8. 互いの価値観(後編)
不愉快な摩擦音を立てて椅子が動き、カローナは立ち上がった。
カローナ、と訝し気な様子で問いかけるセルジオに、カローナは小さく頭を下げる。
愛するセルジオの奥様であるフィオレッラを思い出しながら、彼女のように微笑みを浮かべることを意識して顔を上げた。
カローナの微笑みを見て、セルジオがあからさまに安堵した表情へと変わる。
カローナが従順になったとでも思っているのかもしれない。
「セルジオ様は私に貴族のようになってほしいんですね」
「それが私達には必要だからね」
さも当然とばかりに頷くセルジオの姿を見て浮かぶ感情は、怒りではなく悲しみだ。
カローナはセルジオをちゃんと愛している。
今の生活でも、今より貧しくなっても幸せだと思えただろうし、セルジオが貴族ではなくなっても支え合って生きていくつもりだった。
本当にセルジオが貴族のままでいる必要があるのならば、その時はカローナだってマナー教師を付けられても反対しなかっただろう。
けれど子爵というものが、セルジオの奥様の家に借りたものだと聞いてしまっている。
カローナが聞かされているなら、セルジオだって知らないはずがない。
借りているのならば、ちゃんと返さないといけない。
フィオレッラに諭されたのもあるが、商売をしている家の娘として、信用は何より大切なものだと知っている。
だからフィオレッラと話をしたカローナは、子爵夫人になるための勉強は必要ないことを知っているし、この家で生活を続けられるように、セルジオが少しでも辛いと思うことのないように働くつもりだった。
家族が働きずくめでいても決して実入りは良い方ではないが、このまま働き続ければ、いつか洗濯屋はカローナが後を継ぐ。
そうなったときは若い子を手伝いとして雇って、今よりも受ける注文を増やせばいい。
カローナに子どもができたとしても、両親が面倒を見てくれるだろう。
セルジオのご両親が過ごす家が無いならば、セルジオが借りてくれた家で過ごしてもらえばいいと思っていたくらいなのに。
セルジオが子爵をフィオレッラに返すときのことをカローナが一杯考えているのに、セルジオ自身は子爵のままでいるつもりでしかないまま。
そして、カローナにも同じように泥棒であることを強いてこようとするのだ。
セルジオを愛しているが、同じように懸命に働く両親も愛している。
時折顔を覗かせる父親の飲み仲間だって、母親が参加している婦人会の奥様達だって、店に来るお客さんだって大切だ。
少しだけ通った学校の友人や幼馴染。
大小はあれ、カローナは全ての人が大好きなのだ。
「私は、セルジオ様の望むような貴族にはなれません」
カローナが口にした言葉に、セルジオの顔は驚きから苛立ち、少しして怒りへと変わっていく。
「カローナ!」
テーブルへと乱暴に置かれたナイフが抗議の音を立てたが、カローナは怯みそうになる心を叱咤する。
「子爵になったセルジオ様の奥さんになるなら、ちゃんと勉強します。
だってセルジオ様といたいから」
でも、と続く言葉の先をセルジオは予想できているだろうか。
「本当にセルジオ様は子爵になるんですか?
それは返さないといけないものじゃないんですか?」
「何で知って、いや、いい加減なことを言うな、カローナ!」
再び上がった怒声は、もはや自制できないのか瞳にすら感情を宿して、カローナを射殺さんとばかりに睨みつけていた。
カローナの足が震えるが、それでも無かったことにはできない。
「君の勤勉さを評価していたのだが、そこまで貴族になるための努力が面倒か」
「セルジオ様、話を変えないでください。
私が言っているのは、子爵になるかを聞いているんです」
しつこいと吐き捨てるように言ったセルジオが、不機嫌さを隠すことなくもう片方の手にあったフォークも乱暴に置く。
「誰に何を吹聴されたか知らないが、失望したよ。
そんなことを言うならば、君との関係を見直すべきだろうな」
意味ありげな視線を受け、恋の崩れる音と共にカローナの気持ちは固まった。
「言いたいことはわかりました。
それじゃあ、セルジオ様。お元気で」
廊下に出る扉はすぐ近くだ。
歩き出したカローナの背中を追いかけるように、悪足掻きの言葉がかかる。
「そうやって脅かすような態度を取っても、正論である私が折れる道理はない。
ここを出たら二度と私に会えなくなる可能性があること、君の頭でもしっかり考えることを勧めよう」
返事をせずに部屋を出て、扉を閉める。
向こう側からガラスの割れる音が聞こえた。
急いで長くない廊下を走り抜け、玄関から家の外へと飛び出す。
既に太陽は落ち、周囲の家からは夕食の香りが漂い始めていた。
先程まではカローナだってそうだったはずなのに、随分と前のことのように感じる。
勢いのままに飛び出したことは後悔していない。
怒りは無く、そして悲しいだけだ。
身一つで家を出たカローナだったが、実家に向かおうとして足を止める。
今このまま帰ったら、カローナの両親はセルジオに怒り、あの家に押しかけるだろう。
彼はまだ貴族の家の人だ。
そうでなくなったとしても、カローナの家よりもうんと裕福な彼に何かしたら、両親がどんな目に遭わされるかわからない。
貴族は怒ると怖いのだということは噂で聞いている。
友人の家に行っても、誰かがコッソリ家族に知らせるかもしれない。
夜半に入って冷え込み始めた中、どこに行けばいいだろう。
「カローナさん」
その時立ち尽くすカローナにかけられた声の主は聞き覚えのある、それでもまさか再度聞くことになるとは思わなかった相手だった。
「奥様……」
ゆっくりと振り返った先には、優雅な足取りで近づいてくるフィオレッラがいた。
「まあ、上着も着ていないなんて、風邪をひいてしまうわ」
言いながら、自身のストールをカローナに巻いてくれる。
今までに着たことのない柔らかな感触が、寒さを薄れさせてくれる。
「あの、奥様。
私、セルジオ様とはもう」
「ああ、その話は別にしなくていいわ。
私はカローナさんに会いに来たのであって、あの男には興味がないのだもの」
そうしてから茶目っ気たっぷりなウィンクを寄越してくるから、思わずカローナも笑った。
「奥様、言ってましたもんね。セルジオ様と婚姻を続けなくてもいいって」
そうよ、と言いながらカローナの手を引いてくれる。
今頃気づいたが、フィオレッラは一人ではなくて、足先まであるようなローブを纏った人々と一緒にいた。
街灯の数は少なくて、フードまで被った顔は全く見えない。
「ヴァルドリーニ侯爵令嬢。
こちらの少女が?」
「ええ、そう」
フードをすっぽりとかぶった中から男性の声が聞こえたが、なんとなくだが悪い人だとは思えなかった。
後ろにいる人達はカローナを窺うように見るばかりだったが、一人がカローナに近づいて会釈をした。
「初めまして、カローナ・ルフラン嬢。
この度はヴァルドリーニ侯爵家からの要請を受け、貴女の保護に参りました」
不思議そうに見るカローナを、フィオレッラが初めて会ったときと同じ笑顔で見る。
「私、貴女を攫いにきましたの」
目をぱちくりとさせたカローナを見て、フィオレッラが楽しそうに笑った。