10. そんなに「ざまぁ」がよろしくて?(後編)
部屋は音楽で満たされている。
リナルディ子爵家のサロンは、すっかりフィオレッラのお気に入りの場所だ。
今では嫁ぐ前から懇意にしている先々で見つけた、お気に入りの音達に声をかけては演奏してもらっている。
今夜の演奏はピアノ奏者で、相手の機微を察して、その心情に見合った音楽を演奏してくれることで有名だ。
セルジオがいずれ来ると踏んで、きっと彼ならばフィオレッラの為に華々しい音楽を弾いてくれるだろうと、ここ暫く招待していた。
柔らかな稲穂の黄金と空の青を兼ね備えて見目も良く、若手の中ではそれなりのお気に入りだ。
音楽が始まって暫くすると、軽いノック音と共に予想していた相手の訪問を知る。
「あら、セルジオ様。思ったより随分と早いお越しですこと」
連れてこられた人物を見て、フィオレッラは淑女らしい笑みを浮かべる。
ただ、立って出迎えることはしない。
そんな礼儀が必要な相手ではないのだという、フィオレッラの意向が伝わったのだろう。
セルジオが気色ばんだ顔で睨んできたが、自分の立場を測りかねているのか、こちらを窺いながらも行儀よく目の前にあるソファに座った。
お茶の準備がすぐにされ、ふくよかな香りが辺りに漂う。
「夫に対して随分な態度だな。
元がヴァルドリーニ侯爵家の娘だとしても、今は唯の子爵夫人として夫を立てて慎み深く生きるしかない身。もう少し弁えろ」
吐き捨てられた言葉は怒りのままに攻撃的で、随分と状況を把握できていない。
思春期じみた威嚇をしてくるものだと笑い声を上げそうになった。
「まあ、冗談も程々になさいませ」
扉はきちんと閉められず、フィオレッラの後ろには家令と護衛が控えている。
まるで婚姻前の男女のような扱いをされているというのに、全く気づく様子はないのだから。
「セルジオ様ときたら、大切な人生の岐路で逃げ出してしまうのですもの。
自分でお選びになれないのだろうと、こちらで選んでおきましたわ」
怒りはまだ収まらず頭が回らないのか、セルジオはフィオレッラが言いたいことに気がつかない。
砂糖は入れず、カップを手にする。
さて、これからフィオレッラが言うことに、どんな反応を示すか楽しみで仕方ない。
一口飲んでからカップを戻し、それから最初の一撃を振る舞おうと口を開いた。
「つまりは、セルジオ様との婚姻は無効とさせて頂きましたの」
怒りが顔から滑り落ちて、唖然としたといった表情が残されたセルジオに対し、フィオレッラが微笑みを絶やすことはない。
「私の手元に知らせはきていない」
震える声が伝わってくる。
「旦那様の住まいは子爵家だと登録されていますもの。
カローナさんの為に借りた家に、大事な知らせが届かないのは当然のこと」
ドレスの袂からセルジオ宛の通知書を取り出して見せ、聞き分けの悪い子供を諭すように言ってやれば、徐々に蒼褪めていく。
もしかしたら役者としての才能が開花されるのかもしれないと思ったが、あいにく今のヴァルドリーニ達は音楽と絵を愛する者ばかり。
今のところ役者は必要としていない。
「ちゃんとこちらにお戻りになれば、無効となったことを知ることができたでしょうに」
確認の為に戻るなんて思ってもいなかったことは、わざわざ口にはしない。
そっとなぞったカップの縁。きっと中の茶葉が変わったことになんて気づいてないだろう。
残念ですわね、と呟いたフィオレッラの言葉が何に対してかなんて、セルジオが気づくことはない。
「婚姻を無効にしたならば、お前がここに居座る理由はない。
ここはリナルディ子爵家で、お前の家ではない」
さっさと立ち去れ、と手を横に大きく薙ぎ払うセルジオに、護衛が少し前に出た。
剣は抜いていないが、怪しい素振りを見せたらすぐに取り押さえてくれるだろう。
この後のことを考えたら、備えてもらったほうがいい。
「セルジオ様ったら、私の言ったことをお忘れになりましたの?
一ヶ月半もの間がありましたので、無事に爵位をお返し頂く手続きも終わりましたわ。
今は私がリナルディ子爵なの」
セルジオの目が見開き、口がだらしなく開いて、ゆっくりと閉じられた。
「そんな、私の許しもなく勝手なことを!」
耐え切れなくなったように立ち上げり、勢いのままに椅子を蹴り飛ばす。
それを見た護衛達が躊躇いなくセルジオを捕まえ、瞬く間にその体を床に押さえつけた。
護衛が頷いたのを確認してから、フィオレッラはゆっくりと立ち上がる。
「許し?
どうしてセルジオ様の許しが必要なのでしょう?」
今までの怒りが鳴りを潜めると同時に、焦りが表情を塗り替えていくセルジオを眺めながら、ゆっくりと近づいていく。
「リナルディ子爵家とは爵位について契約書があり、それに則って元子爵と正しく手続きをしたまで。
後継ぎ候補でしかない貴方に決定権はありませんのよ」
口をパクパクと開いて、まるで呼吸ができないかのようだ。
ヴァルドリーニの池で飼っていた魚を思い出して、クスリと笑いを零す。
「ご安心くださいな。
以前にも言ったように、元リナルディ子爵夫妻はヴァルドリーニが面倒を見ることをお約束しますわ。
分野を問わず芸術の才を広げるリナルディを、我々が見放すつもりはありませんもの」
「わ、私は?私だってリナルディだぞ!」
言葉の最後は悲鳴だった。
「あら、セルジオ様にヴァルドリーニの愛する要素がありまして?
個人資産は手切れ金代わりに差し上げますから、慎ましくあるよう心掛ければ一生困らず生きて行けるでしょう」
そう言ったフィオレッラに対し、セルジオの方は諦めが悪い。
「もう一度結婚しよう!今度は君を愛してもいい!」
なりふり構わないというのはこういうことだろう。
惨めにも床に這いつくばりながらも、口が閉じられることがない。
「なあ、私達は短い期間でも夫婦だっただろう?
君がそんな薄情だとは思いたくないんだ」
そのくせ、言っていることは自分のことばかりを考えた図々しいもの。
余りに滑稽な姿を見て、もしかしたら役者ではなくて道化向きかもしれないと思う。
思わずフィオレッラから笑い声が上がった。
「セルジオ様は平民ですからお断りですわ。
私は貴族ですから、そうね、結婚する相手は貴族か」
と言葉を止めて、一心不乱に音を奏でる青年を見た。
「平民であっても、ヴァルドリーニの心を惹きつける才能をお持ちの方を愛人にすると決めているの」
周囲の何をも気にせず弾き続ける姿はとても美しい。
彼の許しを得られたならば、フィオレッラの横に立つのは彼だろう。
可愛らしい恋人がいるらしいので、その可能性はとてつもなく低いが。
「そんな!私の両親が嘆き悲しむ姿を見たいのか!
私は貴様らの愛する二人の子だぞ!」
なおも悪足掻きするセルジオの、リナルディ子爵を盾にした言葉に、フィオレッラの表情に宿る温度が変わった。
フィオレッラが浮かべるのは笑みのままだ。
けれど唇の端が、眦の縁が、視線が凍てつく寒さを備える。
「……お前なんか親ではない」
フィオレッラの言葉に、セルジオは意味が分からず凝視した。
「随分と前、セルジオ様が学園に通っていた頃、夫人の誕生日に貴方が言ったことですわ」
あの日愛するリナルディにと、幼いフィオレッラが贈り物を届けに訪問していたときに、セルジオが実の親へと放った言葉だ。
務めも果たさない貴族の屑。
お前から生まれたことが自身の一生の恥。
「せっかくのおめでたい日に、何て酷いことを言うものだと思ったものですわ」
思い出したらしいセルジオの顔色が、また変わっていく。
「そんなの、子どもの戯言だ」
「本当に幼い子どもの間だけでしたら、反抗期だと許されたのでしょうけれど。
成長されても似たようなことを仰っていたのでしょう?」
そう言われて詰まるぐらいに、否定はできない。
「お二人にはセルジオ様をどうしたいか確認済ですわ」
そう言ったフィオレッラを見るセルジオには、もはや絶望しか残されていない。
「成人まで育てたので義務は果たした。
もう、自分達の子どもだと思わず生きていけばいい、ということですわ。
籍を抜いて家族としても縁を切るそうなので、本当に良かったですわね」
フィオレッラの言葉と同時に、護衛達がセルジオの襟首を掴んで、乱暴に引きずり起こした。
咽て涙目になったセルジオとは住む世界が違うのだから、もう二度と会うことはない。
「芸の無いリナルディなど、私達にはいらないの。
どうぞセルジオ様、二度とここには訪れず、好きな所で好きに生きていってくださいな」
護衛に引き摺られるようにして歩き出したセルジオの背中に声をかける。
「カローナさんですけど」
護衛が足を止め、セルジオがのろのろとフィオレッラへと振り返る。
「彼女が家を出てから探されている様子がないようですけど、彼女の生家から問い合わせを受けていないことに疑問は浮かばなかったのかしら」
もはや考えることすらも放棄したのか、絶望しきった顔でただフィオレッラを見る。
「外に出ればわかることですけど、惜しいことをなさったわね」
言葉を終えると護衛が再び歩き始めて、部屋からセルジオの姿が消えた。
見送ったフィオレッラは先程の椅子に再び座る。
美しい旋律が終わりを迎えようと、華やかな音が高く低く部屋を満たしていくのに浸りながら、ゆっくりとカローナのことを考える。
貴族の住宅街は静かだが、王都の中心にある広場の辺りでは今頃騒々しいお祭り騒ぎだろう。
なにせ新たな聖女が発見されたのだ。
博愛と慈愛の気質が高く、何事にも前向きで努力家。
時として短所となるだろうが、総じて素直なところも聖女らしくてよい。
彼女には適任だ。
カローナを保護した教会からは感謝され、後ろ盾となったヴァルドリーニとリナルディは教会に対して相応の影響力を持てる。
彼女に出会えたことだけはセルジオに感謝しているので、個人資産は残してあげたのだ。
後は好きに生きていけばいい。
気づけば音楽は終わり、奏者は汗を拭いながらフィオレッラへと微笑みかけてくる。
彼を称えるため、拍手しながら立ち上がった。
2025/7/13 書籍化企画中に向け、内容を少し修正しました。