第一話
「あー……嘘だろ……」
病院の広いエントランスホール。
一輪のカサブランカの花を中心に作られた花束を手に、僕はその場に立ち尽くす。
自分の目の前でエレベーターの緊急点検が始まった。
なぜか急にエレベーターが動かなくなり、作業終了の目処がたたないらしい。
ほんの数分前まで使えていたエレベーターは、僕がトイレに行っている間に止まってしまっていた。
ここ、一応は有名な大学病院だろ?
エレベーターだって良いメーカー入れてないのか? 古いせいか? 老舗の病院だから?
僕は心の中で悪態をついたが、こればかりは仕方ない。
どこかのドラマばりに、中で閉じ込められてはたまらないからだ。業者がんばれ。
薄いうぐいす色の作業服の業者が二人、止まったエレベーターの点検をしている。
どうやら、電気系統に異常があったと思われるのだが……。
僕は近くの長椅子に腰掛け、エレベーターの作業を眺めた。別にお見舞いは急ぎではない。数分で終わらないかと考えたが、たぶん無理なのも十分解っている。
新学期も目前の八月の末、平日の昼間である今は僕以外のお見舞いの患者が見当たらない。
別の通路の奥を見ると、あちらは外来の待合室であり、大きな病院らしく来院した人間がひしめいている。
ここは見舞いや救急車で運ばれて来た者しか通らないため、向こうとは別世界のように静かだ。
僕の前にあるこのエレベーターは病室に直通で、見舞い客や一階の売店に歩いて行く患者用のものだ。
そこから少し離れた所に、このエレベーターよりも大きい扉のエレベーターが見えた。
こちらのベッドごと運んだり、車イスの患者が使う大きいエレベーターは、緊急時のために他の人間は遠慮しておかなければならない。
勝手に使ったらまずいよな……ダメかなぁ。
僕は入院している祖母の見舞いで、都心から離れたこの大学病院までやって来た。電車で四十分は掛かる。
祖母のいる消化器科は十階だ。
非常階段で昇るのは、高校受験の勉強のせいですっかり運動不足の僕には、死ねと言われているに等しい。
「すぐに直るようならいいんだが……原因がさっぱりだな……」
ポツリと作業着の一人が言う。
…………これはすぐには直らないだろう。
僕はため息をついて歩いていく。
非常階段ではなく、作業着の業者二人に。
「ここ、入り口に隙間空くんじゃないですか? たぶんそれで異常を知らせる装置が働くんだと思いますよ?」
「「え…………?」」
僕は乗り降りする扉の下を指差した。特に今のところ異常は無さそうである。
業者のベテランそうなおじさんが首を傾げたが、すぐに手に持っている無線で他にいる仲間に連絡をする。
「すまないが、電源を入れて動かしてくれるか? ちょっと確認したいんだ……」
『……分かりました』
くぐもった声がして、少しするとエレベーターの稼働音がしてきた。
業者の二人が手動で扉をこじ開けると、太いワイヤーや滑車などが剥き出しになり、エレベーターの動く様子がよく見える。
「「あっ!!」」
「………………」
業者の二人は驚きの声をあげた。
『ピン!』と到着の音が鳴ったのに、一階に着いたエレベーターは一メートルほど上で止まっていたのだ。
「このまま扉が開いたりしたら、子供とか下に落ちかねませんね」
「ああ……そういえば、前にもこんなことがあって事故になってたな……」
二人はブルッと身震いをする。
「いやぁ、お兄さんよく解ったね」
「……こりゃ、しばらくはエレベーターは使えないな」
業者二人は宙ぶらりんになったような、エレベーターを見上げてため息をついていたが、僕はその下のぽっかりと洞窟のようになった空間から目が離せない。
床の下、業者の足元からまるで煙のように、黒い塊が上がって来るのが見えた。
ズズズズ…………
コンクリートに何かが擦れるような音がする。
エレベーターの穴から小さな手が、黒い塊と一緒に這い上がる。
「……………………」
僕は微動だにしないで『それ』を見つめた。
『う、うぁ……うぁ……うぁ……うぁ……』
片手、両手、頭、胸…………ずるずるとエレベーター前の床の上を、赤黒い軌跡を遺しながら向かってくる。
「……………………」
『うぁ……うぁ……うぁ……うぁ……』
ずるずる、ずるずる…………
――――早く、早く消えてくれ…………。
「………………」
『うぁ……うぁ……う…………?』
ずるずるずるずるず…………
這ってきたものが僕の足元で止まる。
ぐいっ! 上半身を九十度以上仰け反らせて、それは僕の顔を見上げてきた。
――――早くっ! 何やってんだよ!
「……………………」
『あ~、あ~……たす……け……』
見た感じの印象は7才くらいの女の子。
ピンクのふわりとしたワンピース、髪の毛はポニーテールにされて、同じリボンが結ばれている。
仰け反った彼女の胸には、カギをモチーフにした可愛いペンダントがぶら下がっていた。
ここまでは普通の可愛らしい子だ。
ただし、首が少し…………いや首だけでなく、腕や足が骨格を無視して斜めに曲がって、捻れている。
彼女は上に、僕の胸に向かって手を伸ばす。
腕は関節がジグザグになっている。
ぎゅうっ……
『うぁ、うぁ……あ~あ~あ~……』
「………………っ……!!」
重さは感じず、僕の体を這い上がる感触がした。
彼女の生気のない蒼白い顔が近付いてくる。
同時に黒い靄も僕の足元を登ってきた。
――――早くっっっ!!
「あ! ここのワイヤーが弛んで、引っ張りが十分じゃなかったのか。こりゃあ、今日中には無理だな」
業者の声。
『あ……………………』
その途端、少女の姿と黒い靄は、湯気が風に散らされるように消えた。
「――――はっ! はぁ~、はぁはぁ……」
どうやら自分は息をするのを忘れていたらしい。
ゴクリと唾を飲み込み、乱れた息を整える。
やっと顔を上げると、業者のひとりと目が合う。
まだいたの?と、言わんばかりの顔で近付いてきた。
「ん? あぁ、お兄さん、どうしたの? ここのエレベーターはしばらく使えそうにないよ」
「…………そう、ですか」
「お見舞い? 何階まで?」
「十階です……」
「そうか~。あ、じゃあ、ちょっと待ってな!」
ベテランの業者がどこかへ行く。その間に若い業者がカラーコーンやバーを並べて、エレベーターを使用禁止にしていた。
すぐにベテランの業者が戻ってくると、大きいエレベーターを使って良いと言ってくれた。
どうやら、建物の中にもう一つ臨時のエレベーターがあるので、こちらを見舞い客用に開放する許可を医局の職員に取ってきてくれたようだ。
やはりこのエレベーターは数日は使えないらしい。
「ふぅ~~~~……」
独りで大きなエレベーターに乗り込み、扉が閉まると同時に大きく息と独り言を吐く。
「さっきのはヤバかったなぁ…………だから、機械の関わる『現場』は嫌なんだよ…………」
そう、これが僕の眼だ。
僕には人の死の現場で異形の存在が見える。
“暗闇の眼”
これからお見舞いに行く、僕のお祖母ちゃんは僕の眼をそう呼んでいた。