後日談②:異動辞令は突然に(後編)
前半は被害者視点、後半は加害者視点です。
「ユーリカ・クレマン。
君に結婚を申し込もう」
ある日職場の人間から、尊大な顔で唐突な事を言われた身になってほしい。
いつものように同性の同僚達と食堂に向かうところで邪魔をされる。
目の前にいるのはセルジオ・リナルディ書務官だ。
関係性、職場の同僚。ただし、挨拶すらほとんど交わしたことない。
将来性、無し。結婚相手として条件は最悪だ。
協調性、もはや皆無。
性格、偏屈で自分の言うことが正論だと信じて面倒臭い。
好意、欠片もない。むしろ逆感情なら職場の誰もが持っていると思う。
そんな相手が急に声をかけてきたかと思ったら、口に出したのが結婚の申し込みなのだから、ユーリカが呆気に取られるのも仕方がない。
本当に意味が分からない。
今まで食事に誘われたことも無ければ、特別親しい間柄でもない。
というか、職場の人間のほとんどが彼と関りを持つのを避けるだろう。
周囲にいる同僚達も驚いた顔でいるし、特にユーリカと親しくしている人たちは眉を顰めてリナルディ書務官を見ていた。
「あの、すみません。
今言ったことをもう一度お願いできますか?」
自分の聞き間違いか、言う相手を間違えているということを祈りながら、恐る恐る聞き返す。
相手の片方の眉が不機嫌そうに上がったが、そんなことは知ったことではない。
「成績が優秀だった割に理解が遅いのは、まあ女だから仕方ないだろう。
もう一度言うが、行き遅れの君を貰ってやろうと言っているのだ」
「え、無理です」
何か考える前に、口からお断りの言葉を吐き出していた。
いやいや無理でしょ、かなり無理。
遅れてユーリカの感情の中で嫌悪といったものが付いてくる。
それなのに、両手を横に振って拒否を伝えようとするユーリカを見ても、リナルディ書務官は鼻で笑うだけだった。
ポケットからメモ紙を取り出してヒラリを振る。
「先に言っておくが、恋人がいるといったような見栄を張るなら止めておくといい。
君の引越の手続きは私がしたからな。
アパートも確認させてもらったが、男性が出入りできない女性の一人暮らし向けの住まいなのはちゃんと知っている」
途端に周囲の同僚だけではなく、通りがかったらしい人達の間にもざわめきが広がった。
彼の行為は職権乱用だ。
確かにユーリカが配属された部署は申請された届の処理ばかりの部署だが、人の秘密を知る以上、手続きを行う者には守秘義務を順守することが義務付けられている。
守れなければ罰則だ。
きちんと就業にあたっての契約書にも書かれている。
それを堂々と違反していると言い出したのだから、誰もが驚くのは当然だろう。
「何をしているか、わかっているんですか?」
リナルディ書務官は気づいていないのか、それとも気にしていないのかはわからないが、小馬鹿にしたような笑みをただただ浮かべるばかり。
「何を驚くことがある?
軽率に男を連れ込んでいないか、事前に相手を調べるのは当然だろう。
貴族の妻は貞淑さが必要なのだから」
気持ち悪い。
目の前の相手が気持ち悪い。
言っていることもだが、それ以上に考えの在り方がだ。
あたかも正論を並べ立てているかのように振舞い、実際に言っているのは自分の都合の良いこと。
そして非常識なことを自覚すらしていない。
「気持ち悪い」
ポツリと呟くような言葉が周囲に響いた。
思わず本音が出てしまったかと口を押さえたが、言葉の中心地はユーリカではなく、横に立っている同僚の言葉だった。
数秒の沈黙の後、ゆっくりとリナルディ書務官の顔が向きを変える。
「……なんだと?」
リナルディ書務官の顔で眉間に皺が刻まれていた。
不愉快だといわんばかりの態度だが、そう言いたいのはユーリカのほうだ。
ユーリカの気持ちを代弁するように、横に立っている同僚がリナルディ書務官を睨みつけた。
「気持ち悪いって言ったんですよ。
仲が良いわけでもないのに急に結婚だなんて言い出したかと思ったら、まさかの業務違反まで。
頭おかしいんじゃないですか」
瞬間、怒りでリナルディ書務官の顔が赤く染まった。
「その減らず口を慎め!
平民如きが知らないのは仕方ないが、貴族は政略結婚が当たり前だ!
元貴族である私が申し込むメリットを考えたら、受けるのが当然!
関係ない人間が出しゃばるな!」
言葉と一緒に勢いよく突き出された手。
「マリアさん!」
リナルディ書務官に突き飛ばされた同僚を、咄嗟に他の同僚が支える。
手加減していないのを物語るように、二人は揃って尻もちをついていた。
けれど突き飛ばされても見上げる瞳は暴力に屈してはいない。
「自分だって今じゃ平民のくせに!」
「黙れと言っているんだ!」
振り上げられるこぶし。
咄嗟のことにユーリカも動けず、瞬きもできずに見つめる中、リナルディ書務官が振り下ろそうとしたこぶしは、腕ごと掴まれて動きを止められた。
彼の腕を掴んでいるのは騎士服を着ていることから、誰かが近くにいた騎士達を呼びに言ってくれたのだろう。
そのまま振り払われないためにか、気づけば騎士はリナルディ書務官を拘束していた。
そして急ぎ足でこちらに近づいてくるのは、上司であるダレスタン書務主事だ。
座り込んだ同僚達に手を貸して立たせてくれ、増援らしい騎士達に医務室に連れて行ってもらうように頼んでくれている。
彼女達を見送ってから、厳しい表情でリナルディ書務官に向き直った。
「リナルディ書務官、婚姻を強制していると報告されて来てみれば、まさか女性に暴力を振るおうとするとは。
騎士の彼が誘導する部屋に同行し、先ずは始末書を書くように。
その後、仕事が終わって皆が安全に城から出たという確認後に面談を行いますので、部屋から勝手に出たりせず待機をしてください」
ダレスタン書務主事の指示の中、腕を抑え込まれたまま、リナルディ書務官は何処かへと連れ去られて行った。
今日はもう仕事にならない。
そう言ったダレスタン書務主事が、まだ一人残っていた騎士にユーリカと残った同僚を職場のある部屋に戻すように頼んでくれる。
「他の書務官に頼んで昼食は届けてもらうので、危険だから今日は騎士から離れないように」
そう言った上司はユーリカ達を落ち着かせるように、いつもの穏やかな雰囲気に戻る。
「怖かったでしょう。
すぐに解決できるよう色々片付けてきますから、少しだけ待ってもらえますかね」
ユーリカが頷けば、茶目っ気たっぷりのウィンクをしてくれて、それから踵を返して歩き出すのを見送った。
* * *
「いらぬことをしてくれましたね、リナルディ書務官」
本来だったら既に業務が終わって帰る時間。
無能が残る時間帯に、セルジオは上司であるダレスタン書務主事との面談の時間を入れられた。
就業時間ではないので明日にするべきだと主張した、セルジオの真っ当な言い分が通らなかったせいだ。
しかも面談には公式記録官と騎士の立ち合いまでされている。
まるでセルジオを追い詰めるようだと、空気までもが圧迫されたかのように息苦しい。
苛々する気持ちを隠す気もなく目の前の上司を見れば、相手は怯えも無ければ気負いもない飄々とした雰囲気で笑みを浮かべながらセルジオを見てくるので、ただただ不満が増すばかり。
「苛々しているようですが、なに、すぐに話は終わりますよ」
セルジオの前に投げ出されたのは、今さっきまで自身が書いていた始末書だ。
反省すべき点としては、貴族として感情を露わにするのは良くなかったことから、それは包み隠さず記載した。
後はユーリカと周囲の女たちの態度の悪さと、行き遅れた女を貰ってやることのメリットや、平民という立場を理解できていない者達への憂慮などを書き綴ったぐらいか。
「リナルディ書務官、君の始末書を読ませてもらった。
周囲にいた人達から聴取した証言との齟齬、都合のいい記憶の改竄、時系列にすら並ばない感情論。
全く読むに値しないとはこのことだ」
最近入った新人の方がよっぽど理路整然とした報告書を作成できるという言葉に、怒りでこぶしがブルブルと震える。
上司でなければ、いや騎士や公式記録官がいなければ間違いなく殴っていた。
そんな気持ちでいるセルジオの心中を察することなく、ダレスタン書務主事の言葉が続く。
「君の態度は今までも目に余っていたが、今日の同僚に対する暴行が決定的なものになるでしょう」
机の引き出しから一枚の紙が出された。
「面倒だからギリギリまで言わないでおこうと思っていましたが、さすがに自分の立場を思い知ったほうがいい」
一番上には辞令と書かれている。
「リナルディ書務官は財務二部の帳票管理課に異動となります。
来月一日付けの予定だったが、こうなると異動は早いほうがいいと判断しました。
午後中にいくつかの部署を回り、無事に君との面談の前に申請許可が下りたので、明日にでも異動してもらいます」
「……冗談でしょう?」
セルジオの声が掠れる。
帳票管理課は王城のみならず地方領主までの広い範囲で使われる、あらゆる書類の管理を行う場所である。
まっさらな申請書の山に囲まれたそこは、通称「退職者の流刑地」だ。
帳票管理課をまとめる主事長は、定年間近の他部署のご老体が退職間近に異動してくるぐらいで出世など見込めず、女性に交際を強要した者や、若い男を口説き落とそうとして一服盛った年増な女など、どれも未遂でなければ退職していただろう問題児ばかりが流される場所。
誰も同じ職場に捨て置かれ、ただただ紙の詰まった箱を並べるだけの仕事しかない。
そんな場所に異動することになるなんて。
「書類を運ぶ若手を欲しがられていましたので、君でも役に立つでしょう。
きっと歓迎してくれますよ」
何かの間違いじゃないかと紙を見つめるセルジオの肩に騎士達の手が置かれた。
「帰る前に机の私物を片付けておくように。
今日付けで君の席はもうないのだから」
そう言ってダレスタン書務主事が立ち上がる。
面談室を出ようとした上司が扉の前で立ち止まった。
そうそう、と振り返った顔には薄い笑みが貼り付けられている。
最近ではないが、あの表情を前にも見たはずだと背筋に汗が伝っていく。
忘れていた。温和に見せていようとも、相手はあのダレスタン伯爵家の者なのだ。
あの時の初老の男が脳裏に浮かぶ。
「民政管理部、認可申請課の次の主事はね、ユーリカ・クレマン書務官ですよ。
彼女は本当に優秀なので」
笑みのままに細められた目の縁に留まるのは、穏やかさではない。
「まだ目を瞑って済まされるうちに、大人しく身に合った仕事をしておけばいい。
年の変わらぬ相手からの助言は耳障りでしょうが、聞いておいた方が後悔しないですよ」
さほど大きくない声がよく通るのは、距離が近いせいか。
今度こそ立ち去る上司を見送ることなく、セルジオの視線は自身の転落を教える紙に向けられていた。