十三願目
ありきたりな台詞でしかないがこうなるのは運命で決められていた。
横島が【願望器】を手にし、奏多がすぐに【願望器】を回収をしなかった時点でもうこうなる事は必然とさえ言えた。
「ひははっ、始めっからこうすれば良かったんだよな。気分はどうだ、向奈?」
いやらしい笑みを浮かべた横島は身動き一つしない心川をニヤニヤと眺める。
瞳から涙を溢れさせる彼女は一体どれだけの波を溢し続ければこの悪夢から逃れられるのだろう。
身体中の水分を抜けば逃れられるのなら、それこそ穴と呼べる穴から全ての水分を吐き出してでも難を逃れていよう。
(誰かっ、助けて……)
心川向奈は今、有り得ない現実に囚われていた。
手足が縛られた訳でも薬を飲まされた訳でもないのに身体が言う事を聞かず、自身の手で制服を脱ぎ捨て、清楚な白い下着姿を露わにしていた。
まるで理解出来ない向奈は恐怖に縛られる。それが益々自身の状況を悪化させるとも知らずに彼女は怯える。
白馬の王子は存在しない。颯爽と駆けつけるヒーローも存在しない。いるのは情欲に塗れた一匹の肉食獣。
自身はさしずめ調理済のステーキ肉か。身動きが取れず皿の上からも逃げ出せない哀れな子牛の感情など貪欲な獣には関係が無かった。
「ああ、最高だぁ。ようやくお前を貪れると思うと興奮し過ぎてぶっ倒れそうだ」
ならそのまま倒れてよ。そう願うも現実は非情で無情。
倒れるどころか興奮で荒げる生暖かい吐息が頬を撫で、一部隆起した箇所は今にも飛び出して襲い掛からんとする。
何故こうなってしまったのか。時間は放課後にまで巻き戻る。
・・・
「おい、行くぞ」
「っ、うん…」
久々に学校に姿を現した横島はいつも通り向奈を呼び出した。
向奈は何度逃げてしまおうかと思ったが振るわれる暴力に対する恐怖が勝り、校門前に待つ横島と合流してしまう。
放課後に行われる下らないデート。
この後はウインドショッピングだろうか。
――横島が好きなアーティストの曲を強制的に買わせたり、数万円もする腕時計を安物だと嘲笑ったりするのを聞かされる拷問か。
それとも小腹が減ったと軽食だろうか。
――同じ物でないと許さない上に食べたくもない物を食べさせられる。油ギトギトのフライドチキンか。もしくはニンニクマシマシな濃厚スタミナラーメンか。
どちらにせよ向奈にとって幸福の時間ではない。
肉体的変調は既に出ている。白い顔は別の意味で白くなり、笑顔は既に消え失せた。
そもそも向奈は一度でも横島に笑みを浮かべて見せた事など在っただろうか?
ない。間違いなくない。
感謝、歓喜、尊敬、愛おしさ、期待に満足感と言った正となる感情を与えてはくれなかった。与えていたのは悲しみ、空虚、絶望、嫌悪と言った負の感情ばかり。
それでどうやって笑みを浮かべて見せろと言うのだろう。
今、この瞬間も向奈は早く分かれて帰りたいと願っている。
しかし向奈に拒絶するだけの勇気はない。
だからこうして嵐が過ぎるのを待つ旅人のように耐え凌ぐしか出来なかった。
「今日は、…何処に行くの?」
せめて拷問の内容くらいは知りたい向奈は恐る恐る横島へと確認する。
「お前は着いて来ればいいんだよ」
しかしそれさえ聞かせてはくれない。
一体今日は何が待ち受けているのか分からないのも恐怖を煽った。
(せめてカラオケのような個室じゃないといいけど…)
そう思うのも無理はない。
何せ横島は妙に臭う。この独特の体臭は受け入れ辛い。
それでいて今日は汗だけでない生臭い臭いも香水の如く身に纏っているので一段と臭いがキツかった。
だから臭いがあまり来ない様に横に並び、それでいて距離を取りながら歩いた。
いつもなら数歩下がっている所であるが、この臭いのキツさには向奈も流石に堪えるのは辛いものがあった。
「………おい向奈」
「何?」
急に話し掛けて来る横島は一体今度はどんな迷惑を与えて来るのか。
覚悟しながら返事をする向奈の耳に入って来たのは意外な言葉だった。
「お前は俺のことをどう思ってる」
「………え?」
すぐには返答の出来ない質問に向奈は困惑した。
一応は彼氏彼女の仲。
だけどもそこに愛だ恋だのとする感情はない。
何故か恋人になっていて、そこに自分の意志など無かったのだから答えなど持っていないに等しい。
それでも答えろと言うのであれば、とても迷惑な人としか答えが出ない。
何せ横島は向奈を散々な目に遭わせ続けた。
近くにいた分だけ付き合う前よりも評価が落ちた相手には妥当な評価だ。
「………」
しかしながら確定した答えを口に出すのは憚られた。
横島に対し遠慮している訳ではない。ただ単に拒絶の言葉を口にした時の反応が怖くて言えないだけだった。
「……ちっ、そうかよ」
向奈の沈黙をどう捉えたのか。
横島は舌打ちを一つ打ってからそのまま歩き続けた。
正直叩かれると思っていただけに拍子抜けであった。
いつもならもっと攻撃的なのに今日は何処か大人しい。
横島の変化に違和感を覚えながらも行き先不明なデートを続ける。
「………」
「………」
歩くだけの行為も好きな人とであれば楽しい行為だが、相手が横島では空気は悪くなるばかり。
会話の一つもないと辛いものだ。もっとも口を開いた所で話題もなく、横島が一方的に喋るばかりなので話した所で苦痛であるのだが。
こうしてゆっくり歩くのはいつ以来だろうか。
向奈は横島がいるのを脇に置いて感慨にふける。
どうにも最近の自分は変だった。
気付けば横島の彼女になり、気付けばフルートがまともに吹けない環境に追いやられた。
楽しいと言えたのはいつだろう。それもずっと昔のように感じてしまう。
急過ぎる展開に着いて行けない自分を客観的に見るととんでもない道化でしかなかった。
自分で告白を受け入れて――向奈の中ではそうなっている――おきながら相手の嫌な所が見え過ぎて辛い。ただ遠くにいた時でも近寄りたいと思っていなかった筈。それなのに近くに居続ける。これを道化と呼ばずに何と呼ぶのか。
見える景色も同じ通学路なのに不思議と気持ちを不安視させる。
雲混じりの焼却色の夕焼けが何かのカウントダウンを思わせる。
アスファルトの薄暗い暗褐色の細長い道は一種の綱渡りを連想させる。
吐く息が重い。心臓は落ち着かないと警告音を鳴らし続ける。
これが果たして恋人の隣にいる者の心境か?少なくともそんな相手と寄り添いながら生涯を共にすれば早死にしてしまう。
何せその感情は死刑判決を受けた囚人そのものでしかないのだから。
「………なあ、向奈」
「…っ、何?」
一瞬だけ自身の首に縄を掛けられた錯覚を覚えながらも向奈は横島に向き直る。
「俺は間違ってた」
「………え?」
向奈は自分の耳を疑った。何せ横島が自身の非を認めたのだ。
どれだけ傍若無人に行動してもまるで自分が世界の中心にいるかの様に振る舞い続けるあの横島が自身の非を認めるなど誰が想像出来るか。
一体どう言うつもりか。向奈は聞いてるだけで人を不快にさせる潰れた声を注視して聞いた。
「金持ちの息子で何もかも思うがままだった」
独白を始める横島の足は猛犬注意の張り紙がされた大きな公園の入り口を踏み歩く。
夕方ともなれば子供の姿はもう見えない。それでも大きな公園の中は誰一人とおらず、高めの生い茂った木々があらゆる物を隔絶して二人だけの世界を創り出す。
「だから俺は何でも出来ると思ってた。実際どんなワガママも叶ったしよ」
人気のない公園の奥へと進む横島の声はどこか寂しそうに聞こえた。
これはもしかして別れ話?そう思うと向奈は初めてこのデートに、いや全てのデートの中で一番の幸せを覚えた。
横島の歩みは木々で囲まれた茂みの中で止まる。
「でもよ。どいつもこいつも人の事なんて見やしねぇ。お前もだろ、向奈?」
「え?その…」
向奈は言葉を濁す。でもそれは仕方ない事であった。
何せ向奈も横島を見ていない。最初は見ていたのかも知れないが、直視するのも嫌になる言動、行動の数々のせいで見る気もしなくなっていた。
「だからよ、ここで終わりにするわ」
「――――っ」
嬉し過ぎて笑ってしまうのを必死に堪える。まさか本当に別れを切り出してくれるなんて思っていなかった。
――そう考えた数秒前の自分を呪いたい。
ここでの選択はたった一つ。『逃げる』しか助かる道は残っていなかったのだから。