなことを思っても、このなんとも言えないモヤモヤとした気持ちは自分の頭の中をいっぱいにして消えないのだ。
もうどうしたらいいかわからなくなったティコは、おもむろに腕を伸ばしてベッドの隣にある机の引き出しを開けて、中から一通の手紙を取り出した。
そして流れる様な美しい字で書かれた名前をじっと見つめて、ぽつりと呟いた。
「こういう時、母なら何と言ってくれるのでしょう……?」