1. 初夜は常套句から始まる(前編)
「君を愛することはない」
昼間に愛を誓ったはずのセルジオが言い放った先、レースがふんだんに使われた真っ白の寝間着に身を包んだ花嫁が、きょとんとした表情で見上げていたかと思えば可笑しそうに軽やかな笑い声を上げた。
「ふふ。旦那様の台詞、小説で何度も読んだ台詞だわ」
そっくりそのまま同じだわと、堪え切れない様子で華奢な肩を震わせるのは、今日結婚したばかりのフィオレッラである。
妻となった相手の言葉の意味が分からず、対応に困って見下ろすままに立ち尽くせば、少ししてフィオレッラが目じりの涙を寝間着の袖口で軽く押さえてから、再びセルジオを見上げてきた。
「お仕事一辺倒を気取られた旦那様は、王都のご令嬢方に人気の恋愛小説をきっとご存知ではないのでしょうね。
夫の不貞シリーズといって、旦那様と同じような立場の夫が主人公に愛することはないと宣言するところから始まる、なかなか刺激的な物語集なのだけど。
お義母様になる子爵夫人も読んでいらして、先日のお茶会を旦那様がキャンセルされた時は、二人で大盛り上がりしたものよ。
今まさに旦那様が言ったような台詞から始まって、自分が行った酷い仕打ちは間違いだったと気づいてからの溺愛か、自立心の高い主人公が本当のヒーロー役からのサポートを受けて地獄を見せる、ざまぁのどちらかになりますの」
そう言ってから花嫁であるフィオレッラはあどけなく笑った。
「せっかく結婚したのですから、一応は溺愛の方がよろしいのだけれども。
私、リナルディ子爵家のことはとても気に入っているのですから」
貴方の意向はどうなのかしらといわんばかりに、こてりと小首が傾げられる。
まるで揶揄うようで、もしくはセルジオの言葉を重く受け止めてもいない様子に、不愉快さから自然と片方の眉が上がるのを止められない。
普段であれば表情を変えること無いのが貴族ではあるが、フィオレッラの知性を感じない発言に表情を取り繕う気も失せた。
「冗談ではない。私には君ではない最愛がいる。
贅沢三昧な温室育ちの君と違って、家の為にと健気に働き続け、銅貨三枚のリボンを買うことすら躊躇う程に慎み深いカローナこそが、私の愛を誓う相手に相応しい!」
どうせ道楽者の浪費家である私の親に目を付けて、金に物を言わせて婚姻を捻じ込んできたか、それともあの人達が嫁入り先の見つからない彼女に目を付けて話を持ち込んだかはどうでもいい。
ただ言えることは、セルジオには既に愛する人がいるということだけだ。
セルジオの強い言葉にフィオレッラの目が伏せられ、けぶるような睫毛が冬の海のような薄青灰の瞳を隠してしまう。
「そう、旦那様の意志が固いのは、とても残念ですわ」
セルジオからはっきり言われたことで、さすがに愛されることはないのだと自覚したのだろう。
軽く肩で息をしながら安堵すると同時に、セルジオの胸に沁みだすように湧き出る感情は仄暗く陰鬱な喜びだ。
元は侯爵令嬢といえ、今は子爵夫人であり、セルジオの寵愛が無ければ生きていけない身でしかないのだ。
セルジオの言葉一つでどうにでもなる存在になり下がった者。
面倒事は避けるためにフィオレッラは閉じ込め、里帰りなどさせるつもりもない。
「愛されるはずなどないことを、理解したのならばよい」
傲慢にも愛されるつもりで意気揚々と嫁いできた彼女には屈辱のはずだ。
必要なことは全部言った。
後は勘違いしていたフィオレッラを寝室から連れ出すよう、部屋の外に控える使用人を呼んで、命じるだけだ。
当初は閉じ込めた後に、息災かどうかを侯爵家に尋ねられたりしないかと心配していたが、結婚式でもあっさりとした別れの言葉を交わす程度だったので、見ている限りでは家族仲が良好でなさそうだった。
これならセルジオの計画に支障はないと踏んでいる。
そもそも子爵位に嫁ぐくらいなのだ。
侯爵家では末の娘を政略の駒としても重要視していないのだろう。
むしろ邪魔者扱いなのかもしれない。
噂話に疎いセルジオにすら、令嬢達とのお茶会とおなじくらい室内楽の催しに参加ばかりしている風変わりな令嬢とか、若き音楽家に入れ込むのは淫らな行為目的だからだといった話が耳に入ってきている。
随分昔に縁があったぐらいの子爵家を嫁ぎ先に選ぶなんて、きっと彼女自身に問題があるに違いない。
ならばセルジオが彼女を利用するのに、何の問題があるだろうか。
三年もすればセルジオも少し出世して収入も増えるだろうから、侯爵家の援助は断れるようになるだろうし、フィオレッラとは子どもができないことを理由に離縁すればいい。
ただ、フィオレッラを使用人部屋に監禁したことを許さないようなら、野垂れ死ぬように家から身一つで叩き出すか裏路地にでも放り込めばいい。
侯爵家には一人で勝手に出て行ったと言えば終わりだ。
セルジオの手に残るのは、援助という他人に命を握られた不安定な金ではない、自身の手で稼いだ収入と子爵家の当主の座、それから愛するカローナとの甘い生活。
フィオレッラが夢物語のように語る小説のようなことなど、現実には起きたりしないのだ。
けれど、達成感と高揚感に満たされるセルジオの前で、冬の海が再び姿を見せた。
「まさか、旦那様がそこまで『ざまぁ』がよろしかったなんて」
彼女は笑っていた。
淑女らしい笑みはブラシで薄く刷いたように表面的でありながら優美さを損なわず、優位であるはずのセルジオに不安が湧き上がる。
「旦那様ばかりが我慢しているとでも言いたげですけれど、どうしてご自分だけがそうだと思われるのだか。
でも、いいですわ。旦那様が選んだのでしたら、私も自分の役割をこなすだけ」
大丈夫だ。ここはセルジオの家であり、自分の主張が守られる場所なのだと強く思わなければならない程に。
それなのにセルジオの傲慢と幸福という薄氷を破って姿を現した不安はみるみる胸中で満ちようとし、喘ぐように息をしたセルジオを見つめる瞳は細められるだけ。
嫌な不安を振り払うように首を横に振る。
「……まだ強がりを言うのか。
君にできることは何もないはずだ」
セルジオが使用人を呼べば、フィオレッラは一階端にある使用人用の部屋に押し込められ、外から鍵がかけられる手筈になっている。
自堕落に暮らす両親の世話に追われる家令は優秀で、事前にセルジオが明かした計画について、眉一つ動かすことなく「それが坊ちゃんの望みでしたか」とだけ返してくれた。
子爵家の使用人は躾が行き届いている。遊びに訪れたことのある友人達が使用人のレベルに驚くほどに。
優秀な彼らならば、侯爵令嬢相手だろうとセルジオの命令を忠実にこなしてくれるはず。
「何度でも言おう。愛の女神ミュゼーラに誓って、私が君を愛することは無い。
これは物語ではないのだから『ざまぁ』というものをする前に、君は二度と子爵家から出られないよう閉じ込められることになる」
息を吐いて、吸う。
「君に何かできるのならば、見せてもらいたいものだ」
あらあらと言いながら、フィオレッラはいつの間にか手にしていた呼び鈴を軽く鳴らす。
途端に軽やかなノックと共に、扉が開いて家令と使用人達が中に入ってきた。
彼らは驚くセルジオの横を通り抜け、フィオレッラの後ろに控える。
どういうことだと言おうとして口を開き、使用人達の表情の無い顔と眼差しに威圧されて口を噤む。
「旦那様がお望みですし、これから私の行う『ざまぁ』について説明させて頂きますわ」
そうしている間にも侍女がティーワゴンを押しながら姿を見せ、フィオレッラの前に音も無くカップやミルクピッチャー、小さな砂糖壺を並べていく。
他の侍女がフィオレッラにガウンを羽織らせ、膝の上に恭しくブランケットをかける。
そうしてから華やかな香りのするお茶を注いだ後に、子爵家の持ち物であるはずの侍女はセルジオを見ることなく壁に控えた。
まるでフィオレッラが家の主かのように。
「先ず、この婚姻は無効となります。
まあいやだわ、そんな驚いた顔をなさらなくても。旦那様はお城でお勤め中に、貴族間で交わされる契約などの事務手続きをなさっているのですよね?
特別な事情がない限り、夫婦の義務を果たさない場合は無効となるのはご存知のはず」
「そんなことぐらい知っている」
セルジオも研修時に実際あった珍しい事例として、手続きに使われた類似の書類を見たことはある。
単に子爵家を存続させるまでの収入を得るまでは、侯爵家からの援助が必要なことから婚姻をすぐに無効にする気は無かった。
夫婦としての責務は果たしたことにして、フィオレッラを屋敷の見えぬ場所にでも押し込めておけばいいと思っていただけだ。
その金蔓が根底を覆すようなことを言い始めたのに苛立たしく思い、睨みつけても澄ました顔は崩れないのが憎たらしい。
「そんなことをすれば、侯爵家の娘といえども傷物扱いだ。
次の縁談が見つかることは容易いことではないはずだが、君はそれでいいのか?」
子爵家に嫁いで失敗したのだから、後妻はなくとも持参金に色目を付けて男爵家か商家がせいぜいか。
「結婚式翌日に侯爵家へ出戻りをした問題のある令嬢を、新しい嫁ぎ先が丁重に扱うはずもない。
ヴァルドリーニの栄誉を守るためならば、もう少し自分の立場を考えたほうがいい」
そうだ、これは望まぬ妻を押し付けられたセルジオにとっての譲歩なのだから。
フィオレッラは自分の発言を謝罪し、セルジオに思い直すように縋りつくべきなのだ。
それなのにフィオレッラはといえば、可笑しそうに笑っている。
「まあ、芸術に疎いと聞いております旦那様に、喜劇を書く才能があるとは思いませんでしたわ」
カップにかけた指先の所作すら美しく、思わずセルジオが見惚れるのも一瞬、すぐに我に返って首を振り、認めたくない思考を追い払った。
「冗談ではない。私は君や両親のように道楽趣味ではない。
どうせ、そうやって話を曖昧にして、何とか私の愛を得ようとしているだけだろう」
「本当に旦那様の冗談は面白いこと。
旦那様もお望みですし、お話の続きをいたしましょう」
そう言ってフィオレッラは淑女の笑みを浮かべた。