私の胸のなかにあるちいさな星にどうか神さま、ありがとうと、
私の胸のなかにあるちいさな星にどうか神さま、ありがとうと、
伝えたい
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網目の袋の口を開け、ひっくり返した。
広いシンクの中、水を張った大きな大きなたらいへと、大量のニンジンをこれでもかというほど、どぼどぼと落とす。跳ねた水しぶきが頬にまでかかった。野菜を洗う専用のタワシを掴んだ右手の甲で、ぐいっと拭ってから、私はニンジンをひとつひとつと丁寧に洗っていった。
「さわちゃん、それ終わったらジャガイモもお願いね」
「はーい」
オレンジ色で山盛りになった水切りカゴを隣の調理台に避け、今度は主任が持ってきてくれたジャガイモの袋を手に取った。
ニンジンと同じようにジャガイモもたらいへと沈めていくと、泥汚れが一気に舞い上がった。透明だった水道水は、そのクリアな姿を薄茶色の濁り模様へと変化させていく。
次は皮むきだ。
この皮むきの作業は、ひと言で言えば過酷。剥いても剥いても終わりが見えてこない。この大大大量の数、一種類だけじゃない、多種多様な野菜たちとほぼ毎日、向かい合っている。
「……寒」
調理場の床には、水を流してデッキブラシで掃除できるように、コンクリートの打ちっぱなしに排水溝。冬のこんな寒い日は、足先が痺れるほどの底冷え。とにかく寒い。履いている長靴がこうも役に立たない職場も珍しいだろう。
冷たい水にあかぎれのある手を浸す。浮き沈みを繰り返すジャガイモのごつごつした手触りも、痺れた指先には伝わってはこない。
「今日は、ニンジンもジャガイモも乱切りで良かったでしたっけ?」
少し声を張って問うと、乱切りねーと主任の声が調理場に響いた。
だん、だん、とまな板を食む、切れ味の良い包丁の軽快な音。出汁を張った大鍋に、切った野菜を投入。
野菜を切っている時はまだなんとも思うこともないが、調理が始まり出汁や調味料の香りが漂ってくると、私は途端に至福に包まれた。
嗅覚は大事だ。匂いによっても、料理の美味しさは左右される。この肉じゃがの良い匂い。考えた人天才。和食考えた人も天才。こんなにも人を幸せにできるなら、ノーベル平和賞を受賞しても良いくらいだ。
私はそんなことを考えながらクスッと笑った。砂糖、酒、味醂、醤油を適量入れ、丁寧に灰汁を取り除いていく。
ありがとう給食。大好きだよ。
私は今、日本中の子どもたちを空腹という悪の組織から救う仕事をしている。給食を作ることは、アンパンマンと同価値なぐらいとまで思っている。って、ちょっとだけ大げさかと思ったけれど、給食に救われ、生き延びることができた子どもが、実際ここにいるじゃない。そう思い直してからやはり胸を張って、出来上がった肉じゃがの大鍋を、大きなシャモジでかき混ぜていった。
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結婚して子ども二人に恵まれた。夫はIT関係の仕事をしていて、私は介護の仕事をしながら息子が通う幼稚園でPTA役員もこなし、それにプラスしてボランティアもやっている。
昔、煙草を吸っていた。けれど、あることをきっかけにやめ、それ以来は一度も吸っていない。結果的に子育てには好都合だった。
一生噛み合うことがないだろう実の母とは別居し、彼女から与え続けられた苦しみとは物理的な距離を置いた。
それ以来、心は凪いでいる。
私は逃げた。全てを否定することしかできない、哀れで絶対的存在の母から。
「100点だって? テスト問題が簡単すぎたのねえ。こんなんじゃ勉強にならないって、学校に抗議しなくっちゃ」
そんな恥ずかしいことやめて。なんで頑張ったねと、ただ褒めてはくれないのだろう?
「誕生日のプレゼントなんかもらったら、お返ししなきゃいけないじゃない。返してきなさい!」
心を込めてプレゼントしてくれた友達に申し訳ないと思わないの?
「家を出るって? あんたみたいになんにもできない子が、一人暮らしなんてできるわけないわ! 掃除洗濯、それに私のご飯はどうすんのよ!」
これからは自分のことは自分でやってください。
「この親不孝者めっっ」
頭上から浴びせられる罵詈雑言に耐えながら、私は黙々と家を出る準備をした。洗濯機の回し方から、掃除機の充電の仕方まで、唯我独尊を声高に叫ぶ母でも理解できるよう、あらゆる家事の取説をひとつひとつ丁寧に作った。
空になったアパートの前に立ち、吸っていた煙草の箱を握りつぶした、あの日から。
半年後。
私は少しの着替えと蓄えを持って、家を出た。勤めていた介護施設の職員寮に運良く空きができ、そこへするりと入り込むことができたのだ。
その後、私は給料の半分を、母へと仕送りし続けた。私が家を出ることにあれだけ反対し、般若のように怒りに狂い私を罵倒していたのに、お金を送れば菩薩のように大人しく、そして優しくなる。
それでいい。
優しい人でいて欲しい。
心穏やかに暮らして欲しい。
私を娘として、愛して欲しい。
なんでもいい、どんな小さなことでもいい。
頑張ったんだねと、ただ、認めて欲しいだけ。
そう願ってせっせとお金を送り続けるけれど、いつまで経ってもその願いは叶いそうもない。母は頑固にその根本の性根を変えやしない。
虚しくなる。それがなぜなのか? 自分が母になればわかるかもと思っていたけれど、母となった今でも理解ができなかった。私にとって、子どもたちは最高の宝物だというのに、私は母にとって、宝物の欠片にもなれなかった。
——あの女の子は幸せになれただろうか?
私の胸のなかには、いつもあのちいさな星があった。
私のように家族関係で苦労していても、あの前向きでひたむきな瞳で、人生を切り開いていって欲しいと願いながら。
誰かに愛されて欲しい。あなたが必要だと求められて欲しい。
神さま、
私の胸のなかにあるちいさな星に、
どうか愛をお与えください、と。いつもいつも。
「ママあ、お腹すいたあ」
その愛らしい声にハッとする。
キッチンに立つ私の足元に、双子の息子たちがまとわりついてきて、エプロンの裾を引っ張っている。
「あら、もうこんな時間? ホットケーキを焼いたから、朝ごはんにしようね。パパを起こしてきて」
すると、はーいと叫びながら、双子たちは我先にと階段を上っていって、寝室のドアを開ける。
夫のぎゃああという叫び声がして、これはみぞおちに蹴りを入れられたな、と思い笑う。きっとそのまま親子でプロレスごっこが始まって、夫はこらっこいつめ! と息子を抱えて、ぐちゃぐちゃにかき回された髪型のまま、まったく朝からなんなんだ! とぷんぷんしながら降りてくるに決まってる。
私はその様子を見、笑いながらホットケーキにたっぷりのバターとメイプルシロップを回しかけるのだろう。ホットケーキを口いっぱいにして頬張り、幸せそうに笑う子どもたちを見て、この子たちが決しておなかをすかせることがないようにと、ひもじい思いをしないようにと、心で強く願いながら。
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給食センターを後にして、スーパーで買い物を済ませてから、私は帰途に着く。下げたマイバックの中には、ついさっきまで皮を剥きまくって辟易したニンジンが、安売りの袋にぎゅうぎゅうに詰められ、入っている。
「あんだけニンジンの皮むきしたのに、家に帰ってまた剥くって。私の人生、皮を剥くだけの人生なのかな」
けれど、それで良い。皮むきだろうがみじん切りだろうが銀杏切りだろうが半月切りだろうが、なんだってやってやる。それが私が望んだ道なのだから。今日はカレーライスにしよう。考えると自然と鼻歌。おなかは減ってきたが、帰ったら自分が思うように料理を作ることができる。そんな幸せを噛みしめるように、私は笑った。
材料もある。料理のレシピもある。おやつに食べる板チョコだってある。祖父母の家に引き取られてから弟はまた少し、太った。
パパとママはいつのまにか家を出ていった。今日という日が楽しくハッピーならそれで良いという二人には、ギャンブルなんかやめて真っ当に生きろと口うるさく言う年老いた親は、足枷以外の何物でもない。もともと放浪癖があったから、きっと今でもふらふらとしているのだろうけど、もしかしたらお金がなくなれば戻ってくるのかもしれない。
道中マイバックの中を覗く。ニンジンの他には、あまりに安すぎるのではという値札をつけたバナナがひと房、入っている。春巻きの皮でカットしたバナナを包み、油で揚げたものを明日、おやつの時間に作ろうと思っている。
「さわちゃんは料理上手だねえ。これもすごく美味しいよ」
歯の悪い祖父母には、このバナナの柔らかさが良い。
「バナナがとろけて甘くなるんだよねえ。バナナ春巻き、最高!」
バナナの代わりにリンゴのコンポートでも良い。作り方を一から反芻すると、口内に唾がじゅわりと広がった。
甘みは幸せの象徴だ。
あの煙草のお姉さんに貰ったオレンジジュースにチョコレートや駄菓子の味。忘れられない。いつまでも忘れることはない。
物思いに耽りながら私はマイバックをぶら下げて、ぶらぶらと歩いた。その日はいつもより早い帰宅だった。使った調理器具の清掃が少ないと、30分は早く給食センターを出ることができる。
なんとなく思い立って、いつもとは違う道へ。遠回りになるけれど、町の小学校の側を流れるドブ川沿いを歩いた。確かこの先にフラワーショップとパン屋がある。買いはしないがちょっと見に行こうと、そのままオシャレな高級住宅街へと入った。
ふと、道のへりに立ててあるカフェ風の看板に目が留まる。
「ん? 子ども食堂?」
足を止めて目をあげると、そこには地域の集会所のような建物。比較的新しめではあるが、こじんまりとしている。再び、カフェ風の看板に視線を落とした。
「毎月第二第四、金曜日。夕方5時よりオープン。おなかがすいている人、どなたでも」
可愛らしいクマのイラスト。100円持ってきてね、との吹き出し。
そして最後に。
『食材の寄付をいただければとても助かります』
遠慮がちに書いてあるその一文。その文章の謙虚さになんだか惹かれてしまった。
マイバックの中には、安売りのバナナ、春巻きの皮、詰め込まれたニンジン、カレーのルウ。
晩ごはんはカレーライスの予定だが、相当な量のニンジンの皮むきに辟易していた私。直ぐにもニンジンを寄付していこう、と考えた。カレーは家の冷凍庫に眠るひき肉とジャガイモを使ったドライカレーにすれば良い。その中にニンジンをみじん切りにして入れれば確かに美味しさは増すけれど、まあ無いなら無いで済んでしまう。頭の中でそう算段がついた。
「……こ、こんにちは」
扉をそろっと開ける。すると、店内からお出汁の良い香りが漂ってきた。けれどこの時間、学校はまだ終わっていないはず。openは夕方5時からとのことだから、今はまだ仕込みの段階なのだろう。出来上がった完成形の料理の匂いは、まだひとつも漂ってはいない。
薄暗い店内。簡易なキッチンに立つ女性に声を掛ける。
「あの、」
髪を後ろで団子にしたエプロン姿が振り返る。そして、あらこんにちは、との笑顔と同時に、その表情が緩やかに強張っていった。
まだopen前だからだろう。私は申し訳なさそうに頭を下げて、マイバックの中に手を伸ばした。つるっとした滑らかなビニール袋を指先で探り当てると、それを掴んでマイバックから出す。
「もし良かったら……このニンジンを寄付させてもらっても良いですか?」
薄暗い中、女性は私をじいっと見つめている。何も言葉を発しないものだから、私はなるほどと気がついて、取り繕うように言った。
「あ、これ大丈夫です。さっきニコニコスーパーで買ってきたもので。レシートもありますから、確認してください」
ニンジンをカウンターへと置いて、カバンから財布を出す。中から一枚のレシートを引っ張り出し、同じくカウンターへと置いた。
「本当にさっき買ったばかりで。袋も開けてませんから……」
調理台にいた女性がカウンターへと近づいてくる。複雑な表情。ちょっと困っているようにも見える。こんな飛び込みのような寄付自体が、迷惑なのかもしれない。けれど、もう引っ込めることもできない。
どうしようと考えていると、女性がニンジンの袋に手を伸ばす。撫でるようにそっと触れた。
「こんなにたくさんのニンジン……本当に良いの?」
はっとした。
その声。覚えのある、どこか懐かしさを帯びた声。優しげなその声は、私の耳から入ると私の脳をトントンと優しくノックする。その声は私の記憶の中ではいつも、煙草の香りを含んでいた。
「……はい、どうぞ」
カウンターを挟んだこの距離では、その懐かしい煙草の匂いは届かない。女性の胸元、星型にカットされた名札には、「あかり」とあった。
女性の顔を、私は見つめた。
和柄の三角巾をオシャレに被ったお姉さんは、眉をハの字にし、そのまま表情を崩していった。
今にも泣き出しそうな、その顔を。その顔を見て、じわっと目頭が熱くなる。壮絶な空腹の苦しみの中にいたあの頃。幸せだった一瞬を与えてくれた、その幸福感が思い出として蘇り、白黒でしかなかった子どもの頃の映像に、みるみる色彩が施されていく。
込み上げてくるものがあった。目頭がさらに熱くなり、鼻の付け根がツンと痛んだ。それと同時に目から涙が溢れた。
記憶が蘇る。
あれは私が小学四年生のこと。
いつも空腹を抱えていた私の人生に、生きる希望を与えてくれた人。
「……どうぞ、使ってください……」
最後は想いが口からほとばしり過ぎて、うまく言えなかったのかもしれない。涙が溢れて溢れて、頬をどんどんと伝っては落ちていく。カウンターをふたり挟んで、お姉さんも唇をぐっと真一文字に引き締め、そして泣いた。
「おなかをすかせている、子どもたちのために」
生きて欲しい、と次から次へと溢れてくる思いを、持て余す。
お姉さんは泣きながらニンジンを受け取り、それを胸に抱きしめた。
大切そうに。愛しそうに。
ぎゅうっと抱きしめる。
「……ありがとう
元気だった?」
泣き顔を笑顔へと変えながら、うんうんと一生懸命に頷く。私が手を伸ばすと、お姉さんはカウンターから出てきてくれて、私が差し出した手を両手で包み込んでくれた。さっきまで料理をしていただろう、お姉さんの手は冷たい。けれど、なぜか心はこれほどまでに暖かい。
私は嗚咽をこらえながら、そのままお姉さんに縋りついた。お姉さんからはかつての煙草の匂いはしなかった。
カウンターの上には一枚のレシートだけが、暖房の風だろうか、ふわふわと揺れていた。
fin