話をすると苦しくなる話
私は視野が狭く多角的に考えるのが苦手で自分中心で想像力が乏しい
他人と自分を同一視しがちで、というより、自分を特別視したくないがためかもしれない、みんな一緒だろうと、自分の考えること、信じることを、十把一絡げに世の当然のならわしであるかのように決めつけてしまうところがある
しかしながらみんな、などというのは大雑把過ぎるが便宜上みんなという言葉を使うと、当然みんな、の考えは多種多様で、その上私の考えはだいたいの総意からも大きく外れていることの方が多いと言っても過言でなく、その乖離に毎度私は混乱してしまう
それはどちらかというとあまりよろしくない角度で、つまり落ち込む方向で
示し合わせたかのように、みんながなぜ同じところに帰結するのか、わからない私は置いてけぼりで、私は自分が無知で無能で役立たずのような気になってしまう
何のために物語を書いているのかと聞かれれば私はいくつもその答えを用意することができるが、それでもみんなの総意と違う私がいくらどれだけの話を紡ごうとも、意味不明の独善的な独り言は世のためにならないどころかごみ以下で、いたずらに目を通すための時間と労力を盗んだだけより罪は重く、放ってしまった申し訳なさに顔を上げることができない心持ちがする
別に理解してほしいわけではないからわからん、と言われるのは構わない、自分とは違うな、と思われるとしても当然だ、構わない
何が嫌かというと、私の取った手段が結局有用ではなかったということがはっきりしてしまうことなんだと思う
幸せに目がくらむほどのことは望んでいない、どのみち生きていくのならほんの少しでも生きやすく、どうせ勘違いなんだから、だめだ、辛い、消えて無くなりたい、ではなく、おけ、楽しい、自分っていけてるやん、と思いながら生きて欲しい、ただそれだけのことすら、1mmも力添えができなかったとすれば、そんな不甲斐ないことはない
私は音痴で作曲もできず絵も打ち込めるほどには能力を所持しておらず写真も下手で映画も撮れない
話すのは一番下手だ
書くことだけは昔から得意な上大好きだった
これをもってすれば届くのではないか、掴み取ってもらえるのではないか、何もそんな大それたことじゃない、ちょっと勘違いの向きを変えるだけだ、ため息をスキップに、憂鬱を興奮に、自己否定を根拠なき自信に、辛そうなそこの君の、大変そうなそこのあなたの
書くことによってでも無理なら私は途方に暮れるしかない
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一方で私は問題提起のための話を放出することもある、掴んでもらえるかどうかは読み手に委ねられている、にもかかわらず私は言葉を尽くして説明することを嫌い、それをしない、よくわからん状態で放ってしまうのだ
その理由は、ある特定のひとつのところへ他人を連れていくのは、例えそれが世の中的には「いい」とされているところだったとしても、(私は暴力絶対反対の立場にいるが)それは暴力だと私は考えていることも大きいが、何より私自身がつまらなく感じてしまうからだ
時々他の方の書かれたもので、そこまで言わなきゃならんのか! と呆然としてしまうことがあるのだが、そんな取説のような、マニュアル本のようなものは、それこそ取説やマニュアル本として表に出せばいいのだ
物語の形を取る必要はない
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こんなくだらないことを考えている私は盛大に拗らせているだけなのだろうか、私の成長物語に読み手を付き合わさせるなど、それこそ申し訳なさ過ぎてやってられない
なのにやめない私はやっぱり自己中心的なのだ
世のことわりをちっとも理解せず、ああでもないこうでもないと独りうつうつとする、それどころかそんな自慰的思考をこうして見てもらおうとさえする、とんでもない我儘でくさった性根の持ち主なのだ
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せめて世の中のことを理解したい
賢くなりたい
つらい
お読みくださり感謝します