第二話
「あら、また来てくれたの? 息抜きにお見舞いばかり来ないで、ちゃんと勉強しなきゃダメよ」
個室の病室は静かで、祖母はベッドに腰掛け窓の外を見ていた。
「今日はゼミが夜にあるの、だから勉強ならしてるよ。起きれるなら看護婦さんに散歩の許可もらおうか?」
「ううん、いいわ。朝に先生に聞いたけど、暑さが厳しくなるからってもらえなかったのよぉ」
そう言って口を尖らせる祖母は、とても背の小さく丸っこくて、穏やかに生きてきた年寄りの可愛さがある人だ。
「早く秋になってくれないかしら。そうしたらお散歩もしやすくなるのに……」
「うん、そうしたら僕が車椅子押してあげる」
「あら、ありがとう。でも、新学期からもっと忙しいんでしょ。あなた、またお祖母ちゃんっ子って言われるわよ?」
「別にいいよ、嫌じゃないもん」
僕は笑いながら病室の花瓶に水を入れ、持ってきた花束のフィルムや紙を取って生ける。
祖母は花が好きなので、僕は数日おきに色々持ってくることにしていた。
「今日の花、父さんからだよ。しばらく急な出張で来れないからって」
「カサブランカね。それも良いけど、やっぱりヒマワリの花がいいな」
「そこの裏庭に沢山咲いてるだろ? 別にいいじゃん、部屋にはこれで」
この病室の窓からは、裏庭の花壇が見える。季節の花が楽しめるように、病院側がこまめに植えてくれていて、今咲いているのは小ぶりのヒマワリの群だった。
おそらく、見頃はもう過ぎただろう。
「あのねぇ、今一階のエレベーター所で“視えた”んだ。原因はエレベーターの故障による事故だった」
「あら、私は入院した時に一度通っただけだったから、視えなかったわね。もう終わったの?」
「うん。業者がエレベーターの故障箇所に気付いて直し始めたから、もう大丈夫だと思うよ」
「そう、良かったわ」
僕は祖母と、さっきの事について淡々と話す。
“暗闇の眼”は僕と祖母だけしか持っていない。僕が生まれる前は、祖母とそのまた祖母しか持っていなかったそうだ。
おそらく、僕の孫に出てくるだろうとお祖母ちゃんは言う。
「ねぇ、お祖母ちゃん。最近は変わったことある?」
「最近ねぇ……あぁ、そういえばこの時間になると…………」
その時、
上から下に、窓の外に何かがかすめた。
…………ッドン!!
鈍い音が、外から聞こえる。
「…………落ちたね」
「…………落ちたわねぇ」
窓に近寄り、病院特有の少ししか開かない窓を開けて、隙間から地面を見下ろした。
夏の日差しで熱された黒いアスファルトの上、ポツンと水色のパジャマが横たわっている。
ここからではその人物は特定できず、その水色もどんどん赤黒く変色していく。
見ていると、そこへ数人の病院のスタッフらしき人影が通りすぎる。しかし、そこへ倒れている存在には気付かないようだ。
しばらくすると、それはボヤけて跡形もなく消えていく。
僕は窓から顔を背け、祖母に向き合った。
「あれが、最近視えるもの?」
「そうなの。ここ一週間くらいかしら」
「ふーん…………」
僕はチラリと何者かが落ちた場所に目をやる。
今は何もない。今は。
「ねぇ、忙しいところ、お願いがあるのだけれど……良いかしら?」
「…………いいよ。この上の階から屋上まで、全部見てくればいいんでしょ?」
「屋上だけでいいわ。他の階はチェック済みよ」
「さすがベテラン…………恐れ入ります。先輩」
「ふふ……頼んだわよ。後輩くん」
僕はお祖母ちゃんのお願いに弱い。
それに、これは代々続く使命と言ってもいいのだ。
…………屋上、か…………。
普通病院の屋上は患者の出入りがないところが多い。
想像がつくとは思うが、自殺防止のためだ。
祖母は車椅子で移動するため、階段でしか上がれないここの屋上は調べてこれなかったのだろう。
――――ガチャ。
マジか。開いた。
ここの病院の安全管理はどうなっている?
ドアを開けると、熱気を含んだ夏の風が強く吹き付けた。
「お、いい眺め……」
さすが屋上は開放感が違う。
屋上は出られる場所が限られ、ちょっとした広場のようだった。御丁寧にベンチまで置いてあるのだから、ここまで来れる患者には人気かもしれない。
患者も出られるようになっている理由は、かえしの付いた高い金網だ。確かに、これを登る気力と体力のある自殺志願者は、この病院に入院などしていないだろう。
――――じゃあ、何で……?
今、屋上には誰もいない。
「時間は……三十分前ってところかな……?」
お祖母ちゃんの病室の上は……そこら辺だ。
そちらを向き、静かに目を閉じる。
眼の周りがぐぅっと圧迫された。
熱を持った手に押さえられたような感覚だ。
スウッと目を開ける。一瞬、眩しくて細めるが、だんだんと眼はその光景に慣れていく。
「うん、ぴったり。…………あの人か」
うす緑色の高いフェンスの少し前、水色のパジャマを着た一人の女性が立っている。
とても細身の人で、色白の横顔はとてもキレイな人。僕より四、五歳は年上だろうか。
彼女はじっとフェンス越しに遠くを見ている。その顔は無表情で、ひたすら前を向き微動だにしない。
…………自殺……?
たぶん、というか絶対、彼女の死因は転落死だ。
動機と方法を特定しないと僕と祖母の“暗闇の眼”は、ずっと彼女の死を見続ける。
じっと彼女を観察することにした。
彼女は背が小さく、右手は骨折しているようでかなり頑丈に固定されている。
あれじゃ、フェンスを登るのは無理だ。
――――どうやって?
『……………………』
彼女はただじっと、遠くの景色を見ている。
よし、ちょっと探るか。
「……こんにちは。ここで何をしているんですか?」
『…………………………えっ?』
少し間の後、かなり驚いた気の抜けた返事がきた。
声を掛けられるのが珍しいように、目を丸くし口を開けてこちらを見ている。
『いえ……何も。ただ眺めていただけ……』
「そうですか。でも、ひとりでいるの危ないですよ」
『大丈夫よ、私は自殺なんかしないから。そう思ったのでしょ?』
「ええ、まあ…………」
彼女はクスクスと笑っている。
確かにパッと見た感じ、この女性は自殺する人間には見えない。
「えっと……ここには何で……?」
『交通事故で入院してきたの。幸い、脚は骨折してなかったから、ここへ景色を眺めに……ね』
「そうですか……」
僕は初対面の彼女と淡々と話す。
――――もうすぐ時間だ。とにかく原因を……。
『ね、ほらあれ! ここってすごいねぇ。向こうのビルの隙間に海が見える!』
「あぁ、本当だ……。あ、そうだ。お姉さんは病室はどこ――――」
女性から目を離したのは一瞬だった。
『――――あ……』
か細い声と共に、女性は僕の斜め前方にいた。
フェンスの外、その体が宙に舞う。
『いやぁああああっ!!』
「あっ!!」
女性の姿は煙のように消えた。
「しまった……見逃した……」
僕は隣に顔を向ける。
今し方、女性がいた場所には真っ暗な塊が代わりに存在した。
「……今はさっさと失せろ。後で絶対僕が跡形もなく消してやる」
僕がそう言うと、闇の塊はゆらゆらと揺れて溶けるように消え失せる。
一瞬目眩がして、僕はその場にうずくまった。
今は夕方には早い時間だ。
「くそ。もう、ゼミに行かないと…………」
僕は苛立ちを胸に、屋上を後にした。