帰路
日が沈み闇の濃度が高くなってゆく。
走れば走るほど視界が狭くなり、不安が少しづつのしかかっていく。
海値は自分が泣いていることに気づいていた。
揺西が手を離した事に対しての涙であると。
握っていた手が離れた時、海値は見えないモノ、何もかも一緒になって切れてしまったように思えてならなかった。
「………」
目の前にあるビルから人が出てきた事に方向を変えて走り出そうとしたが、曲がった先には5、6人ぐらいの人が集まっていた。
仕方なく、人の少ない方を選び、泣き顔を見られないように走り抜けて行く。
走る海値にこみ上げてくる感情にひたっていられなかった。
しかし気を緩めれば涙があふれていく。
「とにかく…中央エリアに向かおう…」
小さな声で自分に言い聞かせ、海値は車道にある看板を見上げる。
前方 中央エリアへ
左方 工業エリアへ
後方 都市外へ
「………」
今の海値に後方へ向かう考えはなかった。
もしかしたら揺西が待っているのかもしれない。と、頭に浮かんだが、海値の足は前方に向かうだけであった。
歩道を走り続ける海値は不安な音を聞いた。
1台の車が通り過ぎることなく、減速し、クラクションを鳴らした。
「海値さん?」
戸惑うように呼ぶ声に海値は不安を拭い去ることができた。
田崎は車を止めて、助手席に身を乗り出した。
「お帰りですか?よろしければ、乗って…」
気が緩んだ海値からどっと涙があふれだしていた。
「海値さん、とにかく乗ってください」
わざわざ車を出て助手席のドアを開ける田崎の行動に、素直に従うことにした。
ドーム都市内を走る車は町専用のもので、ガソリンはなく湯水のように使えるエネルギー、電気自動車である。
さらなる改良を加えた電気自動車に音なく、室内は海値が泣くために必要な音と、田崎が気を利かせてかけたラジオが響いた。
「………」
田崎は車道上の看板を見上げ、声をかけて良いものか悩んだ。
というのも都市で車が使用できるエリアが限られているからであった。
人工でまかなえる、大きくはない町。
限られた敷地内で活動する者がほとんどで公共のバスがあれば十分間に合った。
都市内専用の電気自動車しか走行が認められていないので車の需要は足りず値段もかなり高い。
田崎のようにレンタルすれば、駐車場という限られた都市内で余計な土地を探し維持費に悩む必要はなかった。
車を必要としない都市内なので車道は細く、都市は『クリーンな空気を』と掲げ、車の制限を徹底的にした。
特に住宅エリアは宅配などの営業、緊急車両以外は入れないようになっていた。
田崎はバックミラーから海値の様子を伺おうとしたが、鏡で海値と目が合った。
「そろそろ住宅エリアですね」
薄暗い車内、泣き顔がいっそう痛々しく見えてしまう。
「そこら辺で止めてください。すいません。ありがとうございました」
田崎はウィンカーを両方に灯し、車を止める。
少しでも彼女を元気づけたい田崎は、小心者の運転手のように慌てて運転席を出ると、助手席のドアを開けた。
「すみません」
海値が席から立ち上がっていくのに励ます言葉が思いつかない。
「海値さん、ココアはどうですか?」
自動販売機に目が止まり、慌てて財布を取り出した。
少しでも力になりたい、断られる前に買って元気づかせようと思い、動作は焦り無様になってしまう。
「待ってください、今…すぐに…」
田崎は言葉を閉ざした。
言葉を失ったのは、海値が背を向けて走り出したのではなかった。
「みち…さん?」
海値らしき人の気配が後ろにあった。
田崎の背中に何か小さな感触がした。
海値の頭が田崎の背中に触れているとわかった時、目の前の自販機が音をたててココアを落とした。
「………」
田崎は動くことなく、背中から伝わってくる少女の僅かなぬくもりと、小さな鳴き声を耳にした。
「揺西が…離れていっちゃう。もう、戻れない」
2人の関係は(施設内では)有名すぎるため、現場を目にしていない田崎でも揺西と何かあったぐらいは冊子がついていた。
涙を流す海値を知り、それが容易な問題でない事も。
「もう、戻ってこない…揺西は涙羽の所に行ってしまう…」
海値の弱々しく、心の底からたまっていた不安を口にした。
彦星と織姫という都市が決めた仲に挟まれる形となっていた海値が『それ』を口にすることはなかった。
だが気にしていないわけではない。不安はいつでもあった。でも、まだ余裕は残っていた。不安を口にしなくても、揺西が近くにいて、いつでも会える優越感により、それを口にする必要はなかった。
しかし、不安に揺れ動く中での脱走が失敗し、揺西は海値の手を離してしまう。
ただ手を離しただけだが、海値にとってその手と手は、結ばれていた運命の糸同然に思っていた。
手が離れたことにより、それも切れてしまった。
海値が涙を流す理由はそこにあった。
「………」
田崎の背中に海値の小さな両手が触れた。
一度『それ』を口にしてしまった海値から周りの視線を気にする冷静さを失い始めていた。
車を止めた自販機に、ビルはあっても人の姿はなく、闇中にたたずむ2人に不審な視線を向ける通行人の気配もなかったので、田崎は周りの視線を気にする必要はなかった。
「…………」
田崎は背中で泣き続けている海値に胸がつまっていた。
彼女を助けてあげたいという、思いが。
このままだと彼女は1人になってしまう。という言葉が浮かんだ。
揺西君には彦星がいる。施設の関係者がいる。
だけれども彼女は1人だ。生物に好かれていても、彼女は関係者ではない。
1人、白い世界に取り残され、立ち尽くしている海値の姿を思い描いた田崎は、無意識に海値から背中を引き離し、向きをかえて腕を伸ばした。
伸ばした腕が海値に触れる寸前で田崎は我に返り、少女に触れていいものかという戸惑いを覚える。
だが、うつむいたまま動こうとしない海値の姿を目にし、ためらいを消した
腕は柔らかくぬくもりのある感触を伝えた。
海値は腕にとらわれた事にびくっと震えたが、抱き寄せられ頭を頬に触れる、田崎の胸に安堵感を覚え目を閉じ、顔をうずめた。
「………っく」
腕の中で海値の泣き声が耳に届いたが、田崎は安心して時の流れに身を任せた。
海値を守ってあげたいという思いは、小さな子供を守ってあげたいという保護者的な考え方であったが、田崎は別の思いがある事を知っていた。
『…それは、小一君に対する危機感が強くなってしまいますが…仕方ありませんね』
心の中で唱えた田崎は、海値を優しく見続けた。