霧と山道と洋館……悪い夢のはじまり
「……うっ。な、なにが起こったんスか?」
身を起こして、あたりを見回す。まるで状況を理解できなかった。
トウコは薄暗い山道に倒れている。
「ここはどこっスか!? 家に居たのに……山のなか?」
周囲は寒々とした木々がうっそうと茂っている。霧が深く、遠くは見通せない。
霧に阻まれて星も月も見えない。
まるで悪夢のように、トウコには感じられた。
「なんなんスかね……悪夢でも見てる?」
木々はざわざわと不気味に揺れている。風の音がまるで悪霊のうめき声のように聞こえる。
遠くでは犬か狼か、動物の咆え声が聞こえる。
「夢ならせめて、楽しい夢がよかったっス……霧に山奥……ろくな夢じゃないっスね。どうせなら異世界で俺ツエーしたいっス!」
山道は一本の坂道で、トウコのいる場所から見て上下へ続いている。
坂の上には、ぼんやりと霧を通して建物の明かりが見える。
坂の下は薄暗い森の影となって、見通すことができない。
木々の影がおどろおどろしい怪物の姿のように見えて、トウコは身震いする。
「……とりあえず、明るいほうに行ってみるかな」
どうせわからないのなら、明るいほうへ。
トウコは即断する。
ほどなく、風が吹いて霧を晴らす。
遠目に見えていた建物の姿がトウコの目に映る。
月明りが霧を帯状に照らし出し、その建物を闇の中に浮かび上がらせた。
それはコケとツタに覆われた古ぼけた洋館だった。
「げ。霧……洋館……悪夢確定っス! ミストヒルとかゾンビハザードみたいっス。――絶対入らないっスよ!」
トウコは有名なホラーゲームを頭に思い浮かべて中に入ることを躊躇する。
洋館の扉は半ば開いており、風でゆらゆらと開いたり閉じたりしている。
ぎいぎいと音を立て、まるでトウコを手招きしているようであった。
「はあ、夢だと気づいたんだから早く覚めてほしいっス。それか、楽しい夢に変わってほしいっス。出ろ、ソフトクリーム! ……無理っスね」
手の中にソフトクリームが現れるように念じてみたが、そう都合よくはいかなかった。
あくまでも洋館を無視する。トウコは断固として館へ入る気はなかった。
楽しい夢に書き換えようとうんうん唸ったり、手を振って甘いものを作り出そうと努力する。
だが、その努力は実らなかった。
空からはぱらぱらと冷たい雨が降り、遠くで聞こえていた獣の咆え声は先ほどよりも近づいてきている。
「うう……寒い。あれ、夢って寒さとか感じるっけ? なんか、咆え声も近づいてきてるし。これは強制イベントっスか……。どうしても洋館に入らせたいようっスね! しゃあないっス!」
トウコは意を決して、館へと踏み込む。
強い風が吹く。トウコの背後で、ドアが大きな音を立てて閉まる。
「ひゃあッ! お、驚かさないでほしいっス……。ああ、やっぱりドアが開かなくなってる。……どうみてもホラーゲームの流れじゃないっスか」
トウコはげんなりとした表情を浮かべる。
今や玄関のドアは固く閉ざされてしまっている。建てつけが悪いのかノブを回しても手ごたえがない。重厚なドアはトウコの力ではビクともしなかった。
明り取りの窓から差し込む月光で、室内は見て取れるだけの明るさがある。
今いるのは広いエントランスホールだ。二階まで吹き抜け構造になっている。
正面には二階へ向かう階段がある。いわゆる両階段だ。
一本の階段が踊り場に突き当たり、左右の階段へ続いている。
階段の手すりは装飾が施されていて美しい。
ホールの天井には豪華なシャンデリアが吊り下げられているが、火は灯っていない。
「うわあ。ザ、洋館って感じ。豪華っス!」
左右に二つずつ、閉ざされたドアがある。
階段の下に通路が伸びているが、薄暗いために先は見通せない。
通路の奥からは、動物じみたうめき声が聞こえてくる。
「うん? なんかスかね……人間の声じゃ……ない?」
苦し気なうめき声。意味のある言葉は成していない。
ひたひた、ずるずると足音が聞こえてくる。
「洋館……うめき声……やっぱ、あれっスよね……」
暗い通路の先から、ずりずりと足を引きずりながら身体の所々が腐敗した人間がエントランスホールへとよろめき出てくる。
「げー! ゾンビ、キター! ……やっぱりっス!」
トウコは頭を抱えて顔をしかめる。
本来ならば恐怖を覚える場面なのだが、想像していた通りの展開となった既視感が勝る。
ゾンビの上げるうめき声は、そんなトウコを非難しているかのようであった。
「ウウ……ウアァ……」
「よ、寄るなっ……もう、なんなんスかこれは!」
トウコを見つけ、じりじりと近づいてくるゾンビ。その動きは遅く、後ずさるトウコに追いつくことはできない。
エントランスホールは充分な広さがあるとはいえ壁まで追い詰められてしまえばそれまでだ。
逃げ場を求めて視線をさまよわせる。
「通路は暗いからパス! こういうとき、暗いところは死亡フラグっ! 玄関からは出られない……となると階段を上るっきゃないっス!」
洋館に入ったときと同じようにすばやく判断し、明るいほうへと向かうトウコ。
階段をのぼり、踊り場へと進む。
それを追いかけるゾンビの足取りは遅い。
「アアゥ……ウァ」
ゾンビは段差を登れず階段に倒れこむ。
受け身も取らず顔面を強打しながらも、ずるずると這い上がってくる。
鼻が折れ、ぼろぼろと抜けた歯が階段を転がり落ちていく。
「うへえー、痛そう……! でもこれは都合がいいっス! ゾンビが階段をのぼれない説は有効! 今のうちに武器を探さないと……素手で相手するのは嫌っス」
自宅にいたときの服装のままのトウコは靴を履いていない。
ゾンビモノの定番である謎のやわらかい頭部や、頭部を破壊すれば倒せるというルールに期待しながらも、ゾンビを素足で踏みつける勇気はなかった。
当然、武器になりそうなものも持ち歩いていない。
武器になりそうなものを探して見回す。
踊り場には花台の上に、陶器の花瓶が乗っている。
差された花はしなびているが、大きな花瓶は充分な重みがありそうだ。
両手で花瓶を抱え上げる。
「これで、死んでほしいっス!」
トウコは勢いよく陶器の花瓶をゾンビに投げつける。
鈍い音を立ててゾンビの頭部に命中し、がしゃん、と派手な音を立てて花瓶が砕ける。
砕けた陶器は大小のかけらとなって、階段から一階にかけて降り注ぎ、散らばった。
「――どうだっ!」
ゾンビの頭部は人間では到底生きてはいられないようなへこみが生じている。腐肉が崩れ、下から白い骨らしきものもあらわになっている。
少しの間動きを止めていたゾンビだったが、うめき声をあげてふたたび階段を上り始める。
「ウ……ア……」
「げ、死なないし! グロいしっ!」
トウコのいる踊り場にゾンビは這いより、手をかける。
トウコは花瓶が載っていた一本足の花台を両手でつかんで構え、振り下ろす。
「死なないんなら、止まるまで物理で殴るっス!」
ぐしゃり、と肉のつぶれる湿っぽい音と骨の砕けるかわいた音が響く。
手に伝わる嫌な感覚に微妙な表情を浮かべるトウコ。
「うええ……きもっ! でも念を入れてもう一発いれとくっス! ゾンビは完殺しないとね!」
打撃の衝撃でゾンビはびくりと体を震わせ、それきり動かなくなる。
「はは……ともあれ、勝ったっス!」
ゾンビが完全に動かなくなったその時、トウコの頭に合成音声のような中性的な声が響く。
<経験が一定値に達しました。レベルが上がりました!>
「えっ? やっぱりゲームの世界なんスか。てっきりホラーの世界かと思ったらロールプレイングゲームみたい……」
トウコは首をかしげた。
没タイトルシリーズ
■ゲームの世界? 異世界転生?