笹舟
小学生の頃。俺と錦)兄はよく近所にあるこの小川で遊んだ。その当時工作が好きだった錦兄は、小川に行く時は必ず自分で作った船を持参し、川に浮かべた。どんな船かは
毎回持ってくるたびに違う。しかしどんな材料を使っていても、どんな形をしていても、
錦兄が持ってゆく船はみんな立派に見えた。
「見ろよ吟。すごい船だろ。」
船だけでなく、いつも自信満々に自分の船を見せつける兄貴も立派だと思っていたのをよく覚えている。
すごいのは船を作る事だけじゃない。錦兄はどんな事でもできた。俺は当時幼かったが、いつしか錦兄は偉大な事をやってのけるに違いないと肌で感じていたのを覚えている。
俺も人並み以上にいろいろとできる人だったが、とても錦兄には及ばなかった。
「いいな~。僕もお船やりたーい。錦兄ちゃんみたいにお船やりたーい」
川に船を浮かべている錦兄の姿が楽しそうだったので、いつしか俺も錦兄と一緒に
川に船を浮かべて遊ぶようになった。錦兄みたいに立派な船の作り方を知らない俺は、いつも川の近くに生えていた笹をちぎり、笹舟を作って兄貴の船の近くに浮かべた。
しかし俺の笹舟は笹を船のような形にしただけの物だ。兄貴の立派な船とは違う。
脆い笹舟は小さな波であっという間に船の形を失い、いつも笹舟からすぐにただの笹となって川の底に消えてゆく。
「ああ~吟の船はここでリタイアか~」
「でも、錦兄ちゃんの船はまだまだ行けそうだよ」
立派な錦兄の船は、俺の笹船よりもずっとずっと遠くまで流れた。目を細めてやっと見えるくらい遠くまで。
「・・・・・あの船、海までいけるかな・・・」
「絶対いけるよ!錦兄ちゃんが作った船だもん!」
そう。錦兄のならば絶対に行ける。大きくて偉大な海までたどり着ける。形を真似しただけの俺の笹舟とは違って。
思えばこの時から感じ始めていた。錦兄は俺よりもずっとずっとすごくて・・・・
俺はどんな事をやっても錦兄よりすごくなる事はできない。俺と錦兄は血がつながっていても双子ではなかったので、俺の顔や体格は微妙に錦兄に似ている。瓜二つとまではいかない。だから近頃思う。俺は、人としての材料を錦兄の形に無理やり近づかせようとした結果、出来上がった存在なのかもしれない。立派な船の横に浮かんでいる、無理やり船の形にさせられた笹船のように。形が微妙に似ているだけで、性能は全然違うあの笹船のように。俺がこんな事を思うようになるまで時間はあまりかからなかった。
欠陥品の俺は・・・存在してもしなくてもどうでもいいかもしれない。
コンディションは十分。イメージも十分。よし!飛べるはず!
俺は目の前に置かれた高さに向かって走りだし、体を思いっきり反らせて飛んだ。
まぶしい茜色の夕陽が一瞬だけ目に差し込む。そのままマットに背中から落ちた。
ガチャン!
俺が通った後から何かが落下したような音が響いた。
「・・・・また失敗・・・」
錦兄は一カ月も前にこの高さを飛んだというのに、俺は未だにそこに届かない。
今日も部活の練習だけでは物足りず、こうやって残って練習しているのだが・・・・
この高さで飛んで、バーの落ちる音が聞こえずに済んだ事など一度もなかった。
「・・・・飛びたいと思う気持ちは・・・これを飛んだ時の錦兄よりも強いはずなのに・・・」
これで失敗は何回目だろう。もう百を超えてしまっただろうか。
「吟ちゃん今日もやってるの?」
マットの上で仰向けになっている俺を見降ろしながら、識は俺に訪ねた。
「ああ。」
「毎日すごいね~」
「・・・そんなもんじゃねえよ・・」
すごいわけがない。俺はただ単に錦兄に置いていかれるのが嫌なだけだ。このまま
何もしなかったら、錦兄はあっという間に遠くに行ってしまうだろう。そうなってしまったら自分という存在が錦兄の欠陥品である事がばれてしまう。俺が今こうして努力しているのは、駄目な自分の姿をごまかすためだ。とても立派なものとは呼べない。
思ってみれば、俺は生まれた時から劣化版錦兄だった。
父さんと母さんは結婚してもすぐには子どもを作らず、父さんが出世して家計を安定させ、育てる準備をきちんとしてから子どもを作ろうと決めていたらしい。そうやって段取り通りに生まれた子どもが錦兄だった。
当初、父さんと母さんは子どもを一人だけ作るつもりだったらしい。だが錦兄が生まれたその年、母さんに再び子どもができてしまった。それが俺。つまり俺は急遽作られた
錦兄二号みたいなものだ。
「・・どうしたの黙りこんで?」
「べつになんでもねえ」
俺は体を起こし、高跳びの練習に使った機材を片づけ始めた。
「今日はもう終わりなの?」
「ああ。早く帰らないと親に心配かけるしな」
「だったら、一緒に帰ろう」
「じゃあ手伝ってくれ」
「え~」
識は不満そうな声を出し、目を細めてこちらを睨んだ。
「彼女が一緒に帰ろうって言ってるのに、それに対して交換条件を提案するのって酷くない?」
「ハハっ」
「笑ってごまかすな!全くもう・・・・」
文句を言いながらも識は手伝い始めた。識は変なところで真面目だ。
機材を片づけ終えた俺たちは学校を後にした。茜色の夕陽が輝いていて、道や建物全てに薄く夕陽の色が混ざっている。
「もうすっかり夕方だね~」
「なんだそれ?見ればわかるじゃねえか」
「まあそうだけど」
いつものようにくだらない事ばかりを話しながら俺たちは歩いていた。しばらくして
識がこんな事を提案した。
「ねえ。近くにあるあそこの川に行ってみない?」
あそこの川っていうのはたぶん、俺と錦兄がよく遊んでいたあの小川の事だろう。
「急にどうしたんだ?」
「今ぐらいの時間帯に行けば、きっと夕陽がきらきら反射して綺麗なんじゃないかな~
と思って」
頭の中でそんな風景を想像してみた。確かにそうなっていたらとても綺麗だろう。ちょっと興味がわいた。
「じゃあ、少し寄ってみるか」
「そうこなくっちゃ!」
俺たちはいつも右に曲がる道を左に曲がり、小川を目指した。あそこに行くのは久しぶりだな。
「うわ~きれ~い」
丘の下に流れている川は、まさに俺がさっきイメージしたような感じになっていた。水が茜色の光を乱反射し、きらきらと輝いている。
「本当に綺麗だな」
「本当にそうだね」
「ああ」
「もう!そこで『識の方が綺麗だな』とか『識。君の事だよ』とか言ってよ」
「言えるか!」
いつの時代のカップルだ。
「ねえ。もっと近くまで行こうよ」
識は丘を猛スピードで下り始めた。あぶねえと言おうとしたが、
「ぎゃふ!」
遅かった。
そういえば俺と錦兄もここに来るたびにこの丘を猛スピードで下った。安全に下に降りるための階段はあったのだが、目の前の遊び場に行くために回り道をするなんてめんどくさい事をやるわけがない。『危ないですから丘をかけ下りないでください』と書かれた看板など、俺たちにとって在って無いようなものだった。そういえば笹はまだこの近くに生えているのだろうか。
「吟ちゃんどうしたの?」
「ちょっと探し物」
さすがにもう無いと思っていたのだが、昔と同じところに生えていた。植物って結構
頑丈だ。
「あったあった」
「笹?なんでこんなところに?」
「さあな。誰かが植えたんじゃねえの」
よくよく考えてみればおかしな話だが、小さい頃にこの情景を何度も見ていた俺にとっては、その不思議さなんか気にならない。俺は昔のように笹の葉を一枚取り、船を作り始めた。
「私もやる」
「手を切らないようにしろよ」
「あいてっ!」
注意をうながしてから一秒もしないうちに識は指に切り傷を作った。やれやれだ。
俺は鞄の中からばんそうこうを取り出した。
「ほら。切ったところを見せてみろ」
「ん・・・・・・」
俺は識の右手を左手で軽く掴み、右手でばんそうこうを貼ってやった。
「普通だったら男が貼られる方で女が貼る方なのにな」
少し奇妙な光景に思わず笑ってしまう。
「うるさいな。悪かったわね不器用で」
指をけがした識は笹舟作りを中断。小川には一つだけ笹舟が浮かんだ。
「へえ~笹舟って思ったより丈夫ね。すぐに沈んじゃうと思ったけど」
「・・・・そうでもねえよ」
俺がそう言った矢先、ほんの少し拭いた風によって船は突然傾き、川底へと沈んでいった。
「あっ・・・・・」
「ほらな」
「あ~あ~。もっと行きそうだったんだけどな~」
「笹舟じゃあ駄目だろ。・・・昔作った錦兄の船ならもっと行くだろうけどな」
「えっ、お兄さん船を作るの?」
何か勘違いをしているらしい。識はとても驚いている。
「あのなあ。人が乗るような船じゃねえよ。小学生ぐらいの時に作ったおもちゃみたいな船だよ」
「なーんだ」
「いつも錦兄と一緒にここに来る時、錦兄は自分で作った立派な船を持ってきたんだ。楽しそうだったから俺も一緒に船を浮かべて遊ぼうと思ったんだが、俺は錦兄みたいな大層な船の作り方なんてわからなくてな。なぜか近くに生えている笹の葉で船を作って、錦兄の船の横に浮かべていたんだ」
「へ~楽しそうね」
「錦兄の船はすごかった。俺の笹船はすぐに沈むのに、錦兄の船はすごい遠くまで
行くんだ。浮かべた船の内、何隻かは海まで行ったかもしれねえな」
「すごいのね」
「ああ。本当にすごいよ。俺も笹舟なりに色々と試してみたけど、全部目で見えるところで沈んだ。・・・錦兄はすごいよ。俺なんかよりずっと遠くに行けるんだから・・・・」
「・・・・・吟ちゃん?」
錦兄の船は海まで行けても不思議じゃない。でも俺の笹船は絶対に海まで行く事はできない。どうせたどりつく事ができないのなら、頑張って笹舟を作っても無駄なんじゃないだろうか。
「吟ちゃん・・お兄さんの事を考えているでしょ」
識は急に真剣な声になり、俺の考えている事を言い当てた。
「・・・・・・・・」
「『自分はお兄さんの欠陥品だから、お兄さんみたいにすごい事はできない』とか考えているんでしょ」
なんでそこまでわかるんだ?いくらなんでもそこまで読み取れるのはおかしい。
「これ、なーんだ」
識はうっすらと笑みを浮かべながら、俺の目の前に一冊のノートを取り出して見せた。
「ああああっ!おまっ・・俺の日記!何勝手に・・・」
思いっきり怒鳴りつけようとしたのだが、識の表情がさっきのうすら笑いから真剣な物へと変わったのを見て、怒る気が一瞬で失せてしまった。
「ごめん・・・・心配だったの。吟ちゃんって、時々すごくさびしそうな顔をするから・・・・」
どうやらいたずらとかでやったわけじゃないようだ。
「悪い・・・心配させたのか・・」
識は小川の方に近づいてゆき、川の近くでしゃがみこんだ。
「吟ちゃん。本当にさっきの笹舟は海まで行けないのかな」
「何を言ってんだ?さっき目の前で見事に沈んだだろうが。挑戦中じゃなくて、もうすでに挑戦失敗なんだよ」
「わからないよ?だって・・」
識は立ち上がり、こちらを向きながら微笑んだ。彼女の背後ではきらきらと茜色の夕焼けが輝いていて、識もまぶしく光っているように見える。
「だって笹船は沈んだけれど、この世から消えて無くなったわけじゃないもん」
「何言ってんだ。今さっき目の前で沈んで、消えただろうが」
識はゆっくりと首を横に振った。
「私思うんだ。確かに笹船は沈んだ。だけど海に行く事をあきらめたわけじゃない。
水の中に沈んでも、川の流れに沿って今も水の中を進んでいるんだよ。その道は普通の船が通る水の上とは違って、とても大変だけどね。川の流れの力で船の形をぐちゃぐちゃにされる時もある。木に引っ掛かってどこか破けてしまう事もある。泥まみれの中を進まなくちゃいけない時もある。でも・・・どんなに辛い道でも、ちゃんと海に近づいている」
「・・・・嫌な道のりだな。とても立派なものとは言えねえ」
「そんな事ないと思うよ。どんな困難があっても進む事を止めない・・・必死に追いつこうと努力する・・・すごいかっこいいよ」
識は俺に歩み寄ると、俺の両手を自分の両手で包み込むように握り、俺を見つめた。
「だから私は吟ちゃんが好き。いつも頑張って前に進む吟ちゃんを私は好きになったの」
夕日に照らされて、辺りの道や建物全てに薄く夕陽の色が混ざっている。識の顔にも。
俺は錦兄の廉価版。あるいは欠陥品だ。だから俺はすぐ沈んでしまう。でも、そんな俺だからこそ見てくれる人ができたのか。
「識・・・ありがとな」
「うん!」
識はにっこりと笑った。識の手と同じように暖かい温もりを持った笑顔だった。
やはり俺は錦兄よりすごい人になれるとは思えない。頑張って近づく事はできても、追い越す事はできない。本当に錦兄の欠陥品として存在しているのかもしれない。でも、
そんな自分だからこそ頑張れる。そんな自分だからこそ見てくれる人がいる。
だから欠陥品でもここに存在していよう。欠陥品だから―――劣っているから俺に
できる事がある。
そして欠陥品の俺だからこそ必要としてくれる人がいる。ここだけじゃなくて
きっとどこか遠い所にも。
「帰ろっか」
「ああ」
俺たちは暗くなり始めた道を歩き始めた。空にはお日さまの代わりに月が浮かんでいる。
お日さまよりも眩しい輝きではなかったが、とても綺麗だった。