9. そんなに「ざまぁ」がよろしくて?(前編)
久しぶりに子爵家の前に立ち、広く感じたのは勘違いではないだろう。
暫く過ごした家は、平民のカローナが一人で住むのにちょうど良いくらいのものだ。
セルジオからしてみらば、狭いどころの話ではない。
そんな家もカローナが出て行ったまま帰ってこないので、日割りにまでされた家賃を渋りながらも支払って解約した。
それにしてもカローナがいなくなるなんて。
珍しく弱音を吐くから励ますつもりで強く言っただけなのに、セルジオの配慮も汲み取らず、ムキになって出て行ってしまったのだ。
どうせ拗ねているだけだろうと数日待ったが帰ってこず、念のため使用人を調べに行かせたが、実家の洗濯屋の方にも帰っていないようだった。
夜に飛び出したから、もしかしたら誘拐されたのかもしれない。
そうなると平民相手であったとしてもセルジオにも不手際があったと取られかねないし、子爵令息であるセルジオがただの洗濯屋に頭を下げたくもない。
結局、カローナの家に問い合わせることなく、自分で勝手に出っていったのだからと、セルジオは自分には無関係だと放置したのだった。
どちらにせよ、カローナの限界を早く知れたのは良かったのかもしれない。
こうなってしまったならば、あの毒婦と婚姻関係を続ける必要があるのだとわかったのだから。
カローナとの関係を清算したのだから、家に帰ってきても問題無くなった。
婚姻無効の通知が届かないので、まだ離縁はされていないのだろう。
なんだかんだと悪辣なことを言いながらも、セルジオのことを憎からず想っているに違いない。
少しぐらいなら愛情のあるふりをしてやってもいいし、セルジオの機嫌が良い日ならばベッドを共にするくらいは許してやろう。
セルジオに似た子が産まれたならば、ヴァルドリーニでもリナルディでもない、まともな子に育つだろう。
何はともあれ食事だ。
ここ一ヶ月の食事は本当に酷かった。
城内にも勤める人たち向けの食堂はあるのだが、個人資産を引き出すことも止められて、セルジオの給与だけでは食べられる物が決まってくる。
平民と並んで食べる食事の味気ないことといったら。
当分は昼食用にサンドイッチやスープなどを届けさせることにしよう。
セルジオの働く職場は平民が多いことから、本人が持参するという職場だけのルールがある。
弁当を届けさせるのはいい顔をされないだろうが、セルジオはきちんと仕事をしているのだから文句を言われる筋合いはない。
セルジオの姿を発見した門番が、黙って扉を開く。
以前までは礼と共に開いたというのに、あっという間に毒婦の命令を聞く傀儡と成り果てたようだった。
足音も荒く屋敷の入口手前まで進むも、出迎えはなくて扉を蹴りつけてやる。
鈍い痛みが足先から伝わる間にも音を聞きつけたのだろう、扉が開かれ、無機質な顔の使用人達が佇んでいた。
「これはこれは。そういえば、今日にご来訪でしたか」
家令が冷ややかな口調で言うのに怖気づきそうになるが、セルジオにとってはここが正念場だ。
こいつらの目を覚まさせて、きちんと子爵家の次期当主が誰であるかを知らしめなければならない。
「セルジオ様をサロンに案内しろ」
セルジオが決意を固めている間にも、淡々と指示が下されていく。
「応接間?何を勝手なことを言っている。
私は一旦部屋に戻って、少し休憩するつもりだ。
今日はまだ食事を摂っていないから、軽く何か用意してから私を起こしに来るように」
それと、と言葉を続けるセルジオに向けられる目はガラス玉のようだ。
「あの毒婦、フィオレッラにも会うつもりだ。
私がいつ話のために呼んでも良いよう、外出することなく控えておくよう伝えておいてくれ」
「なりません。主より、セルジオ様がおいでになれば、サロンに案内するよう言い付けられております。
そのままで結構ですので、おいで下さい」
セルジオの声を遮るように、冷ややかな声が命令を拒否する。
今までそんな態度を取られたことのなかったセルジオは、呆然として家令を見た。
「お前、」
名前を呼ぼうとして、けれど名前がわからない。
家令は家令でしかなく、命令する相手、単に家具の一つでしかなかったからだ。
いや、幼い頃には名前を呼んでいた。
けれどセルジオが年頃になるにつれて、働くこともないままに道楽ばかりの両親を咎めることなく世話をする彼に反発し、名前を呼ぶことを止めただけだ。他の使用人達も同様。
言われるままに働くだけで、金さえ貰えたら何でもいいのだと心底軽蔑していた。
切り捨てたものを思い出そうとしても、何も出てこないまま。
「セルジオ様。どうぞ、サロンに」
もはや命令をしているのがどちらなのかわからぬまま、セルジオの身柄はサロンへ移されようとしていた。