後日談①:異動辞令は突然に(前編)
屑は屑でしかなく、屑はゴミ箱に捨てられるものである。
城内で就業開始の鐘が鳴り響く中、駆け込むようにして着席したセルジオは周囲の目を気にすることなく、備え付けの引き出しからペンとインク壺を取り出した。
インク壺を軽く振れども液体固有の音もなければ、インク壺から感じる重みも少ないことに舌打ちをしそうになる。
仕事を始めようとして全て揃っていない時ほど、苛立たしいことこの上ない。
これがかつて住んでいた子爵家の使用人ならば、当たり前のようにインクを補充してくれたものだったが、職場の同僚はセルジオに対して気を使うこともなく自分のことばかりだ。
生意気にも職業婦人として働く者が何人かいるが、結婚できない原因であろう気配りの無さがここで浮き彫りになっている。
セルジオのインク壺にインクを補充することやペン先の洗浄をしておくといったことができないのだから、気が利かない女だと伴侶として選ばれないので独身なのだ。
補充用のインクをもらいに行くしかないと立ち上がったが、それでもセルジオに声をかける者はいなかった。
* * *
あれから数日が経っている。
カローナが身勝手に出奔したから仕方なく子爵家に戻るも、セルジオの正当な意見に対してフィオレッラは暴力で黙らせてきた挙句、子爵家から放逐されてしまったのだ。
現在のセルジオは宿暮らし。
本当は追い出された翌日にでも再度同じ家を借りようとしたが、以前は問題無く借りられたのに今回は拒否されてしまった。
解約した翌日のことである。
昨日の今日ならば誰も借りていないだろうし問題無いと思っていたのだが、返ってきたのは「リナルディ子爵家と関係無くなったので」という言葉だった。
怒りで震えるこぶしを握り締めるセルジオに対して淡々と説明されたのは、前回貸せたのは貴族という立場があったからとのこと。
子爵家の者でなくなったセルジオの立場はただの平民でしかない。
だから今は社会的立場が低いのだという。
借りる人間の立場は変わっても、セルジオ自身は何も変わらないというのに。
家を借りたいなら誰か立場のある人物から身元を保証すると一筆もらうようにと言われ、もういいとばかりに話を切り上げたが、どこに言っても同じことを言われる始末。
間もなく人事異動の時期となる。
セルジオが所属する、民政管理部の認可申請課も対象だ。
噂によればセルジオの上司である、アルヴェリオ・ダレスタン書務主事が昇進するらしい。
ならば彼の役職は、セルジオに任されることになるだろう。
勤務して三年。子爵令息だったセルジオには妥当な昇進のタイミングだ。
今まで生真面目にコツコツと働いてきた。
新人の頃には何かと口煩く注意を受けたものだが、一年も経たない内に何も言われなくなっていた。
セルジオの同期がいまだに何かと声をかけられていて、サポートが必要な中での話である。
それもこれもセルジオの仕事に対する熱意と地道な実績があればこそ。
人事異動に関する発表がされるまでにはまだ少し。
それまで待てば家を借りるのも容易なのだろうが、宿暮らしは貴族であったセルジオにとって苦痛しかない。
個人資産を切り崩したくないからと高い宿はとれないせいで、平民が雑多とうろついているのも厭わしいし、使用人がいないので自身で何でもしなければいけないのも煩わしい。
その日その日で好きな物は食べられるが、湯桶のような風呂にしか入れない。
今日は就業時間のどこかでダレスタン書務主事と面談を行い、家を借りる為の保証をしてもらうよう頼むつもりだ。
彼は国内の財務に深く関わるダレスタン伯爵家の息子だから、名を使えば家を借りるのも容易いだろう。
きっと快く許可してくれるに違いない。
これから出世街道を走る上司を支えるのはセルジオなのだから。
そして更なる昇進には妻の存在が必要だ。
王城内で勤める、特に責任ある役職に貴族が勤めていることからか、子孫を絶やさぬように伴侶を持ってこそ一人前だという気風が王城内にはある。
ダレスタン書務主事も昨年に結婚しているので、それを機に昇進するのだと思われた。
こうなるとフィオレッラとの婚姻を無効にしたことや、聖女となったらしいカローナの出奔を止めなかったのは少々惜しかった気もするが、堅実さを大切にするセルジオにあまり大層な伴侶がいるのもよろしくない。
セルジオ自身の常識的な生活に、破天荒な人生は必要ない。
例えば、と周囲を見渡して、同じ部屋にいる一人の若い女性に目を留める。
ユーリカ・クレマン、セルジオの同期だ。
美人ではないが、可愛らしいといった風貌と愛想の良さが人気を呼んでいるらしい。
肩で揃えた短い髪は平民のようだが、れっきとした男爵令嬢である。
そして、セルジオが求める最低限の条件を満たしていた。
運のいいことに、先日彼女が申請した引っ越届はセルジオが処理したので、現在の住まいは確認済である。
間取りから一緒に住んでいる恋人はいないだろう。
あわせて手続きの際に身元調査として、彼女の学歴や面接時の記録なども拝借して目を通してある。
自分の才能を信じて職業婦人の道を選んだと聞いているが、セルジオからしてみれば、御大層な建前を結婚できなかった言い訳にしているだけでしかない。
とはいえ学園時代の成績は優秀だったようだし、家族以外の身元保証人も貴族だった。
資料保管庫にあった就業契約書を調べ済みだ。
行き遅れな年齢であることに目を瞑れば、条件はそこまで悪くはない。
セルジオのいる職場は女性が結婚しても働けるのだが、セルジオとしては結婚したら仕事を辞めてもらうつもりでいる。
昨今は女性に活躍の場をということで、出産後の復帰を認めるケースも増えているが、まるで男が養えていないようでセルジオには許せることではない。
女性というものは男性にとっての癒しであるべきなのだ。
そして女性の活躍などと言い訳しているが、彼女だって結婚して人並みの幸せを享受したいと思っているだろう。
そうなると早い方がいいし、借りる家も結婚を見据えた広さのものがいいなと考える。
そこらへんもダレスタン書務主事と相談しよう。
彼女が職場を辞めるとセルジオの負担が増えるのだから、新しい人材を雇用してもらわなければいけない。
次の採用に間に合うだろうか。
だから、女の雇用は良くないのだ。こうして欠員に陥る害悪なのだから。
家の保証と結婚の相談。それに新規雇用についての提案。
ダレスタン書務主事もセルジオの気配りに感心するだろう。
とりあえずユーリカ・クレマンには先に交渉しておいた方がいい。
今日も定時で帰る予定だ。
就業時間内に済ませておいた方がいいに決まっている。
さっさと済ませようと、昼食を知らせる鐘が鳴って席を立ったユーリカ・クレマンを追いかけるようにセルジオも席を立った。