書籍配信記念SS:その鍵、使えなくってよ
9/25にコミックシーモア様で配信開始に伴う、本編の続きのような記念SSです。
日が落ちれば、どの家も夜の訪れを拒むように灯りが光を周囲に振りまく。
けれどそれは一時的なものでしかなく、宵闇が濃くなる頃には朝の陽射しを待ちわびるかのように、星々のような灯りが消えていく。
それはセルジオの泊まる宿も同じで、日付の越えた少し後に宿の一階にある酒場の照明は落とされた。
「……ようやくか」
ベッドの上で何度となく寝返りを繰り返しながら、舌打ちと共に零れる言葉は怒りに染まっている。
ひたすら肉体労働をする中で、体は疲れているのに下から賑やかな声が届いて、なかなか眠りにつくことができない日々を送っていた。
文句を言いたいところだが、あいにく一般的な王都を訪れる平民が止まる宿は、たいていが酒場や食堂が一緒になっている。
これは少しでも宿泊客から金を巻き上げようという、利益を追求したスタイルだ。
貴族が泊まるような宿ではありえない。
泊まる部屋を今いる二階から上の階にすれば少しはマシかもしれないが、今はできるだけ節約をしたい。
未だ新しい家が契約できていない不安から、個人資産は切り崩さないように心掛けた結果だ。
仕事の合間にいくつかの物件に目星をつけ、週末には交渉に向かうのだが結果は芳しくない。
王城での勤務と言えば目を輝かせるものの、続けて所属している部署と名前を聞いた途端に表情を変えるのだ。
先週向かった先では、もう少し借りる家の地区を変えた方がいいとまで助言される始末。
現在借りる予定の家でさえ、貴族であったセルジオにしてみれば随分と妥協したものだ。
更に下げるとなれば、使用人の住み込む部屋どころか応接間があるかすらも疑わしい。
だからといって城に勤める人々にと用意された宿舎も、かつての同僚が多数住むことから避けている。
どうしようもなくなった時の最終手段にもならず、セルジオがあそこに入っていいと思うのは、彼らが全員退去したときだろう。
とはいえ今の生活を続けるわけにはいかない。
セルジオには自身の出自に見合った生活が必要なのだ。
だが、今の生活も今日で終わる。
ギュッと、自身の体温が移り始めて生温くなった三本の鍵を握り締めた。
セルジオの計画は実に簡単だ。
望む家が借りられないならば、別の方法で手に入れればいい。
もう一度貴族になりたいのならば、貴族の女を伴侶にすればいい。
それを両方叶えてくれる手段が、セルジオの手の中にあった。
秋の終わり頃になって冷え始める夜道を、薄い上着を羽織って急ぎ足で歩く。
既に貴族の住宅街に入り込めば、治安を心配する必要はないが、興奮がセルジオの背を押して自然と足は早まったまま。
どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう。
セルジオが決して離すまいと手にしているのは、リナルディ子爵家の鍵だ。
門の鍵、屋敷の玄関扉の鍵、そして寝室の鍵。
あの生意気な女がどれだけ抵抗しようが所詮は女。
襲って既成事実を作り上げれば、セルジオと結婚するしかない。
そうすれば再びセルジオのために、健全で上質な生活が戻ってくる。
確認すれば、門の前に守衛はいないようだった。
意気揚々と近づいて、門の錠前に鍵を差し込む。
小さなカチャリという音と同時に開錠され、思わず笑いがこみ上げてきた。
計画通りだ。
手入れのお陰か音も無く門は開き、セルジオはその体を門の内側へと滑り込ませ、そっと門を閉じる。
子爵家の屋敷までの距離は長くない。
馬車が停められたらいいほどの広さだ。
今は子爵家の馬車も厩舎近くに仕舞われている。
石畳を注意して歩けば屋敷の扉はすぐ前。
そのまま屋敷の扉の鍵も開けようとして、けれど鍵は途中で動きが止まる。
鍵穴に鍵が全て入らない。
混乱するセルジオが慌てて何度も鍵を差し込もうとするが、その度に先端が少しばかり入ったところで進まないのだ。
ガチャガチャと音を立てていることにも気づかず、無理に押し込んでみようとしても上手くいかない。
不意に、カチャリと開錠する音が響いた。
呆気に取られたセルジオを気にすることなく扉が開き、かつては優秀だと誇っていた使用人達が自身の身柄を拘束して、地面に押さえつけられていた。
急いで灯されたであろう照明が、扉の外へと漏れてセルジオを照らす。
屋敷に入ることもできずにポーチの床に押さえ込まれる姿は、どう見たって不審者でしかない。
「鍵を所持されていると知ってはいましたから、屋敷の扉の鍵は全て取り替えていましたが、まさか本当に忍び込もうとは」
昔と変わらない家令が冷たい視線でセルジオを見下ろしていた。
「貴様、かつて仕えた相手にとる態度がこれか」
歯を食いしばりながら顔を上げて睨みつけるも、「面白くもない冗談ですね」と返してきて、周囲の使用人へと矢継ぎ早に指示を出している。
声は聞き取りにくい程に小さかったが、恐らくは主人への報告がなされるだろう。
こんな姿で屈辱的ではあるが、とりあえずフィオレッラと面会する場は設けることができたと思う。
「屋敷の鍵を替えたのはいいが、門の鍵を替えていないのだからこうなるのだ。
優秀だと評価していたが、主人がアレでは考え至らないのだろう。実に愚かだな」
頭上から仰々しいまでの溜息が落ちてくる。
「本当に考えが至らないようで」
視界一杯に磨かれた靴先。
「よく考えられた方がいいですよ。
何故、家の鍵は全て替えたのに、所持しているとわかっている門の鍵を替えないままだったのかを」
どういうことだと問いかけようとしたところで、頭上から軽やかな足音が届いた。
少しすれば、小さな室内履きが視界の端に入る。
「まあまあ、泥棒が侵入したと聞いたから来てみれば、セルジオ・リナルディではありませんか。
お元気そうでなによりですわ」
視線を向ければ、しどけない寝間着にストールを羽織っただけのフィオレッラの姿があった。
そんな破廉恥な姿で現れるなんて痴女かと罵りたくあったが、今のセルジオはさすがに自分の立場がよろしくないとは知っている。
目の前の女を懐柔しなければ、セルジオが満足する生活は送れないのだ。
こんな女が屋敷にいるのは腹立たしいが、子爵家の屋敷はそれなりに広いので、食事の時間を合わせなければ顔を見ることもないはず。
セルジオが譲歩して住む分には問題ないだろう。
それに今夜は襲うことができなかったが、当分客間で暮らす間に機会は訪れるはず。
使用人達が油断したところで襲ってやればいいのだ。
そのためには先ず屋敷に住まうことを了承させなければならない。
「今日は交渉をしに来た」
「侵入しようとした不届き者が何を今更とは思いますけど、いい時間潰しになりそうなら聞いてもよろしくってよ」
使用人が急いで用意した椅子に座り、運ばれてきたティーカップに手を伸ばす。
屈辱的な体勢でいるセルジオの戒めを解くことを命じないまま。
これは初夜の時にセルジオがしたことに対する、仕返しのつもりだろうか。
心の狭さにげんなりしそうだが、書類上のリナルディ子爵はフィオレッラである。
セルジオが寛容にも歩み寄ってやらなければならない。
心を落ち着かせようと大きく息を吸って、吐く。
「不本意だが、暫くはこの屋敷に住むつもりでいる」
まあ、とフィオレッラが目を丸くする。
就寝中だったからか化粧をしておらず、こうすると年よりも随分と幼く見えた。
彼女が否定しないということは、話を続けても大丈夫だろうと口を開く。
「部屋は前に使っていた私室がいいが、整理中ならば数日は客間でも構わない。
ここに住んでも変わらず仕事に通うので、朝食と夕食は用意してくれ。」
そうしてから職場での出来事を思い出す。
「部屋に置くだろう私の物の補充は忘れずに頼む。特にインクは重要だ。
今の住まいは使用人が用意できず、何もかもが足りないのだ」
後は何を言おうかと考える。
言いたいことは沢山あるが、ここの使用人達は優秀だ。
セルジオの状況などすぐに把握して、十分な用意をしてくれるはず。
願いだって随分と慎ましやかだ。
セルジオは子爵の地位を返却するよう求めていないし、フィオレッラと住むことだって許している。
これだけ譲歩しているのだから、セルジオの寛容さに感謝して部屋を提供するべきだ。
けれど返されたのは盛大な溜息だった。
「人の睡眠を妨害しに来たのだから、多少なりとも面白いものが見られるかと思ったのだけれども、ここまで来たらもう、面白くもなんともないわね」
華奢な人差し指が自身の顎に添えられ、瞬きによって煙るような睫毛が瞳を幾度か隠す。
「どうして私が貴方を屋敷に置かなければいけないの?
貴族でもなければヴァルドリーニの愛すべき要素の無い、ただ頭の悪いだけで、出世すら見込めないような男にある価値を教えてもらえる?」
無邪気に問いかけてくる言葉の一つ一つが、セルジオの繊細な心にナイフとなって刺さるようだ。
「あらやだ、随分とショックを受けているけど、自身を鑑みれば理解できるはずなのに。
本当に貴族だったのかしら」
フィオレッラがカップから手を離して立ち上がる。
「いい?今の貴方の立場は、貴族の家に忍び込もうとし、あまつさえ主人を襲おうとした平民で犯罪者なの。
わからないならそれでもいいけれど、騎士団に引き渡された後ぐらいは殊勝気な態度を取らないと、命すら消し飛ぶことを自覚した方がいいのではないかしら」
何を、と言いかける前に外から重々しい蹄鉄の音が響く。
「リナルディ子爵、夜半の訪問をお許し頂きたい」
後ろからかけられた声は重々しくも堅苦しい言葉が羅列している。
目の前のフィオレッラには非常識な訪問者が見えているのだろう。
「いいえ、当家の使用人が報告に向かいましたもの、騎士様の来訪は当然のこと。
むしろ宵も更ける頃に手間を取らせ、申し訳ありませんわ」
耳の横で足音が響く。
そうして拘束が解けたと思った瞬間、すぐに新しい手によって、今度は荒々しく押さえ込まれて思わず悲鳴が上がる。
「これが侵入者でお間違いないか?」
「ええ、元リナルディ子爵令息、セルジオ・リナルディでしてよ」
「ああ、あの」
一体何を聞き及んでいるのか、騎士らしき男達は納得したような言葉を吐いて、乱暴にセルジオを立ち上がらせた。
ここにきて、さすがのセルジオも今の状況が非常に拙いことだと思い至り、両脇に立つ騎士達を見る。
「わ、私はどうなるんだ?
騎士を呼ぶなんて大袈裟だろう!」
「どうなるも何も、犯罪者として正しく裁かれるだけですわ。
初犯ですから刑はそこまで重くならないなんて思わない方がよいかと」
フィオレッラがまるで花が開花したかのように笑う。
「平民が貴族に対して犯罪行為を行った場合、どうなるかぐらいは知っているでしょう?」
今までに学んだことから都合の良いものを、記憶から引っ張り出そうとするセルジオに構わず、騎士達はセルジオを引き摺り始める。
外へと向かう力に抵抗しながら、フィオレッラへと振り返った。
「私が悪かった!謝罪はしよう!
部屋はずっと客間でも構わない!何だったら家令と同じくらいの部屋でも我慢する!」
必死に捲し立てるセルジオに対して、軽やかに手を振る。
「寝言は寝てから言うものよ。
これからどうなるかは知ったことではないけれど、でもまあ、お元気でとだけ言っておくわね」
静かにと言った騎士によって口に布を押し込まれて猿轡をされる。
モノ言えぬ犯罪者に成り果てたセルジオは、逃げることも許されずに連れ去られ、すぐに夜の闇へと消えていった。