7. 互いの価値観(前編)
触れ合う食器の音が耳障りで、セルジオは無意識に眉を顰めていた。
給仕に慣れた使用人など、この小さな家にはいない。
主の不機嫌を煽らぬようにと、カトラリーは丁寧ながらもぎこちない所作でしかなく、すぐに置かれたスープは順番を待っていたせいか生温さを感じる。
サラダは大小を整えず、適当に手でちぎったのだろう。非常に食べにくい。
だがここは貴族の家ではない。
こんな小さな家にいる使用人に任せたとあれば及第点の範囲であるのだが、子爵家で高度な教育を受けていた使用人達に慣れたセルジオには我慢のならないものだった。
それなのに、向かいに座るカローナは笑顔で話しかけてくる。
「セルジオ様、今日の晩御飯も美味しいですね」
口には出さないが、全く美味しくない。
前菜が出されることもなければ、スープの味も濃い。
ここに滞在してからの食事のメインは鶏肉ばかりで、時々豚肉がお目見えする程度。鴨や牛の肉など全く見かけない。
子爵令息であるセルジオが満足できるような夕食ではないのだから。
愛の為に子爵家を飛び出し、カローナのために借りた家で暮らし始めて一ヶ月。
ここでの生活はセルジオにとってストレスでしかない。
以前に商家の婦人が隠居暮らしをしていたという家は、平民のカローナから見れば小さな家ではなく、けれど貴族のセルジオから見れば住まいと呼べるものではなかった。
使用人の部屋は無いので時間になると帰ってしまう。
風呂は沸かしておいてくれるが、セルジオの湯浴みや着替えの手伝いをしてくれる者がいないとくる。
カローナが手伝うと申し出てくれていたが、そのようなことをさせるわけにはいかない。
可憐で健気な彼女を思えばこそ、未婚の女性に手を出すわけにはいかないと断っている。
一体どうしてこんなことになったのだろう。
当初の予定では子爵家に嫁いできた毒婦を、屋敷の端にある使用人室にでも押し込めていたはずなのだ。
そうして心優しいカローナには何も伝えずに、新しい妻として迎える予定が足元からひっくり返されている。
気づけば今やセルジオが、子爵家で迫害されかねない立場に追いやられている有様である。
全てのことがセルジオの心をささくれさせていく。
最近ではカローナの無邪気な笑顔すら、癒しではなく苛立ちを与えてくるのだから相当だろう。
一度子爵家に戻った方がいい。
あの時は思わず身の危険を感じて逃げ出したが、よく考えなくても子爵家の使用人がどれだけヴァルドリーニで躾けられていたとしても、子爵家で雇用している以上はセルジオの命令に従うべきなのだ。
子爵家に戻って毅然と叱りつけ、主人が誰であるかを知らしめる必要がある。
「セルジオ様」
不意にかけられた声に顔を上げる。
向かいのカローナが心配そうに見ていた。
「顔色がよくないです。
今日のお仕事は大変だったのですか」
その見当違いな気配りに、思わずセルジオの眉間の皺が増えていく。
別に仕事が大変だと思ったことはない。
言われたことを手順通りに正しく行い、時間になったら作業を終わらせて帰るだけだ。
それなのにセルジオの同僚達は要領が悪くて残業をする者が多い。
平民が多い仕事場でもあるので、もしかしたら高い手当を目的に仕事を引き延ばしているのではないかと上司に提言するか考えているくらいだ。
「いや、いつものように仕事は順調だったから問題ない」
「それなら、ここでの生活が慣れないからかも。
じゃあ今日は一杯食べて、早く寝ましょう!
今日の鶏肉は」
と言葉を止めて皿を眺め、そうしてから首を傾げる。
「ハーブで焼いたものですけど、ちょっとピリッとしていて本当に美味しいです!」
今度こそセルジオの眉が寄せられた。
今夜のメインは鶏肉の香草焼きだ。
鶏肉にはハーブに漬け込み、隠し味にペーストにしたマスタードを加えて焼いた程度のものだが、それすらもカローナには理解できない。
きっと明日違う鶏料理を出しても美味しいしか言わないだろう。
この小さな家で過ごす間はいいが、セルジオが子爵家に迎えるとなれば、それではいけない。
「カローナ、君には貴族としての生活をきちんと知ってもらったほうがいい。
君が私と過ごすのに慣れてもらうのが先だと思っていたが、マナーを身に付けるのは早い方が良さそうだ。
貴族の子女向けの教師を雇おう」
子爵の妻として社交は大切だ。
マナーだけ身に付ければいいのではない。
貴族としての教養が必要になる。
大変だろうがカローナは若いから、あっという間に覚えてくれるだろう。
セルジオの言葉に、カローナは眉を下げて俯いた。
ふと、けぶるような睫毛が毒婦の瞳を隠していたのを思い出す。
人形のように美しいフィオレッラ・ヴァルドリーニは、確かに貴族らしい容姿をしていたことを何とはなしに思う。
あれだけは褒めてもいいだろう。
「でも、セルジオ様。私は今のままの生活で十分幸せです。
セルジオ様のお陰で、両親の店は新しい石鹸を融通してもらえているからお客さんも増えたし」
少し悲しそうな表情を浮かべる目の前の少女は、両親を反面教師にどこまでも普通であることに固執したセルジオが最適だと判断して愛したのだ。
健気で努力家。
彼女であれば、セルジオの描く理想を叶えてくれるはず。
「カローナ、私の話をきちんと聞くんだ。
私はリナルディ子爵家の跡取りであり、貴族だ。
そして平民である君のことを妻に迎えるためには、普通に社交をこなすことが必要なんだ」
セルジオが言えば、カローナの目が驚きで見開かれる。
「そんな、だって今の私が好きだと、そうセルジオ様は言ってくれたじゃないですか!」
カローナの言葉の最後は悲鳴に近く、その感情の起伏にセルジオの眉がますます中央へと寄せられる。
「確かに君のことは好きだ。
人を思いやる努力家なところは、私の理想に近いのだから。
私はそれを、これから二人で描く未来の為に使ってほしいだけなんだ」
両親のように娯楽に耽る日々を過ごしてはいけない。
芸術なんて下位貴族には理解しきれないものであり、高尚な趣味など持つ必要はない。
けれど何も知らないのもいけない。
子爵夫人として当たり前で最低限のマナーと教養だけを身に付ける。
それだけあればいいのだ。
難しいことは要求していない。
それなのに、顔色を変えたカローナが初めて反抗的な表情を見せた。
「わ、私は今の自分が好きです。
それに貴族のお勉強を始めたら、家の仕事を手伝う時間がなくなるじゃないですか」
明らかな拒否の言葉に、自制の利かぬままにテーブルをこぶしで叩く。
鈍い音が響いて使用人の顔色に怯えが走ったが、カローナの表情が変わることはない。
「カローナ、聞き分けの無いことを言わないでくれ」
「急にそんなことを言い出したからです!」
張り上げられた声が耳障りで、セルジオの神経を逆撫でされているかのようだ。
だからかセルジオの声もとげとげしいものへと変化していく。
「君の生家には洗濯石鹸を融通してやっている。
あれで効率も上がっているなら、手伝いは必要ないだろう」
そうしてからナイフとフォークを置いたカローナの手に目を向けた。
「ああ、そんな仕事をしているから手が荒れているのか。
貴族の婦人として手の荒れなどあってはならないのだから、手伝いになど行かないように。
こんな下らない言い争いで、君を捨てたくはないんだ。
私への愛の為なら守ってくれるね?」
その瞬間、カローナから表情の全てが抜け落ちた。