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2. 初夜は常套句から始まる(後編)

「次に当家に対して、子爵位の返還が行われます」

まるで今日の夕食のメニューを話すかのように事も無げに言われた言葉は、けれどセルジオには初耳なことで、表情豊かになりつつ今夜の中でも一番驚いた顔になってしまったのに気づく余裕はなかっただろう。

「そのご様子だと、旦那様は聞いたことがないのかしら?

かつてリナルディ子爵家は、ヴァルドリーニの娘の嫁ぐ相手に爵位が無かったことから、返却をすることを約束して借りているだけに過ぎないことを」


聞いたことがない。

ヴァルドリーニ侯爵家の娘と縁付いたことから子爵位を譲られたことぐらいは聞いているが、いい加減な両親は歌だの弦楽だのと音楽にばかり夢中で何も聞かされたことも無いし、そもそも婚約に際して契約書を交わしたときにヴァルドリーニ侯爵からもそんな話はされなかった。

婚約時の契約書も職業柄、隅から隅まで目を通していたが該当するような項目は見ていない。

再びヴァルドリーニの娘が嫁ぐのだし、知っていて当たり前だからと一々言わなかったかもしれないが、こういうところが本当に自身の親ながらいい加減で嫌なのだと無意識に顔が歪む。

だが、法の下に考えれば、子爵位の返却は無効だということをセルジオは知っていた。


「残念だが、返還については譲ってから三代以内に行うことと、何かしらの問題があった場合と国法に定められている。

既にヴァルドリーニ侯爵家から子爵位が離れて四代、こうなると爵位の返還を約束した契約書が必要となる。

我が家にそのようなものはないし、口約束では認められないことぐらい調べてから言うことだ」

小賢しいことを言ったとしても所詮は女。

さして物知らぬままに、知ったつもりでしか言えないのだから。

小馬鹿にした素振りも隠さずフィオレッラを見れば、涼しい顔でお茶を飲んでいる。


セルジオには何も用意されないのに。いくら侯爵令嬢である彼女に相応しい態度とはいえ、主となる自分に対しての扱いはいかがなものなのか。

苛々としながらフィオレッラを睨みつけても、動じることなく口を開いた。

「契約書はありますわよ」

カップを手にしながら事も無げに言ったフィオレッラの言葉に、思わず動きを止めた。

「今、なんて、」

驚きで聞き返した言葉に対して、事も無げにフィオレッラが返事をする。

「リナルディ子爵位に関しての契約書はありますわ。

きちんと国で定められた手続きを経て、原本は国で管理されているのを私は確認していますし、侯爵家にはきちんと控えがありましてよ」


言った後、彼女が表情に浮かべたのは苦笑だった。

「子爵家に契約書の控えがないのは、契約を交わした当時の子爵が趣味で飼っていた山羊に齧られたからだとは聞いていますわね。

冗談かと思っていたのだけれど、まさか本当だったなんて」

よしんば齧られなかったとしても紛失していそうですけど、という言葉を否定できないくらいには、子爵家は管理しないままに残された財産を食い潰していく道楽者しかいない。

昔に祖父から子爵家の庭に山羊がいたことがあると聞いたことがあれば猶更だ。

契約書に書いている内容はわからないが、即時の返却を求めることができることを明記されているのだから、フィオレッラも強気な態度でいられたのだと知って怒りや焦りが胸を占めていく。


「旦那様は不思議に思ったことはありませんか?

どうして子爵家の使用人達に高水準の教育がされているのかを」

フィオレッラの声だけが部屋に響く。

「もしかしたら疑問すら浮かばずに、ただ贅沢を享受していただけかもしれませんね」

苦労を知らない温室育ちはこれだから、とセルジオが最初に言った言葉でやり返され、余りの暴言に怒りで頬に熱を帯び、息が荒くなる。

「リナルディ子爵家の使用人達が高位貴族に仕える者達並みに働けるのは当然のこと。

彼らは私の育った家、つまりは侯爵家の使用人として教育を受けていますから」

フィオレッラがガウンで隠された肩をすくめてみせた。

「旦那様が我儘三昧の無知な娘扱いする私の方が、余程家の事情を知っているように見えるのはどういうことでしょうね」


「なぜ、それを言わなかった!?

先に言われたら私だって!」

どう表現していいかわからない感情に突き動かされて叫ぶセルジオを見てなお、フィオレッラの表情が変わることは無い。

代わりに控えていた使用人がフィオレッラを守るように前に出た。

「私だって?その言葉の後に、何と言うつもりなのでしょう?

もしや他所の女への愛を女神に誓ったその口が、今度は私に愛を囁くおつもりなのかしら」

ご冗談でしょうと笑う顔はあどけなさの残るまま。

それなのにどうして甘やかされて育てられただけの箱入り娘に、仕事も子爵となるべく責任も持っていた自分が押されているのだろうか。


このままフィオレッラと話し続ければ、更に悪夢が訪れる気がしてならない。

それも夢で終わらない、現実のセルジオを脅かすようなとびっきりの悪夢だ。

一旦退いた方がいい。

使用人達がどちらに与しているのか判断できない今、これ以上事を荒立てるのは危険だ。

「私が悪かった。非を認めるし、カローナも愛人とする。

正妻としての君を尊重し、周囲からは愛されていると思われるようにだって振る舞おう」

だから、と言葉を続けてフィオレッラを見たセルジオは、思わず言葉を止めて息を呑んだ。


「旦那様はまだご理解できてないのね」

艶然とした笑みへと変わったフィオレッラは、今や可憐な少女といった雰囲気から、この屋敷の主といわんばかりの空気を纏っていた。

「カローナでしたっけ?事前に調べていたから、旦那様が愛する方については当然知っていてよ。

婚姻前に関係を解消していれば問題なかったから、わざわざ手を出すまでもないと思っただけ。

だって子爵家に嫁ぐだけで、別に旦那様でなくてもよかったもの」

あっけらかんと言われただけに、その言葉は真実味を帯びている。

少なくともセルジオはそう感じた。


「せめて物語の登場人物のように破天荒であれば少しは楽しめたのだけど、旦那様は何もかもが中途半端。

少しだけ勉強ができて、お仕事は真面目にすれども融通が利かないから柔軟な対応ができず、終業時間となれば自分に関係無いとばかりに途中の仕事を放り出して帰ってしまうとか」

白い指先がカップの縁を撫でる。

「せめて誠実であればとは思ったけれど、それすらも期待できないなんて。

確かに旦那様のご両親はお仕事をしないで浪費をされるけれど、互いを尊敬して不貞などとんでもないと誠実でいらっしゃるわ」


どちらがよろしいのでしょうね、と零れる言葉は答えを求めてなどいないだろう。

セルジオを見ているようで、彼を通して自分の両親を透かし見ているようだったのだから。

フィオレッラがまるで女優のように大袈裟な身振りで両手を広げる。

「リナルディ子爵家に生まれた唯一の常識人を自称されているようですけど、そんなもの必要ありませんの。

だって私達ヴァルドリーニは、子爵家の道楽者達をこよなく愛しているのですから」

途端、表情に年相応の可愛らしさが戻った。

ただし、それは狂気にも似た熱を帯びていたが。


「ヴァルドリーニは才ある者を見つければ迷わずパトロンを申し出るくらいに、芸術に深い関心があるの。

人によっては執着とも言うけれど。

そして、子爵家は誰もが何かの才に秀でていて、侯爵家は皆、リナルディの人々を深く愛しているわ。

正確には気に入った才能を持つ者をだけど」

囀る小鳥のようにフィオレッラが饒舌になる。

「私のお祖父様は先代子爵の綴られる詩を。お父様は子爵夫人の歌声を。お母様は子爵の妹君が手掛ける絵本の挿絵を。

そして私は旦那様のお父様、子爵の弾かれる弦楽の音をこよなく愛しておりますの」

頬を紅潮させる姿はまるで恋する乙女のよう。

余りにも可憐な姿に、セルジオも一瞬目を奪われた程だ。


「セルジオ様はご存知かしら?

子爵が弦楽器を手にした時の、気後れすることもなく緊張も感じさせない涼やかな眼差しを。

それに弾き始める前の調整で鳴らされる音すら、息の合ったワルツを見ているように滑らかなことを。

夫人の伴奏の為だとお父様が用意した弦楽器は確かに素晴らしいけれど、それもやっぱり弾き手が素晴らしいからよ」

唇に寄せられた思案気な指先が、機嫌良さそうに軽くリズムを取る。


確かに父親からは一度、フィオレッラが自分の奏でる弦楽の音を気に入ってくれているのだと、だから子爵家は安泰だと言っていたのを聞いたことがある。

世辞の一つでいい気になって、愚かなことだと馬鹿にしていたのに。

働かぬまま生きてきたのをいいことに、侯爵家に依存するつもりかと蔑んだ目で見ていたが、まさか真実フィオレッラが気に入っていたことでセルジオも子爵として生きていけるのだとは知らなかった。

「セルジオ様がいつだって無駄だと仰っていた子爵の音楽が、子爵家を存続させていたのを知らなかったのでしょうね。

きっと、いえ絶対、子爵家の事情を知ろうともしなかったセルジオ様より、私の方が旦那様のご両親のことをよく知っているわ」

セルジオとの婚約中にも見せたことのない、恥じらう愛らしさ。それだけではない危うい均衡を保つのは、瞳に浮かんだ劣情にも似た輝きだ。

見るものを惹きつけながらも狂気をも帯びたそれは、セルジオに焦燥と畏怖を与えてくる。


けれど再びセルジオを見たフィオレッラの顔からは、すとんと表情が抜け落ちた。

「唯一気に入らないのが旦那様だったのですが、それとて一代くらいは変わり者がいてもいいと、大らかな気持ちで受け入れようとしていたのにこの仕打ち。

何の芸も披露できず、私達を楽しませられない旦那様はいりませんわ」


既にお茶は終わったのか、セルジオの分は用意されぬままに茶器が片付けられていく。

それを眺めていたフィオレッラが、何かを思いついたように手を合わせた。

「ああでも、旦那様が多少なりとも反省するお姿を見せられたのならば、私も少々の譲歩はするべきかもしれないわね」

フィオレッラの指先が自身の顎をなぞり、離れる。


「決めたわ、選択肢を差し上げましょう。

このまま離婚をして子爵位を返還。平民となった旦那様は想い人と憂いなく結婚して幸せになるのか。

それとも私との白い結婚を継続して、旦那様は使用人部屋に押し込められるのか。

お好きな方を選択なさって」

セルジオの行おうとしていたことを知っている。

慌てて家令を見たが、温度の無い視線が返ってくるだけだった。


ああでも、とフィオレッラの笑みが深まる。

「旦那様は平民として生きていけるのかしら?

先程は私を贅沢三昧の温室育ちと言いましたけど、程度の差はあれども、旦那様とて仕事のできる使用人達に囲まれて暮らしていたのに」

そんなの無理だ。

今更平民としてなんて生きていけるはずがない。

カローナは愛しているが、自分の立場が変わらない前提での愛だ。

彼女と一緒に経済的な苦労なんてしたくもない。


「ああ、どうぞ安心なさってね。

旦那様の失態の責任を、ご両親である子爵夫妻に取って頂くつもりはないですから。

あの方達が子爵で無くなっても私達は手放すつもりはありませんので、お二人は侯爵家の離れで不便無くお過ごし頂くことになるでしょう」

全く何も考えていなかった両親のことを出され、今更ながら自分は薄情な人間なのだと笑いたくもなる。


いや、笑うしかないのだ。間抜けな自分の有様に。

そんなセルジオを案じる様子も無く、フィオレッラが立ち上がった。

「お返事は明日頂くことにして、今夜は別室で寝かせてもらいますわ。

今日だけ寝室を譲って差し上げますので、この広いベッドを気兼ねなく楽しんでくださいませ。

そして一晩ゆっくり考えて、お好きな方をお選びになってくださいね」

呆然と立ち尽くすセルジオを置いてフィオレッラも使用人達も出て行き、ゆっくりと扉が閉められる。

いつもなら気にならない木の触れ合う微かな音が嫌に部屋の中で響き、いつまでも誰も戻ることのない扉を見つめ続けた。


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実は一回読んでいて、2周目なのだけど、フィオの、何もかもセルジオを上回っている振る舞いにゾクゾクします。 面白くて面白くて、次読むか、感想書くか迷いました(笑)
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