灰色
田崎は自動販売機のボタンを押してスポーツドリンクを取り出し海値に渡した。
「ありがとうございます」
電気のない蒸し暑い外とは違い、塔の中は制御されていると思えないほど快適なものだった。
「馬鹿なのは、私の方かもしれません」
エネルギー施設に到着する頃には、海値の表情は人工空の様に曇っていた。
「え?」
田崎が自分の分を自販機で購入していた時の発言だった。
「………」
海値は何も言わず歩きだした。
『今のは、揺西君との事…だったんでしょうね』
独り言にでも敬語をやめない田崎は、缶の蓋を開けて潤いを体内に流す。
「辛いですか?」
その時も田崎は同じ解釈をして、海値に尋ねた。
田崎が質問に使った言葉は2回目であるが、海値は質問の意味を理解した。
「辛くないと言ったら嘘になります…」
「そうですね。2人はつきあっているのですから」
「………」
当たり前の事を言う田崎を見る海値の目は、複雑な色をしていた。
「私、本当に揺西と恋人になっているのかな」
唐突な言葉に田崎は視線を向けてしまったが、うつむいて髪がさらりと流れるように頬より前に揺れて海値の心情を隠してしまった。
「時々、不安になるんです。今、揺西と一緒にいられるんだけれど本当に私は楽しいのか」
「それは幼なじみだからでしょう。海値さんと揺西君は長い間一緒にいるのですから。いることが当たり前になって…。
もしかしたら『嬉しい』に慣れてしまったんじゃないでしょうか」
「嬉しいが慣れた…ですか」
田崎の変わった言葉に対して海値はくすりと笑ったが、その言葉に納得する様子は見当たらない。
「………」
海値は何も言わずに数歩あるき窓外から見える灰色の空を見上げた。
「やっぱり、あの人の言うとおりなのかな」
「あの人って?」
「戸立さんです」
返答する海値の視線は下がっていた。
「戸立さんはね、彦星、涙羽がいるから。それに反発しているって。意地になって、つきあっているフリをしているって」
田崎は何も言わず、海値の話に耳を傾けた…というより言葉を返せないでいた。
「無理に付き合っているって言われた時、反発したけれど。冷静に考えれば…そうかもしれない気がする。
私も揺西も恋人になるため、恋人のフリをして、恋人がする事を真似しているだけじゃないのか…って」
「………」
田崎は何も言えない。できることならば、何が『良い言葉』を言いたかった。
「恋愛ってなんだろう…ドキドキする事?」
空を見上げ、海値は言葉を吐き続けた。
「好きになるってどういう事なのかな」
灰色の空を見上げる海値の顔は、モノクロの様に見えた。薄灰色と白の2色だけでできた、淡く消えてしまいそうな気配を漂わせて。
「少し。距離をおいてみてはどうでしょうか?」
弱々しい海値を見続けていた田崎は、ようやく助言を口にした。
「………」
田崎の声に気づいた海値は、田崎の存在を思い出したかのように振り向いた。
「………」
海値は田崎の助言が耳に届き、理解してから表情をあらわにした。
「海値…さん」
淡く消えそうな表情から二スジの涙が流れた。
「…あれ?涙が…どうしちゃったんでしょうね、私たら」
無意識によるものだったらしく、手に触れて慌てだした。
「それよりも先に『女の子を泣かしてしまった』という事に慌てていた田崎だが、海値の慌てぶりを見て少しだけ冷静を取り戻した。
それは一ヶ月前まで彼女がいた経験があるからなのか、それとも『自分が(男として)しっかりしなければならない』を思えたからかは定かではないが。
田崎はズボンのポケットに手を入れてハンカチを取り出した。
海値は小さな声で礼を言ってから、涙を吸収させる。
「揺西君に恋をしている証拠ですね」
海値はうなづいた。
「………」
回想を終えた田崎は、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭こうとしたが、洗って返す事になっていたので、手は空洞をつかむだけであった。
「………」
田崎は息を吐き出し、あてがわれた宿泊部屋へ戻ることにした。
「ぶもぉ」
…はずだった。
田崎は耳を疑ったが、独特の鳴き声の後に続いて聞こえてきた床にあたる固い音は、空耳にすることはできなかった。
どっと吹き出てくる汗をほったらかし『みみみ海値さんは、今日は眠っているといったのに…』と思いながら近づいてくる音に耳をすましたが、それらしい音は消えていた。
「あ…あれ?」
「ぶもっ」
「ひぃぃっ」
足を止めるほど間近づいていた事を知り、田崎は三流コメディアンのような驚くポーズをとってから、慌てて背を壁にくっつけた。
「こここ小一さん。どどどどうして起きているんですか?」
人間後を理解できないのはわかっていたが、田崎は口にするしかなかった。
田崎は左右を見渡し誰か(特に海値)人はいないか探したが、しぃんと静まり返った空間は田崎に汗をかかせた。
「まだ、起きるには時間がある。だが、お前に会うため、無理に起きた」
「………」
田崎は自分の耳を疑い、目を疑った。
目の前にいる灰色の長毛牛、小一の口が開くたびに人間の言葉が放たれたのだから。
「驚いたか」
目を見開いたまま動けない田崎に小一は嘲笑の声をあげた。
「我の素。外夢には噂がある。外夢は素人間であったと」
「そ、それは聞いたことがあります。でででも、噂だと」
「ならば、なぜ、我はしゃべれる?」
小一の顔が近づいた。
逃げ場のない田崎は、短く小さな悲鳴をあげ、支える力を失い座り込む。
地を這うような低い生物の声が田崎に更なる不安を与えた。
「とはいえ、これは噂話だ。我がしゃべった事を他の者に言ったところで、誰も信じることはない。お前の頭を疑うだけだ」
近づいた顔が離れた時、遠くの方から物音と人の声が聞こえた。
「誰か来てくれ、外夢小一が脱走して、また、例の人を襲おうとしている」
通りすがりの職員が見つけてくれたらしいが仲間を呼びに離れてしまった。
「ちっ。気づかれなければ、一思いにやるつもりだったが」
「ひっ。
でも、なぜ、どうして…私を襲おうとするのですか?」
「消したいからだ」
小一はストレートに答えてから、さらに続ける。
「お前は気に入らない。大好きな海値を奪うからだ」
「奪うからって、それは私よりも揺西君の方じゃないですか」
笑い声が響いた。
「揺西。あれは手にできない。海値を奪うことができない。海値を奪ったフリをしているだけ」
「そんな…でも、私は、私の方は」
「お前を見るだけで、気配を感じるだけで。海値が奪われる嫌悪感が生まれる」
小一は遠くから響き渡ってくる音に気づき、耳をその方向に傾けた。
「覚悟しておけ。海値を奪おうとする前に、お前の命を奪う」
慌しくかけつける足音が響く中、小一は予告し、それから機嫌の悪い声で『ぶもっ』と鳴いた。
田崎は何も言わず身動き一つすることなく、小一と職員たちが慌しく消えていくのを目にする事しかできなかった。