第五話 終わりに。
個室を覗くと造りは祖母の病室と同じ。
ベッドとその横に立つ人が見えた。ベッドに寝ている人物は隠れて見えない。
「落ち着いてちょうだい、ここは病院なのよ」
「……じゃあ、放っておいてよ……こんな腕……」
おろおろとした声はベッドの側から聞こえ、ベッドの主は憤りと共に絶望感が滲んだ口調で答えている。
「……あの、すみません」
「はい?」
返事をしたのはベッドの側の人。だいたい五十前後くらいの女性だ。たぶん、患者の母親だと思う。
「これ……廊下に……」
「え、あ……ごめんなさい。ありがとうね……」
弱々しく笑う患者の母親の肩越しに、患者がいるベッドが見えた。
水色のパジャマの若い女性。
片腕はギプスで固められている。
誰が見ても光のない瞳。
そして、彼女の背後に見えるのは……黒い靄。
「……………………」
「え? あの…………?」
僕は母親の横を通り抜けベッドに近付いた。
「…………何?」
「……………………」
怪訝な表情を浮かべて女性は僕を見上げている。
「これ……あなたのですね……」
僕は無表情でノートを差し出すと、女性は眉間にシワを寄せた。
「別に、いらない……こん……」
「僕は凄いと思います」
「え……!?」
「このノートには、僕の知らないことが沢山書いてある。あなたが努力したことが、ここにちゃんと書いてある」
ノートに書いてあったのは、ギターに関するもの。
歴史に始まり、造形、種類、中にはオリジナルの曲もあった。
「あなたはできる」
「え……えと、何を…………」
「未来の話。あなたは努力ができる人だ」
「…………未来…………何言って……」
僕は話上手じゃないから、思ったことを点々と言ってみたのだ。説得や励ましの言葉も巧く言えない。
でも、脚色した言葉は言わない。
「僕は凄いと思います」
「……………………」
ノートを差し出すと彼女は両手を出そうとした。しかし、ギプスの片腕は動かず、くしゃりと顔を歪ませながら片手で受け取る。
この時、彼女の背後にいた黒い靄はゆらゆらと大きく揺れた。
「……中を見てごめんなさい。失礼します」
一礼して、僕は彼女の顔を見ずに病室を出る。
これで良いのかどうかは明日、この時間に判るだろう。
お祖母ちゃんに報告するため、僕はエレベーターへ向かった。
翌日。病院に行く途中、僕は大きな道路の手前にいた。
手にガーベラの花束を持っている。
――――そろそろ時間だ。
腕時計を確認して、大きな道路とは反対側へ目を向けた。
テンッ、テンッ、テンッ…………
弾む音と共に、一個のサッカーボールが僕の足元へ転がってくる。
「よいしょ……っと……」
足で押さえて拾い上げる。
「すみませーん!」
元気の良い小学生の男の子の声。
ボールの持ち主は無邪気に駆け寄ってきた。
「ボール転がっちゃって……!」
「……ここ、道路近いから遊ばない方がいいよ」
僕は少し声のトーンを落とす。小学生から見れば、中学生に注意されるのは少し怖いことだろう。
「す、すみませんっ!! ありがとうございます!」
彼が頭を下げボールを持って走り去るのと同時に、背後の道路では、大型トラックがスピードを上げて走っていくところだった。
トラックの排気ガスと共に、不自然な靄が上がり消えて行くのを見届けた。
「…………任務完了」
ポツリと呟いて、僕はその場を後にした。
病院に着いて、真っ先にエレベーターに向かう。
どうやら、一昨日の故障はすぐに直されたようで、今日は通常通り使えているようだ。
エレベーターの扉が開いて中に入ると、ひとりの女の子が元気良く駆け込んでくる。
見た感じの印象は7才くらいの女の子。ピンクのふわりとしたワンピース、髪の毛はポニーテールにされて、同じリボンが結ばれている。
保護者もいるようなので『開ける』のボタンを押してしばらく待ってみた。
案の定「すみません」と言いながら入って来たのは、少し年配の女性だ。
階を聞いてボタンを押す。
「ねぇねぇ、あたしね、おねぇちゃんになったの」
エレベーターの扉が閉まると、急に女の子が話し掛けてきた。
「そうなんだ。弟? 妹?」
「いもうと!」
答えてもらったのが嬉しかったのか、女の子はニコニコとしている。
エレベーターはすぐに彼女たちの目的の階に止まり、二人は周産科のある六階で降りていった。
「バイバイ!」と、手を振る女の子の胸には、かわいらしいカギをモチーフにしたペンダントが揺れている。
立ち去る女の子の足元、黒い靄がまとわり付いていたが、エレベーターの扉が閉まる前に消えた。
僕が祖母の病室より先に向かったのは屋上。
扉を開けると、気持ちいい風が吹き付けてきた。
備え付けのベンチに座り息をつく。
相変わらず、返しのついた高いフェンス越しの景色だが、今はそれも悪くないと思っている。
ガチャ……!
後ろで扉が開く音がして、そちらを見ると水色のパジャマを着た人物が立っていた。
「あれ……? あなた、昨日の…………」
女性は驚いた顔をしている。
あぁ、覚えていたんだ。
「こんにちは。ここの景色、なかなか良いですよ」
女性がにこりとしてきたので、自分でできる限りの親しみやすさを作ってみた。
「ほんと、初めて来たけどいいわね」
「……でも、今日はやめた方がいいですよ」
「え?」
僕はすぐ近くを指差した。
「ほら、あそこのフェンス。何だか、金具が壊れていたみたいで、今修理中だから」
フェンスの一部、危険と書かれた黄色いテープとカラーコーンで近付けないようになっている。
「落ちたら大変だし、直ってから景色を観るのをお勧めします」
「そう、本当に……ちょっと残念」
彼女は苦笑いをして引き返そうと後ろを向く。
しかし、すぐにこちらに振り返って口を開いた。
「……ありがとう」
「え?」
驚いてベンチから腰を浮かす。
「……ノート拾ってくれたから。昨日、お礼言い忘れてたから」
ペコリと頭を下げる彼女は、扉を開けて去っていく。
…………ちょっとビックリした。
でも、何だかくすぐったくなる。
そう思ってベンチに座り直した時、黄色いテープの向こうで黒い靄が風に流されていくのが目に入る。
「…………終了……」
これでもう、彼女は大丈夫だろう。
僕にとって彼女と会うのは五回目だが、彼女は僕に会ったのは二回目だ。
“暗闇の眼”は死んだ人間を視ない。
その場所で、死ぬ人間を映し出す。
僕が視えるのは四、五日前くらい。
お祖母ちゃんは十日前くらいだという。
しかし、それも確かなものではない。
黒い靄はよく分からない。
もしかしたら、世間一般で言うところの『死神』って奴かもしれないと思っている。
ピピピピ…………
腕時計のタイマーが鳴る。
「さて、お祖母ちゃんのところへ行くか……」
花束を手に屋上の扉を開けた。
「はい、任務完了ね。お疲れ様」
「うん……疲れた」
ガーベラを花瓶に生けながら、今回のことを説明した。お祖母ちゃんはニコニコと満足そうだ。
「……ったく、夏休み最後まで気が抜けなかったよ」
「でも、偉かったわ。ありがとう」
「うん……」
僕はお祖母ちゃんの『ありがとう』の言葉を聞きたいがために、ここへ来るのかもしれない。
「じゃあ、お祖母ちゃん。僕、明日から学校だしたまにしか来れないけど……」
「ふふ……いいわよ、たまにで。楽しみにしているから」
笑うお祖母ちゃんの後ろ、窓に掛かるレースのカーテンが大きく揺れた。
一瞬だけ
部屋は無人になる。
ベッドはもぬけの殻になり、
花瓶には『桔梗』の花が飾られている。
再び、カーテンが大きく揺れた。
ベッドにはお祖母ちゃんがいて、
花瓶には今日持ってきたガーベラが飾ってある。
「またね、お祖母ちゃん」
「帰り、気をつけてね……」
――――今度は『桔梗』か。
前は『ヒマワリ』だった。
――――まだ、お祖母ちゃんには教えてもらう事が沢山あるんだから、長生きしてもらいたい。
僕の“暗闇の眼”は今、祖母の寿命を延ばすのに必死になっている。
いつか、僕なんかが止められないと思う
残酷なその日まで――――。
了。
完結です。
ありがとうございました。