第四話
全力で走った僕は、独り乗ったエレベーターで息を整える。
あと……くそ、十分もない……!
どうしても明日に延ばすことはしたくない。
今、救けなければ、僕が彼女に接する気持ちが変わってしまうと思ったのだ。
手のひらには、涙型のプラスチック板がある。薄いが丈夫でとてもキレイなもの。どこかで似たような物を見たことがあったが、それがどこだったか思い出せない。
ピンッ!
軽快な音が鳴り、扉が開く。
屋上へはここから階段で上がらなければ。
そこへはこの階のナースステーションの前を横切らなければならず、たぶんこれも自殺の抑止力になっているのだろう。
軽く会釈しながら階段に向かった。
心身ともに健康な自分でも、この道のりが面倒になっていく。
彼女も同じ場所を歩くはずだ。
だからこそ、何で彼女が死ぬのか分からなくなってきた。
刑事じゃないけど“現場百遍”とはよく言ったものだ。
屋上に到着すると、下で感じたよりも涼しい風が吹き付けた。
もう真夏の風ではない。どことなく秋を感じる。
目を閉じて息を吸う。
「今度こそ……!」
願うように目を開けると、うす緑色の高いフェンスの少し前、水色のパジャマを着た一人の女性が立っている。
「……………………」
女性はただ黙って遠くの景色を見ていた。
よし…………!
「……こんにちは。ここで何をしているんですか?」
『…………………………えっ?』
少し間の後、かなり驚いた気の抜けた返事がきた。
声を掛けられるのが珍しいように、目を丸くし口を開けてこちらを見ている。
この反応は僕にとっては二回目だが、彼女は僕と初対面だ。
『いえ……何も。ただ眺めていただけ……』
「そうですか。でも、ひとりでいるの危ないですよ」
『大丈夫よ、私は自殺なんかしないから。そう思ったのでしょ?』
「いえ、そうじゃなくて…………これ」
僕は手を開いて彼女に差し出す。
桜色で涙型のプラスチック板。
「これ……そこに落ちていたんですけど、お姉さんのものですか?」
『あ! そう、私の。うわ……いつの間に落としたんだろ……?』
彼女は小さなそれを、指で摘まんで太陽にかざした。桜色が光に透けて、小さいのにとてもキレイだった。
「そのプラスチックの……それって何でしたっけ?」
僕が然り気無く話題をだすと、彼女は笑いながらこちらを見る。それをかざしたまま、瞳を生き生きさせてこちらに振り向く。
『これはギターのピック。爪の代わりに玄を弾くものよ。厳密に言うと、プラスチックじゃなく、セルロイドとか樹脂でできているの』
「へぇ……そうなんですか……」
そういえば、音楽番組とかでギタリストの手元がテレビに映った時など、見たことがあったかもしれない。
音楽に疎い僕には分からなかったが、祖母なら気付いただろうか。きっと聞いたら聞いたで『経験不足』と笑われることだろう。
「ギター、弾くんですね」
『うん、まぁ……前はね……でも、もう無理かな』
「事故……ですか?」
『えぇ。交通事故でね……手が……』
彼女の片腕はギプスと包帯で固められている。
『子供の頃からギターを弾いていてね。これでも、コンクールとかにも出て…………将来はプロになりたいなぁ……って……』
彼女の顔に影が差す。
『リハビリすれば趣味なら続けられる……とか、周りは簡単に言って…………プロは……もうなれないだろうって…………』
彼女の声や瞳から、どんどん力が失われていく。
しかし、僕は今際を越えた彼女を視てきた。
例え死んでも、そのピックを探して這ってきた姿を。
だから、もう一個確認があった。
「お姉さん、お姉さんの部屋ってどこ?」
『え? 何で』
「今度、話しに行ってもいい?」
『あら? 私、軟派されてるの? まぁ、いいわよ。私の部屋は――――』
意外にお姉さんは笑っている。
きっと大丈夫。この人は『生きられる』だろう。
風が強く吹く。
――――もう、時間だ。
『…………あっ!』
彼女の指先にあったピックが風に拐われ、フェンスの隙間から高く向こう側へ――――
『待って!!』
彼女はフェンスに飛び付いた。
…………………………ッドン……!
鈍い音がフェンスの向こう、遥か下から聞こえた。
ピピピピ…………
僕の腕時計のタイマーの音が辺りに響きわたる。
一人きりになった屋上で、静かに深呼吸をした。
『瞬間』も『現場』も、僕は視るのが苦手だ。それらを視ている時、僕は完全に傍観者になるしかないのだ。
僕はポケットから汗を吸って、くしゃくしゃになったハンカチを取り出し、フェンスの一部に縛り付ける。
「あとは、『確認』だな……」
重い扉を開けて、僕は屋上をあとにした。
見舞いで来ているので、祖母の病室がある階以外は特に用事がない。
「…………ここだ」
ある病室の近く、キョロキョロと辺りを見回したが、他に人はいない。
彼女に教えてもらった病室。
僕はここへ『確認』に来た。
でも…………どうやって『確認』しよう?
その病室は個室で、間違えて覗いていくという、大部屋あるあるが使えない。他の階を調べたとは言っていた祖母も、個室までは見ていないだろうから、分からなかったと思う。
いや、でも、幸いにも部屋のスライドドアが開いている。何食わぬ顔で通りすがりに覗くことも…………
「何でそんなこと言うのっ!! 私の気も知らないくせにっ!!!!」
急に病院らしからぬ大声が聞こえた。
バサァアアア――――ッ!!!!
部屋の入り口から床を滑るように、一冊の大学ノートが飛んでくる。
「…………何だ?」
それを拾い上げて埃を払う。
黄色い付箋がノートの上や横から、びっしりと生えてきているようだった。
失礼してパラパラとノートを捲って中を拝見する。
これって…………ああ、なるほど。
思わず唇を噛んだ。痛いくらい先ほどの彼女の気持ちが伝わってくる。
“忘れ物”の次は“落とし物”か。