5. 常套句はヒロインと共に(前編)
「私たちの運命は、真実の愛で繋がっているんです!」
高らかな宣言が響き渡る。
リナルディ子爵家にある一番小さな応接間の中、使用人のお仕着せよりも幾分か質が劣る、けれど色だけは華やかなワンピースを着た少女が発したものだった。
相対するように座るフィオレッラが気づかれない程度に目を細めた。
それと同時に、隣に座る子爵夫人が「これって最近読んだ『私ばかりが溺愛です!~それって真実の愛ですか?~』の二章、五行目にあったピラーラの台詞よね?」と口早に話し出したので、その手を優しく叩いて我に返らせる。
瞬きを数度してからフィオレッラに微笑んだ後、今度はドレスの袂から手帳と万年筆を取り出した。
口に出さない代わりに書き出すつもりだろう。
屋敷の女主人であることは伏せておこうと思いながら、カローナへと視線を戻す。
「カローナ・ルフランさん、でしたわね。
そんなに大きな声を出さずとも、近くにいるのですから聞こえましてよ」
優雅な物腰でフィオレッラが窘めれば、口を押さえながらソファに座り直す。
自身の感情を抑えきれずに立ち上がってしまう姿に、子爵夫人が言った本のタイトルを思い出した。
確か本の中に登場する平民の愛人も、何かあれば全身で訴えるように立ち上がっていた。
大袈裟な表現だと思っていたが、存外これが普通なのだろうか。
作者が随分と貴族について詳しく描写できるので、てっきり書いたのはヴァルドリーニのような道楽貴族だと思っていたのだが、実はそうではなかったのかもしれない。
「セルジオ様から聞きました。
愛がないことを伝えたら、言うことを聞かないと子爵家を奪うって奥様から脅されたって!
いくらセルジオ様を愛しているからって卑怯です!」
また感情のままに声を荒げた後、慌てて自身の口を押さえながらフィオレッラを見る。
「また大きい声出しちゃった。
えっと、すみません」
平民だとしても礼儀を知らなすぎるが、素直ではあるようだ。
その何でも信じる単純さでもって、恋人であるセルジオの言葉を鵜呑みにし、正義の代行者よろしくリナルディ子爵家を訪ねてきたのだろう。
夫の愛人、しかも平民が図々しくも押しかけてくるなんて、他の家だったら門前払いされて終わるだけだ。
場合によっては、それこそ秘密裏に殺されてしまう可能性だってある。
フィオレッラがカローナを招き入れたのは、リナルディ子爵夫人が物語のようなワンシーンを見ることができるのではないかと期待しているからに過ぎない。
後は少しばかり湧いた好奇心といったところか。
まさか、期待以上の行動を見せてくれるのは良い意味で予想外だったが、対処をどうするかについては今の時点で決めてはいなかった。
さすがに会ったことのない人間の行動を予測するのは難しい。
子爵夫人が同席している以上、彼女の喜ぶような流れを展開させたい。
子爵夫人が喜べば、子爵もフィオレッラに感謝する。
そうすれば新しい音楽を聴かせてくれる。
実にわかりやすい構図だ。
子爵夫人が今日読んでいた恋愛小説の流れでいけば、愛人が喚き続けるのを夫の弟が追い払うといったシーンになる。
けれど、あいにくリナルディ子爵家にいる息子といえばセルジオだけだ。
それ以外に読んだ夫の不貞シリーズでは、毅然とした主人公を見て愛人が勝手に敗北感を感じたり、使用人が一丸となって追い出したりといったところか。
使用人が愛人を受け入れていて主人公を虐げるパターンだけはリナルディ子爵家に存在しない。
どれもできそうな気がするし、散々に泣かせて帰らすことだって可能ではあるが、今日はそんな気分ではない。
「旦那様から何を聞いたかは知らないけれど、双方の事情を聞かずに善悪の判断をつけるのは尚早ではなくて?」
務めて穏やかな風に声をかけながら、控えている侍女に目配せをする。
でも、と納得できなそうな声を上げるカローナの前に、サーブされたプティフールが置かれた。
小さなシュークリームや濃厚なチョコレートケーキ、アプリコットジャムを載せたタルトはどれも一口サイズだ。
プティフールは食後の飲み物と一緒に提供するデザートだ。
マナーの勉強中である小さな紳士淑女が恥をかかないようにと、幼い子どもが参加するお茶会に用意する家もある。
今日は礼儀知らずの小娘が来たとあって、嫌味と配慮の気持ちを込めて、夕食後に出す予定だったお菓子を用意したに違いない。
再度焼き直すのは手間だろうから、今日の夕食後はビスケットぐらいでいいと後で伝えておこう。
「よかったら、お菓子を頂きながらお話をしましょう。
子爵家の料理人のお菓子はとても美味しいのよ」
フィオレッラと子爵夫人には普通サイズのケーキが置かれる。
カローナは羨ましそうな顔で見てくるだけなので、全く意図には気づいていないのだろう。
「カローナさんのお皿にあるお菓子が無くなれば、また新しいお菓子が取り分けられますわ。
小さいサイズのほうが色々と食べることができてよ?」
途端に子どものように目をきらきらさせながらフォークとお皿の触れる軽やかな音を鳴らし、口へとお菓子を運び始めたカローナを見ているフィオレッラの視界の端で、侍女達が音も無く動いている。
今のペースだと次のお菓子を早く準備し始めないと間に合わないと思ったのだろう。
あっという間に食べ終えたカローナの視線が物欲しげなものに変わる前に、お菓子の屑だけが残った皿が引かれ、すぐさま新しいお皿が置かれた。
こちらも一口サイズに作られたものばかりで、さくさくした食感のサブレや反対にしっとりとした口触りのマドレーヌ、摘んで食べられるような果物がこれでもかと盛り付けられている。
貴族であれば眉を顰めるような量が一度に盛られているが、相手が相手なので気にしないことにしたようだった。
これも躊躇いなく口に放り込み始めたカローナは満面の笑みだ。
放っておいたらお菓子だけ食べて帰りそうだが、そんなことになれば明日にでも再度訪れるのは目に見えている。
なにやら手帳に万年筆で書き続ける子爵夫人は見なかったことにして、話の続きをしようとフィオレッラは口を開いた。
「先に前提を話しておきましょうか。
カローナさんが知っているか知らないのかはわかりませんが、子爵位はそもそも私の実家のもの。
それを返すのは当然のことよ」
口に放り込もうとしたお菓子が、口元に当たって落ちていく。
濃紺のテーブルクロスに苺が転がった。
けれどカローナは驚きからそれどころではないようだった。
やはりセルジオは都合の悪いことを話していないらしい。
けれど、納得できないままなのは、先程と変わらないままのようだ。
「借りたものを返すのは当然じゃなくて?」
「でも、そんなことを急に言われても、セルジオ様だって困っているんです。
だって奥様はうんとお金持ちだって聞いています。セルジオ様よりお金を持っているなら、別に子爵なんて必要ないですよね?
それなのにセルジオ様を困らせて、意地悪じゃないですか」
実に浅い考えだ。同時にただの屁理屈でしかない。
貴族社会に限らず人間の付き合いに必要なのは、お金と同じくらいに信用だ。
カローナの言ったことを道理とすれば、それを蔑ろにして構わないことになる。
相手の信頼を損なう行為を平然としてしまったのならば、たちまち信用できない者となって貴族達からは後ろ指を指されながら距離を置かれ、話を聞いた商会はツケ払いを取りやめるだろう。
なにより、より多くの持てる者が施しを与えるのが当たり前だという考えは好ましくない。
貴族として貧しきに与える者であることは当然だが、当然の権利のように主張するものではないし、ましてや爵位や金といったものを特定の個人に与えることではない。
民に対して与えるのは博愛であり、彼らが一人一人生きていけるような援助でなければならないのだ。
彼女の人の良さからくる発言だろうが、もう少しだけ考えてから口にした方がいいことを、周囲が教えてあげればいいものを。
一体セルジオは彼女に何を求め、そして何を与えるつもりだったのか。
ささやかなお金と引き換えにしたものが自己満足と癒しだとしたら、さぞや程度の低い幸せを享受しているのだろう。
「仕方ないわね。
私が教えて差し上げてよ」
ちょっと足元から崩したくなるわね、とフィオレッラは嗤った。