切ない痛み
驚きのあまり食べ物をのどに詰まらせ、セレーノは苦しそうに胸を叩きながら目にうっすら涙を浮かべた。
それを見たティコは大丈夫ですか、とそっとセレーノのグラスにワインを足し、飲むように勧めた。
それからやってきた料理を口に運びつつ、ティコはいつものように表情をいっさい変えずに淡々と話しはじめる。
「気づいていらっしゃると思いますが、わたしはここに住んではいても、ビアンコさんたちの娘ではありません。拾っていただいたんです、赤ん坊の頃に」
いっきにワインを流しこんでのどを楽にしてから、セレーノはティコの言葉に答える。
「拾っていただいた、て……。たしかにあの二人はブロンドなのに君の髪は黒だし、二人への君の話し方にも違和感を感じたよ。それに、君はビアンコではなくキアーロと名乗っているから、おかしいとは思っていたよ」
「名前は拾っていただいたときに着ていたベビー服に刺繍されていたそうです。ご丁寧にフルネームで。ですから、ビアンコさんたちはそれを手がかりに必死で親を探してくれましたが、結局わからずじまいでした」
「でも名前以外で、他に何か手がかりになる様な物はなかったのかい? 例えば目撃証言とか」
その問いかけにティコは食べる手を止め、口を閉ざしてしまった。きっとキアーロという名前意外他に手がかりはなかったのだろう。
セレーノは話題を変えることにした。
「ところで、君はどこで拾われたんだい」
「チェレスティアーレ大聖堂です」
ティコは再び手を動かしはじめる。
「二十四年前の七月。暑くて眠れない夜に、偶然翌日の開店祈願にやって来たビアンコさんたちに発見されました。その時わたしはあの女神様の真下で、独りぐっすり眠っていたそうです」
「独り、か……」
あのだだっ広い大聖堂の中、生まれて間もない小さな赤ん坊が独りで眠っていたなんてあまりにも可哀想ではないか。
そんな赤ん坊の姿を想像すると、さっきとは別の意味で食べ物がのどを通らない。
そんなセレーノの気持ちを察したのか、ティコはきっぱりとセレーノに言った。
「そんな顔をしないでください。だいいち顔も覚えていない人のことなんて今さら何とも思いません」
相変わらず淡々と、むしろそんなことに興味はない、とばかりに無表情のまま黙々とティコは食事を続ける。
「本当に?」
そんなティコに納得がいかないとばかりに、眉間に深い一本線をいれてセレーノは訊いた。
「本当に何も思っていないのかい? 怒っても、憎んでも、ましてや会いたいとも思っていないのかい?」
「特に興味はありません。今まで親などいないと思って生きて来たのですから」
真っ直ぐ見つめてくるセレーノに、ティコもその手を止めて、正面からじっと彼の目を見据えた。
「これからだってそうです。わたしに親なんていませんし、いりません」
「でも」
尚もセレーノが何か言おうとした時、もういいですか、とティコがそれを遮った。
「わたしについてこれ以上楽しい話しはありません。少し喋り疲れたので、次はセレーノさんのことを話してください」
これ以上自分について話す気もないし聞く気もない、とばかりに目線を自分の皿に戻し、再び目の前の料理を口に運びはじめた。
その様子を見て、セレーノは仕方がないとばかりにため息を吐いて、自分がなぜこの街に来たのかを話すことにした。
「俺がこの街に初めて来たのは去年の六月だった。ちょうどこの街では年に一度の水謝際の日だったよ」
「この街では六月が夏の始まりですからね。もう少しすればまた水謝際の時期になります」
「ああ、そうだね。水謝祭は水をよく使う夏に向けて、先に水の女神様へ感謝の気持ちを込めて街中に水をまく感謝の祭りだよね。そして人々も互いにかけ合って、女神様の力を少しでも貰おうとする。観光客だろうとおかまいなしにみんなでかけ合うんだよね。俺もおもいっきりかけられたよ」
当時を思い出してクスりと笑うセレーノ。
「テレビカメラも何台か来ていて、凄い盛り上がりだった。楽しかったな。街の人も凄く親しみやすくってさ。それで次はこの街に住もうって決めたんだ」
それからグラスにワインをそそいでゆっくりと回し、当時を懐かしむようにセレーノは話しを続ける。
「知っての通り、俺は絵描きだ。昔から人を描くのが好きで、世界中の人をキャンバスに描きたくていろいろな国を転々としているって、さっき言ったよね」
黙って頷くティコ。
「そんな生活がもう十年は続いている。この街に来る前は東方の国で絵を描いていたんだけど、ある日知人からこの街のことを聞いてね。それで興味をもって去年やって来て、ここに住むことを決めた。けれど、前の国で大きな作品の制作途中でね。結局身辺の整理やら何やらで、ここに来るのが一年も先に延びてしまったわけさ」
セレーノはワインを一口飲んだ。
黙って聞いていたティコは、手を止めて、感心したようにぽつりと言った。
「十年もいろいろな国を渡り歩いているなんて、凄いですね」
「凄くなんてないさ。俺は自分勝手に生きているだけだよ。その証拠に、故郷の島に十年も恋人を置き去りにしたままさ」
セレーノは懐かしい島の風景と、愛しい恋人の顔を思い出しながら、はは、と力なく笑った。
「俺の故郷は本当に小さな島国で、海の上にぽつんと漂っているみたいだった。気候もどちらかというとこの街に似ていたかな。雨もめったに降らないし、真夏でも安定した島風のおかげでそれなりに過ごしやすい島だった。空気もきれいで、海は絵の具で塗ったみたいに真っ青だった。島の建物はどこもかしこも白くて、どこを切り取っても絵になる島だった。でも、それだけさ」
ふう、と長いため息を吐いて、セレーノはしばらく口を閉じた。それからまたゆっくりと話しはじめる。
「俺は嫌になったんだ。生まれてから二十年近くあの島に住んでいたけど、俺にはあの島の時間はいつも止まったままに感じられた。観光客もそれなりに訪れていたから、彼らを相手に島の絵を描いて生活していたけれど、俺にはどうしてもあの島は世界から忘れられた島にしか思えなくて、毎日ただ何となく過ごしていた。けれど、そんな退屈な毎日に一つだけ楽しい時間があった」
「……恋人といる時ですか?」
ティコの問いにそうだとセレーノが頷く。
それから財布をとりだして、中から一枚の写真を見せてくれた。そこにはどこまでも青い海を背景に、こちらに向かって優しく微笑んでいる女性の姿が写っていた。髪は癖のないストレートヘアーで、少しそばかすのある顔がなんとも愛らしかった。
「メーラ、ていうんだ。俺より四つ年下だったけど、しっかりした女の子だったよ。それでいて強い子だった。俺が島を出るって決めた時も、いっさい引き止めなかった。いつ戻ってくるかもわからないのにけっして涙も見せず、むしろ行ってこい、て怒られたよ」
写真の向こう側で微笑む恋人を見つめながら、セレーノは優しく微笑んだ。
「だから俺は決めたんだ。会えない代わりに毎日欠かさず手紙を送ろうってね。けれどメーラからは一度も返事がきたことはないんだ」
「十年も毎日欠かさず送りつづけているのにですか?」
不思議そうに首を傾げるティコ。
セレーノは困ったように微笑みながら、さあね、と言った。
「理由はわからないけど、何となく予想はつくよ。行ってこい、とは言ってくれたけど、たぶん本当はそう思っていなかったんだろうね。俺の我が侭を許すかわりに、彼女は俺にいっさい返事をしないつもりなのかもしれない。大人しそうに見えて、けっこう気が強かったから、メーラは」
恋人との楽しかったひとときでも思い出しているのか、その顔にひどく優しい笑顔を浮かべて話すセレーノを見て、よほど恋人のことを大切に思っているんだろうな、とティコは感じた。
(彼女が羨ましい……)
気がつけば写真の向こう側の女性に嫉妬している自分がいた。
そんな自分に戸惑いながらも、目の前で彼女の話しをしているセレーノを見ていると、なんだか切ない痛みを感じてしまう。
(わたしはいったいどうしたのだろう……)
「大丈夫? なんだか具合が悪そうに見えるけど」
ハッと顔をあげればセレーノが心配そうにティコを見つめている。
「いえ、ちょっと食べ物がのどに詰まっただけですから」
もう大丈夫です、と言うティコに、それなら良いのだけれどとセレーノは安心したように笑い、再び故郷について話しはじめた。
けれどセレーノがその話しをするたびに、ティコの胸はなぜだかチクチクと切ない痛みを増していく一方だった。