私は何か過ちを犯しましたか?
春の陽光が差し込む謁見の間は、いつもなら心地よい暖かさを感じさせる場所だった。しかし今日、この場所はリディア・フォレスティア侯爵令嬢にとって、人生で最も冷たい場所となった。
「リディア・フォレスティア。私はあなたとの婚約を破棄する」
第一王子アレクシス・ヴァンデール殿下の声は、驚くほど冷たく、感情を欠いていた。リディアは信じられない思いで王子を見つめた。幼い頃から婚約者として育ってきた二人。十年以上の時間を共に過ごし、来月には正式な婚約式を控えていたはずだった。
「殿下、これは一体……」
「理由を聞く必要はないだろう。私の心は既に決まっている」
王子の隣には、見知らぬ少女が立っていた。白金色の髪、澄んだ青い瞳、そして全身から放たれる神々しい光。リディアは直感的に理解した。この少女こそが、自分から婚約者を奪った存在なのだと。
「殿下、私は何か過ちを犯しましたか? 何か殿下のお気に召さないことを?」
リディアは必死に声を絞り出した。しかしアレクシスは冷たく首を振る。
「過ちなどない。ただ、私には真に守るべき者ができた。それだけだ」
「守るべき者……?」
「そう。聖女アリシア様だ」
その言葉に、謁見の間がざわついた。聖女——それは数百年に一度、この世界に現れるという伝説の存在。魔物を浄化し、病を癒し、飢饉を終わらせる奇跡の力を持つと言われている。
白金色の髪の少女——アリシアが、優しげな微笑みを浮かべてリディアを見た。
「リディア様、どうかお恨みにならないでください。私も、こんなことになるとは思っていませんでした。でも、アレクシス様と私は運命で結ばれているのです。聖なる神託がそう告げたのですから」
その言葉は謙虚に聞こえた。しかし、リディアの胸には何か違和感が引っかかった。アリシアの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、冷たい光が宿ったように見えたのだ。
「父も母も、既にこの件については了承している」
アレクシスの言葉に、リディアは愕然とした。自分の両親すら、この婚約破棄を認めたというのか。
「では、私はこれからどうすれば……」
「聖ローザ修道院に入ることを勧める。そこで静かに祈りの日々を送るがいい」
それは実質的な追放だった。王都から遠く離れた北の辺境にある聖ローザ修道院。そこに入れば、二度と社交界に戻ることはできない。婚約を破棄された上に、修道院送り。それは貴族令嬢にとって、社会的な死を意味していた。
「畏まりました」
リディアは深く頭を下げた。涙を見せるわけにはいかなかった。最後の誇りが、彼女にそれを許さなかった。
謁見の間を退出する時、リディアは振り返った。アレクシスは既に彼女のことなど見ておらず、アリシアと何か話し込んでいる。まるで、リディアという存在が最初からいなかったかのように。
心に大きな穴が開いたような感覚だった。しかしリディアは、まっすぐに前を向いて歩き続けた。
聖ローザ修道院は、雪深い北の山々に囲まれた静かな場所だった。石造りの古い建物、質素な部屋、そして規則正しい祈りと労働の日々。リディアはここで、新しい生活を始めた。
最初の数週間は、ただ無為に過ごした。祈りの言葉も心に入ってこず、食事も喉を通らない。夜は眠れず、アレクシスとの思い出ばかりが脳裏に浮かんでは消えた。
しかし、時間は確実に流れていく。そして人は、どんな悲しみにも慣れていくものだった。
三ヶ月が経った頃、リディアは初めて修道院の図書室を訪れた。古い書物が並ぶ薄暗い部屋。埃の匂いと羊皮紙の匂いが混じり合っている。
「ここの蔵書は、王都の図書館にも負けないのですよ」
老齢の修道女、シスター・マルタがそう言って微笑んだ。彼女は修道院で最も長く暮らしている人物で、図書室の管理を任されていた。
「特に、聖女に関する古文書は貴重なものばかりです。興味がおありですか?」
リディアは一瞬躊躇したが、頷いた。アリシア——自分から全てを奪った聖女のことを知りたかった。彼女が本当に聖女なのか、確かめたかった。
古文書は予想以上に詳細だった。過去に現れた聖女たちの記録、彼女たちが行った奇跡、そして聖女の持つべき特徴。
「聖女は必ず、生まれつき胸に星型の痣を持つ」
「聖女の血は、魔物を浄化する力を持つ」
「聖女の祈りは、枯れた大地に雨をもたらす」
リディアは一つ一つの記述を丁寧に読んでいった。そして、ある一節に目が留まった。
「偽りの聖女に注意せよ。真の聖女は謙虚であり、決して自らの力を誇示することはない。偽りの者は、光の魔法で聖女を装うことができる。しかし彼女たちには、聖女の証である痣がなく、血に浄化の力もない」
リディアの心臓が高鳴った。アリシアには本当に痣があるのだろうか。彼女の血には浄化の力があるのだろうか。
その夜、リディアは初めて、自分の中に新しい感情が芽生えているのを感じた。それは怒りでも憎しみでもなく、真実を知りたいという純粋な欲求だった。
翌日から、リディアは図書室に通い詰めた。聖女に関する書物だけでなく、魔法、薬学、歴史書。あらゆる知識を吸収していった。
そして半年が経った頃、奇妙なことが起こり始めた。
リディアが祈りを捧げると、修道院の庭に植えられた花々が一斉に咲き誇った。彼女が傷ついた小鳥に手を当てると、傷が癒えて飛び立っていった。井戸の水が濁った時、リディアが祈りを捧げると、水は透明に澄んだ。
「これは……もしかして」
シスター・マルタは、驚きの表情でリディアを見つめた。
「リディア様。あなたには、聖女の資質があるのかもしれません」
「そんな、まさか」
リディアは首を振った。しかし、彼女自身も気づいていた。自分の中に、以前はなかった何かが目覚めつつあることを。
それは温かく、優しく、そして強い力だった。
リディアが修道院で静かな日々を送っている間、王都では奇妙な出来事が続いていた。
聖女アリシアは華々しく宮廷に迎えられ、第一王子の婚約者として君臨していた。彼女は定期的に「奇跡」を見せ、民衆の支持を集めていた。病人を癒し、貧しい者に施しを与え、時には大雨を降らせて農作物を救った。
しかし、宮廷魔術師長のガブリエルは、アリシアに疑念を抱いていた。
「殿下、失礼ながら申し上げます」
ある日、ガブリエルは密かにアレクシスに面会を求めた。
「アリシア様の奇跡について、いくつか気になる点があるのです」
「何を言う。あの方は真の聖女だ。神託もそう告げている」
「その神託とは、一体誰が受けたのでしょうか」
ガブリエルの問いに、アレクシスは言葉に詰まった。実は、神託を受けたと主張しているのはアリシア本人だけだった。他の神官たちは、誰も神託を確認していない。
「それに、古文書によれば、真の聖女には胸に星型の痣があるはずです。アリシア様にそれがあるか、確認されましたか?」
「それは……女性の身体を調べるなど」
「では、血の検査はいかがでしょう。聖女の血は、魔物を浄化する力を持つと言われています」
アレクシスは困惑した表情を見せた。彼は確かに、アリシアの美しさと神々しさに惹かれていた。彼女が現れてから、リディアのことなど頭から消えてしまっていた。しかし、今ガブリエルに指摘されて、自分が何一つアリシアのことを確認していないことに気づいた。
「調べてみよう。しかし、慎重にだ」
その夜、宮廷では秘密裏に検証が行われた。アリシアの血液を採取し、魔法陣の上に垂らす。もし聖女の血であれば、魔法陣が浄化の光を放つはずだった。
しかし、何も起こらなかった。
「これは……」
ガブリエルと何人かの信頼できる側近たちが、驚愕の表情で顔を見合わせた。
さらに調査は続いた。アリシアが行った「奇跡」の一つ一つを検証していくと、全てが高度な光魔法で説明できることが判明した。病人の治癒も、実は薬学と催眠術の組み合わせ。大雨も、気象魔法による人工的なものだった。
「つまり、アリシア様は……」
「偽物だ。聖女を装った魔法使いにすぎない」
アレクシスは、自分の愚かさに打ちのめされた。リディアを捨て、国家の威信をかけてアリシアを聖女として迎え入れた。その全てが、壮大な詐欺だったのだ。
「すぐにアリシアを捕らえよ。そして……」
アレクシスは苦渋の表情で言葉を続けた。
「リディアを王都に呼び戻せ。私は、取り返しのつかない過ちを犯した」
王都で騒動が起こっていることを、リディアはまだ知らなかった。
ある朝、修道院に一人の旅人が訪れた。重傷を負った若い騎士だった。魔物に襲われ、深い傷を負っていた。修道院の医療室では手に負えないほどの重症だった。
「もう助からないかもしれません」
修道女たちが絶望的な表情で囁く中、リディアは騎士の元に歩み寄った。
「私に、やらせてください」
彼女は騎士の傷口に手を当て、静かに祈り始めた。すると、リディアの手から柔らかな光が溢れ出し、騎士の傷を包み込んだ。傷口は見る見るうちに塞がり、失われかけていた意識が戻ってきた。
「こ、これは……」
修道女たちが息を呑む。それは間違いなく、聖女の力だった。
騎士が目を覚ました時、彼は驚きの表情でリディアを見つめた。
「あなたは……もしかして、リディア・フォレスティア様ですか?」
「そうですが……」
「やはり! 私は王都から参りました。第一王子殿下の密命を帯びて」
騎士は懐から一通の手紙を取り出した。アレクシスからの手紙だった。
リディアは震える手で封を切り、手紙を読んだ。そこには、アリシアが偽聖女であったこと、自分の過ちを認めること、そしてリディアに戻ってきて欲しいという懇願が綴られていた。
「殿下は、あなたを深くお慕いしています。どうか、王都にお戻りください」
しかしリディアは、静かに首を振った。
「お断りします」
「リディア様!」
「私はもう、あの方の婚約者ではありません。そして、あの方の心は一度、私から離れました。それは事実です」
リディアの声は穏やかだったが、確固たる意志に満ちていた。
「それに、私には今、ここでやるべきことがあります」
リディアは修道院の窓から外を見た。北の辺境には、まだ多くの苦しむ人々がいる。病に倒れる者、飢える者、魔物に怯える者。
「真の聖女の役目は、権力の中心にいることではありません。本当に助けを必要としている人々のそばにいることです」
その言葉に、騎士は何も言えなくなった。リディアの姿は、彼が王都で見た華美な貴族令嬢とは全く違っていた。そこには、確かに聖女と呼ぶにふさわしい気高さがあった。
「殿下に伝えてください。私は幸せです、と。そして、もう私のことは忘れて、国のために尽くしてくださいと」
騎士が去った後、シスター・マルタがリディアの元にやってきた。
「本当にそれでよかったのですか? あなたは王子妃になれたかもしれないのに」
「ええ、これでよかったのです」
リディアは微笑んだ。それは、この一年で初めて見せる、心からの笑顔だった。
「私は失ったものを嘆いていました。でも今は分かります。あれは失ったのではなく、新しい道が開かれたのだと」
その日から、リディアは辺境の村々を巡り始めた。病人を癒し、作物に恵みをもたらし、魔物を浄化した。彼女の評判は次第に広がっていった。「北の聖女」と人々は彼女を呼んだ。
半年後、王都ではアリシアの裁判が行われていた。偽聖女の罪は重く、国外追放が言い渡された。アレクシスは、自らの判断の甘さを深く反省し、以前にも増して真摯に国政に取り組むようになった。
リディアの元には、時折、王都からの手紙が届いた。アレクシスからの謝罪の手紙、両親からの心配の手紙、かつての友人たちからの近況報告。
しかしリディアは、王都に戻ることはなかった。彼女の心は、既に別の場所にあった。
ある冬の日、リディアは雪に閉ざされた小さな村を訪れた。疫病が流行し、多くの村人が苦しんでいた。
リディアは何日も村に留まり、一人一人の病人を癒して回った。自分の体力が尽きるまで、祈りを捧げ続けた。
そして最後の一人を癒し終えた時、リディアは力尽きて倒れそうになった。しかし、村人たちが彼女を支えた。
「聖女様、ありがとうございます」
「あなたのおかげで、私たちは助かりました」
「どうか、無理をなさらないでください」
温かい言葉、感謝の涙。それは、かつて王都の社交界で受けた賞賛とは全く違うものだった。これは、本当に人の心から出た言葉だった。
「ありがとう」
リディアは小さく呟いた。それは村人たちへの言葉であると同時に、自分自身への言葉でもあった。
婚約破棄という悲劇は、彼女に新しい人生をもたらした。王子妃という地位は失ったが、代わりに本当の自分を見つけることができた。
春が訪れた。雪解けの水が流れ、大地に緑が戻ってきた。
修道院の庭で、リディアはシスター・マルタと並んで座っていた。
「後悔はありませんか?」
老修道女の問いに、リディアは首を振った。
「いいえ。あの時、全てを失ったと思いました。でも今は分かります。あれは終わりではなく、始まりだったのだと」
「あなたは真の聖女です、リディア様。いえ、リディア」
シスター・マルタは優しく微笑んだ。
「様」を付けずに呼ばれたのは、これが初めてだった。それは、リディアがもはや貴族令嬢ではなく、一人の修道女として、そして一人の聖女として認められたことを意味していた。
遠く、王都の方角から風が吹いてきた。かつての記憶を運ぶ風。しかしリディアの心は、もう過去に縛られることはなかった。
彼女の前には、新しい道が続いている。真の聖女として、人々を救う道が。
それは、誰かに与えられた道ではなく、自分自身で選び取った道だった。
リディアは立ち上がり、北の空を見上げた。そこには、無限の可能性が広がっていた。
数年後、王都では新しい王妃を迎える式典が行われていた。アレクシスは、隣国の王女を妃に迎えることになったのだ。政略結婚ではあったが、二人は互いを尊重し合う関係を築きつつあった。
式典の最中、アレクシスはふと北の方角を見た。そこには、かつて愛した女性がいる。今では「北の聖女」として、多くの人々に慕われている女性が。
「リディア……」
彼の胸に、今も小さな痛みが残っていた。しかし同時に、彼女が幸せであることを願っていた。
そして北の辺境では、リディアが新しい一日を迎えようとしていた。朝日が昇り、雪解けの大地を照らす。彼女の周りには、助けを求める人々が集まっている。
リディアは微笑んで、彼らを迎え入れた。
これが、彼女の選んだ人生だった。
そして彼女は、心から幸せだった。




