2人の物語
繋いでいた手が離れてどれぐらいたったんだろう…もう、わからない…
「うそ…」
海値は学校の昇降口から人工の空を見上げた。
灰色の空は黒味が強く、ぽつりぽつりと降り始めようとした。
「どうしよう」
17年生きてきた海値の経験からしても、だんだん強くなる通り雨なのは判断できた。
「………」
鞄を探さなくても折り畳み傘などなく、もちろん置き傘というものはない。
「……」
海値は後ろを振り返り、今、出てきた靴箱を見つめた。
海値たちが使用する靴箱に扉というものはなく、一目で出入りを確認できる。
…揺西。まだ帰っていない。
「………」
海値は再度、空を見上げた。
見上げたところで変化はなく、雨足が強くなる事を忠告し続けている。
今はまだ揺西と会いたくない。
海値は走り出した。
「ひゃ~。こんな日に限って、どうして…」
雲空の『忠告』は『警告』ではないかと思ってしまうほどの振りっぷりになり、海値は非難を決めた。
雨宿りに選んだのは商店街のハズレにある小さな個人商店だった所。
過去形になるのは、シャッターが下ろされて長い年月がたっているからである。
商店街は『住宅エリア』にあり、近場で晩のおかずを買い求めたい主婦にとっては便利であった。
とはいえ近くにできたスーパーに押され気味で、シャッターが開かない店が多くなってきた。
海値が雨宿りに選んだ所は特にひどく、虫に狙われた良質の葉よりも空洞が目立っている。
本当なら制服と髪に吸収した水分が少なければコンビニに入りたかったが、店員に嫌な顔をされるのは目に見えているので、人気のない場所をえらんだ。
「これじゃあ、風邪ひく…」
不満を口にするものの、雨空は止むどころか激しさを増そうとしていた。
海値はこの災難を友達にメールしようと鞄を開ける。
大切な精密機器が濡れないように鞄にしまっていたハンカチで拭きとってから、小さな画面に意識を集中した。
だから人が近づいてきているのに気づいたのは、その者が軒先に到着した後だった。
携帯を見下ろしている海値の視界に靴が現れたが、同じ目にあった人がいるらしいと思っただけで気にすることはなく、淡々とボタンを押し続けていた。
海値の手が止まったのは微かな声で呼ばれたから。
「揺西…」
見上げた先に同じ災難にあった幼なじみが立っていた。
「傘、持ってこなかったんだ」
「うん…」
「俺もだ」
「そう…」
傘を忘れたのは偶然でも、雨宿りにきたのは必然だとわかっていた。
「雨、止みそうにもないね」
「あぁ」
海値より5、6センチ高い揺西は後を追って来ただけあって、水の吸収量が多く前髪から滴がしたたり落ちる。
海値は鞄にしまったハンカチを渡そうかと考えたが、揺西に接近しなくてはならない事に気づき、腕の力をぬいた。
2人は雨空を見上げ、気まずい空気を消した。
「海値には聞こえなかったんだ。俺、ずーっとテレパシーで呼んでいたのに」
50センチという離れ過ぎていないが、いつもより遠くにいる揺西は呪文を唱えるように言葉を放った。
「涙羽じゃないから、わからないよ」
雨音にかき消されそうな返答が揺西の耳に入ったが、唇は閉ざされたまま動こうとはしなかった。
振り続ける雨は激しさを増し、軒下を密室にした。
「………」
友達に長いメールを送信して、さらに時が経過した。
2人は後悔していた。軒下に来たことに。
それから2人は待っていた。
時を
沈黙を破る言葉を
それを破ったのは、揺西だった。
「海値、ごめん。
あの時、手を離した事を後悔している」
揺西は海値の脇にある腕と、その先端にある手の甲を見つめた。
「…」
強引に握ろうと考えたが、見えないガラスの壁が手を覆っているような気がして、視線を雨空に戻すだけだった。
「…そう」
海値のそっけない返事が、手だけではなく海値全体を覆っている事に気づいた。
「海値…本当にごめん」
5、6センチの身長差からでも見下ろせなくなった揺西はしゃがみ、視界に海値が加わった。
「…」
海値は何も言わず、ただ雨空を見上げていた。
「もう…いいよ」
雨音でほとんど消された海値の声は揺西の耳だけはっきりと届いた。
「もう、この手は離れたんだから」
海値はその手を目の前に持っていった…はずだった。
しかし海値は揺西の手を見つめていた。
立ち上がった揺西の両手が海値の手を包んでいると理解できたのは、それから数秒後の事であった。
「海値……」
揺西は何か言いたかったが、思いつく言葉がなく、ただ海値の目を見つめていた。
揺西の強い目から逃れようとした海値は一歩後ろにさがる。
それでも後ろのシャッターまで余裕があるはずだが、堅い鉄がぶつかる音がした。
背中にある堅い感触よりも海値は、壁に押し付けられた揺西が接近する気配に意識した。
「海値…」
触れるはずだった唇が背き拒否される。
「海値」
「もう…無理だよ。私たち」
「どうして」
「あの日に手が離れたから。絶対に離さないでって言ったのに…もう、無理だよ。あの日にバラバラに壊れちゃったのよ」
「……」
海値に見えない壁があった事を思い出し揺西は離れようとした。
「七夕伝説」
その言葉が揺西の動きを止めた。
その言葉は海値が言い放ったものだった。
「……」
様さは海値の首筋に唇を押し当てた。
「よ…揺西」
全身に熱があがり、顔が真っ赤になったが、揺西は当然という目で見下ろしていた。
「七夕伝説がなんだよ。俺たちは、そんなもんのために壊されてしまうのかよ」
「……」
海値は視線を地面に逸らした。
「そんなものじゃ、ないでしょ。この都市を支えるために外夢がいて、彦星と織姫が必要なんじゃない」
「織姫なんて関係ねぇ。あんな鎖断ち切った」
海値は視線を戻した。
「断ち切ったって」
「昨日、あの女に堂々と正式に断った。もう織姫はやらない。町がどうなろうと、俺には関係ねぇ。俺は海値を選ぶと」
「………」
海値は視線を逸らしたが、すぐに戻した。
すぐに揺西の柔らかい感触が襲ってきたが、海値はすぐに離した揺西をみつめたままだった。
「海値。二度と塔には行かない。
もう迷わないよ。海値だけを見ている。
だから、本当に…」
「………」
海値は無言で了承した。
その目からあふれる涙で。
海値は揺西の唇を快く受け入れた。
長く、唇みたいに柔らかいものが口の中に入ってきても、海値が拒むことはなかった。
「…………」
軒下を密室にしていた通り雨は、少しづつ弱まっている。
「……」
揺西の唇は未だに離れる様子はなかった。
海値とは違い、開いている揺西の目は何かを捉えた。
それは一瞬で揺西にも、それが何かまでわからなかった。
しかし、その一瞬、揺西の目は無意識に笑っていた。