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第一話 春一番の吹く季節 まだ寒い

前作『くろきり ろっく!』もご一読頂ければ幸いです。

「おつかれー。今日は疲れたね」

 へらへら笑って部屋に向かうヒカリさんは、今日もいつも通りアルコールが入ってなんとなくいい感じになっている。実のところそんなに忙しかったわけではなかった。常連のおじさんと閉店間際までずっと飲みながら喋り倒していたのが、たぶんヒカリさんの疲労の原因なのだろう。

「お疲れ様です!」

「ああ、若いやつは元気だな……。あたし先に風呂入るね」

「了解です。あたし最後でいいですから、皆出たら教えてくださいね」

「あいよー。んじゃ後でね」

「はい」

 あたしはヒカリさんと別れて、屋根裏にある自室に入った。梯子みたいな階段で下の会と直通しているこの部屋は、ドアとかがないので少々セキュリティに問題がある気がする。

 あんまり気にしてないけど。

 とりあえずベッドに向かい、あたしはそのまま仰向けに寝転がった。

「あー……ヒマだったなぁ」

 そんなことを一人呟く。それぐらい、今日の営業はヒマだった。大丈夫だろうか、この店の経営は。

 ふと、テーブルの上にある携帯のランプがパカパカと青く点滅しているのに気がついた。手にとって、ぱかりと開く。

「ん? アオイからだ」

 着信履歴についこの間知り合った友人の名前を見つけた。着信の時刻は今からだいたい三十分ほど前。通話ボタンを押すと、呼び出し音が三回ほど鳴ってから、友達の声が答えた。

『もしもし、クロカ?』

「おーう、久しぶりだねえ、アオイ」

『そう? おとといメールしたばっかりじゃなかったっけ?』

「ほら、電話で喋るのはいつぶりかって感じじゃない」

『ああ、そうかも』

 あたしとアオイは、あの後からちょくちょく連絡を取り合っている。アオイは東京で大学生としての一人暮らしをスタートさせていた。あれからもう三ヶ月ほど経つ。お互いそれぞれの新生活に、ようやくなじんできたところだ。

「どしたの?」

『うん、ちょっとね』

 アオイの声はいくらか沈んで聞こえた。彼女の長身がなんとなく小さくなっている様子を思い浮かべ、あたしは尋ねる。

「なんかあった?」

『うん。あのさ、こないだバイト始めたっていう話したよね。メールで』

「ああ、アオイもレストランで働いてるんだっけ」

『そう。でね、今日さ、お客さんにすごい怒られちゃって』

「おおう、そうなんだ。何したの?」

『……最初は、オーダーミスで。ハンディってあるじゃない?』

「なにそれ?」

『え? あの、注文とかピッピッて押すやつ』

「……ああ、あれかー。あたし使ったことないから」

 あの、ウェイトレスさんが持っているリモコンみたいなやつのことだ。でも『ダイニングしらなみ』ではオーダーは手書きでやっているので使わないし、あたしはそもそもここでしか働いたことが無い。

『あれでね、押し忘れたのと間違えたのと……。それでまずそのお客さんに怒られてね。今日忙しかったから、その後もなんか混乱しちゃって……』

「ああ、うん。わかるよー」

 喋っているうちに、アオイの声はどんどん沈んでいく。

『……もうグダグダ。店長にもすんごい怒られたし、まだ働き始めて一週間も経ってないのになんか嫌になっちゃった』

「あー……そうだね。そういうことあるよ」

『クロカもそういうのあった?』

「うん」

 あたしは二ヶ月ほど前のことを思い出していた。まだ働き始めてすぐの頃。まあ、まだ三ヶ月くらいしか経っていないのだけど。

「最初のころはひどかったよ。あたし。ほんとね、根本的にこの仕事向いてないんじゃないかと思った」

『そうなの?』

「今日アオイがやったみたいなミスを、それこそ毎日連発してたかも。……けどさ、あたしはなんかね、全然怒られなかった」

『そうなの? いいなぁ、なんか』

「いや……。あたしさ、なんかそれが辛かったよ」

 ヒカリさんにヒロさん。それにミズキちゃん。なんだかんだで優しい人たち。

「そのときはさ。なんか、自分が嫌いになった」

 拾ってもらって、住むところも貸してもらって、仕事まで与えてもらって。だからこそ頑張らなければいけないときに、ミスをやらかしてしまう。そのときの気持ちはきっとどれだけ時間が経っても忘れられないだろう。迷惑をかけてしまう罪悪感と、自分への苛立ち。そこに後ろめたさをプラスしたような、どろりとした感情。

「迷惑かけまくってるのに、でも怒ってもらえないっていうのは、すごい辛い」

 

 ***


「ああっ!」

 あたしが声を上げるのとほぼ同時に、二つの中ジョッキが空を舞った。

 ゴツン、と思ったよりも鈍い音を立てて、床にジョッキが衝突する。慌てて拾い上げると、どうやら運よく二つとも割れるのは免れたようだ。なんてことを冷静に考えていられるほど、そのときのあたしは落ち着いていなかった。

「あ、す、すいません!」

 声を上げると、近くにいたヒカリさんがうん、と頷いてにこりと笑った。

「大丈夫? まあジョッキって意外と割れにくいから、あんま気にすんなって」

「は、はいっ」

 あたしはお盆に二つジョッキを載せて、慎重にデシャップのほうへと運んでいく。洗い場に下げた食器を全て返して、思わずため息を一つついた。

「はあ……」

 居酒屋、『ダイニングしらなみ』で働き始めてから一週間。

 どうにか仕事には慣れてきてはいるものの、まだまだ覚えるべきことはたくさんある。それまでバイトすらしなかった自分が今となっては恨めしい。もっとじゃんじゃんばりばり働いて、しっかりと独り立ちしていきたいのに、まだまだこんなミスをやらかしてしまう。働き始めて分かったことだが、根本的にあたしはドジなのかもしれない。ドジ、というのは言葉にすればなんとなく可愛げがあってほほえましいものだが、実際には迷惑と混乱をまき散らす病原菌みたいなものだ。そしてドジをやらかす当事者は、情けないやら申し訳ないやらでとても微笑んでなどはいられない。そんな極太の神経なんて持ち合わせていないあたしは、ただただため息をつく。

 昨日は皿を二枚割った。

 おとといは客にビールをぶっかけた。

 その他、オーダーの通し忘れや間違い、その他の細かいミスはもう自分でも覚えていないくらいやらかしている。

 洗い場ではミズキちゃんがせっせと洗い物に精を出していた。ここ数日、無償で手伝いをしているというこの娘の仕事ぶりを見ているが、彼女はすごいと思う。もちろん、なれているというのもあるのだろうが、行動は常にてきぱきしているし、機転も利く。なんだかあたしとは正反対だと思う。

 あたしの視線に気付いたのか、ミズキちゃんはシンクから顔を上げてこちらを振り向いた。

「どうしたの? クロカおねえちゃん」

「あ、ううん。なんでもない」

「……? なんか、元気ないよ?」

 首をかしげて覗き込んでくる、真っ直ぐな視線。あたしはとっさに両手を振る。

「そ、そんなことないよ? うん、ほら」

「……元気ないよ?」

「う……」

 なんだか、見透かされている。この純粋なキラキラした目が、心配そうな色を含んであたしの胸をぐさりと突き通した。あたしの空元気なんか、あっさりと砕け散ってしまいそうだった。

「……ううん。大丈夫」

 なんだか、辛い。

 あたしはふるふると首を振って、踵を返した。ミズキちゃんから逃げるように、足早にその場を去っていく。

 ダメだ。あたしはダメだ。

 こんなあたしは、ダメだ。

 

 仕事が終わってから、みんなでご飯を食べる。深夜一時、この時間に夕食を食べるというのも、まだ慣れない。おなかは空いているのだけど。

 食卓と称されるテーブルの一つに、あたしとヒカリさん、ヒロさんが座っている。ミズキちゃんは先に寝てしまった。まあまだ中学生だし、それは普通だろう。

 今夜のメニューは鍋だ。

「どう、クロカ。仕事慣れた?」

 えのきだけをつかみながら、ヒカリさんが言った。

「は、はい。えっと……」

 鍋に箸を突っ込みかけていたあたしの手が止まる。あたしの言葉を待つヒカリさんとあまり喋らないヒロさん。有線放送の音楽が流れるだけの店内は、とても静かだ。

「その……すいません」

「へ?」

 ヒカリさんは心底不思議そうに、首をかしげる。

「いろいろ、迷惑かけちゃって……」

 それ以上は言葉にならない。俯いたあたしには、自分の手元にあるとんすいしか見えなかった。

「なんで謝ってんの?」

 本当にわからない、という様子でヒカリさんが言う。

 この人は、いい人だ。そんなことは分かっていたけど、それを本当に実感する。

 だからこそ、辛いのだ。

「だって、今日だっていろいろミスしちゃったし……。っていうか、働き始めて一週間、毎日なにかしらミスしてるし……。なんかもう、あたし」

「あーあー。そっか。そういうの気にしてるんだ」

 うんうん、と笑いながらヒカリさんは肉を一つまみ。おいしそうに口に運んで、缶ビールを一口。もぐもぐ、ごくん。

 あたしの心境とは、まるで正反対な様子のヒカリさん。

「あのね、気にしなくていいんだって。そりゃさ、皿割っちゃえば片付ける手間とかは増えるし、オーダーミスればまた手間増えるし、ロスも増えるし」

 ぐさぐさと言葉が刺さる。痛い、痛いよ。

「けどさ、そもそも手伝ってもらってるんだから。なんつーか……減ったあたしの手間と、ミスで増えたあたしの手間と、足し算と引き算にして数えてみたら、たぶん総合的にはマイナスなんだよね。要するに――えっと、助かってるってのは本当なんだよ」

「でも……」

「あーもー。気にすんなってのー。そういうのあたし嫌いだよ」

「……すいません」

「すいません、じゃない」

 あたしはびくりとした。上目遣いにヒカリさんの顔を見る。

「……はい」

「おう、それでいいよ」

 にか、とヒカリさんは笑った。白菜をポン酢につけて一口。うまそうだ。あたしも豆腐をすくってぱくりと食べる。あったかい。

 そのとき、それまで黙って鍋をつついていたヒロさんが、ぽつりと言った。

「気にすんな」

 それきりヒロさんは喋らなかったが、なんだかその一言が胸に染みていく気がした。


 部屋に戻ったあたしは、ベッドに仰向けになってしばらくぼーっとしていた。

 片手を真っ直ぐ天井に向けて伸ばす。薄暗い照明と冷たい空気。なにもない空間を掴むように手のひらを握り込んだ。

 この手は、一体なにをしているんだろうか。

 この店にいる人は、みんないい人だ。そんな人たちに囲まれて、あたしは幸せなのだと思う。なのに、なのに。

 あたしは、自分自身を信じられない。この胸にあるのは罪悪感や焦燥感ばかりで、うまく笑うことも今はできそうになかった。

 どうしたらいいんだろうか。

 息を吐いた。それは白く、はかなく、すぐに消えてしまった。

 それを見て、ふとヒカリさんの言葉を思い出す。

『意外と皆知らないことなんだけどさ。これからどうするかなんて、自分以外に決めてくれる奴なんかいないんだよ。したいことがないなら、なんでもいいからやってみる。そうやってるうちに、本当の気持ちってのは見えてくるもんだよ』

 自分以外に、決めてくれる人はいない。

 なら、どうしたいかなんて決まっている。

 

「いらっしゃいませっ!」

 気合を入れてあたしは叫んだ。少々うるさいのかもしれないが、気にしない。

「カウンターとテーブル、どちらになさいますか?」

「え、えっと。じゃあ、テーブルで」

 なんだか気圧されたように答えるお客さんを席へ案内し、あたしはドリンクの注文を聞く。一週間毎日働いて、この辺の流れはもう慣れていた。

「生とウーロン一つずつお願いします」

 バーカウンターにチップ(席番とオーダーを記入した紙)を置いてヒカリさんに渡すと、ヒカリさんはあいよ、と答えて苦笑した。

「気合入ってんね」

「はい! 頑張りますぁ!」

 語尾をちょっとかんだ。でも気にしない。

 気にしないのだ。どうしていいかわからないけれど、心の中ではどうにかしたいと思っているからこそ、行動するしかないのだ。あたしは頭が悪いから、そうするしか思いつかないだけなのだが、もうそれでいいと開き直ることにした。

 そんなあたしを見てヒカリさんは何を思ったのか、

「ね、そんだけ気合十分ならちょっと、これやってみない?」

 と、ビールサーバーとジョッキを指差した。

「はい!」

 いつもならちょっと戸惑ったりするのだろうけれど、そのときのあたしは米粒ほどもためらわなかった。きっとその方が良いに違いない。

「よーし、これでまた楽が出来る……じゃあこっち来て、はい、これ持ってね」

 あたしはヒカリさんからキンキンに冷えたジョッキを受け取った。ものすごい冷たい。

「で、ここにジョッキの口をくっつけて、ちょい傾けるの」

「は、はい」

 あたしはヒカリさんに言われるままに、サーバーのレバーを手前に倒した。黄金色の液体が勢い良く注入されていく。

「お、おおおう」

「で、ここら辺まで注いだら、一度レバーを戻して」

「はいっ」

 七割ほどビールの入ったジョッキを真っ直ぐに戻し、そしてレバーを今度は向こう側に倒す。今度は純白のきめ細かい泡が出てきて、あっという間にビール表面を覆っていく。

 かくして一杯の生中ジョッキが完成した。

「簡単しょ?」

「そ、そうですね。思ったより」

 ヒカリさんはうんうん、と満足げに頷くと、いつのまにか注いでいた烏龍茶をお盆の上に置いた。

「じゃ、それお願いね」

「は、はい!」

 手の中の、とてもとても冷たいジョッキの感触が、あたしの胸を熱くしてくれた。

 こんなにも簡単に、あたしはとても、充実していると感じられたのだ。

 

 その日は平日だったにも関わらず、なぜか待ちが出来るほどにお客さんが入る日だった。

 平たく言えば、とても忙しい日になった。ミズキちゃんは今日からテスト期間ということで手伝いには出てきておらず、ホールはあたしとヒカリさんの二人で回さなければならない。自然、キッチンも忙しくなるため、ヒカリさんがそっちの手伝いに入ることもあり、あたしが一人でホールの仕事をする時間もあった。

 午後八時半を回ったが、まだピークは終わっていないらしい。

「いらっしゃいませっ」

 料理をテーブルに運ぶ間に、新しいお客さんが入ってきた。少々お待ちください、と声をかけて料理を運び、さっきのお客さんをカウンター席に案内する。

「お、お飲み物はどうしますか?」

「生二つ下さい」

「はいっ、少々お待ちください」

 手早くオーダーを記入し、チップをカウンターへ持っていく。

「あ……」

 そういえば、今はヒカリさんはキッチンの手伝いに行っていてここにはいない。

 生中二、と書かれたチップに一瞬視線を落とし、少し考える。

「やる……しかないよね」

 大丈夫。簡単なことだ。この程度のことでグダグダ言っていては、また迷惑をかけることになってしまう。そんなのはダメだ。絶対にダメ。

 バーカウンターに入り、冷凍庫からジョッキを二つ取り出す。一つを手にとって、さっき教えてもらったようにサーバーの口に傾斜を付けて当てる。

「簡単……簡単」

 レバーを手前に。七割注いで、今度はレバーを向こう側へ。

「できた……よし」

 一杯目は完成した。大丈夫。こんなにも簡単なことだ。あたしは一杯目をカウンターに置いて、二杯目のジョッキを手に取る。

 そのとき、それは起こった。

 調子よくジョッキにビールを注いでいると、突然ビールサーバーがぼすん、と音を立てた。

「え!?」

 サーバーの口が小さく爆発するかのように、黄色と白の飛沫をまき散らす。ビールの液体は出なくなり、かわりにガスと泡の混じったような破裂音だけが響いた。

「え、えっと……えっと」

 あとでヒカリさんに教えてもらったのだが、これは単に、ビールサーバーに繋がっている缶の中身が空になっただけのことだった。缶を交換すれば解決するだけのことだったが、そのときのあたしには思い通りにビールが出ないというだけのことで、なにかに後ろから追い立てられているような感覚を突きつけられていた。

 ヒカリさんがいない。それだけで、こんなにも焦る。

 テーブル席についているお客さんから、声が飛ぶ。

「すいませーん。レモンハイもらえる?」

「は、はい!」

 焦る。焦る。

 どうしていいかわからず、とにかくあたしはサーバーのレバーを元に戻す。慌てていたのが、あたしの視界をどうしようもなく狭くしていた。

 手元の、かつん、という硬い感触。

「あ……」

 気付いたときは遅かった。

 カウンターに置いておこうとした、あたしの持っていたジョッキが、最初に注いだジョッキに勢いよく当たり、その中身をカウンターにぶちまけてしまった。

 また、やってしまった。

「あ、ああっ! す、すいません!」

 誰に対して謝っているのかも分からないまま、あたしはどうしようもなく焦っていた。

 そこに、後ろからかけられるヒカリさんの声。

「どうしたの?」

「あ、あの……すいません!」

 一目見て全部を把握したヒカリさんは特に慌てるわけでもなく、うん、と笑って、

「じゃあ、ちょっと雑巾とってきてくれる? 倉庫の手前の棚にあるから」

「は、はい!」

 安心感と、罪悪感。駆け出そうとしてあたしは足を止める。

「あの、ヒカリさん」

「うん?」

「カウンターのお二人に生中二と、テーブル二番にレモンハイひとつ、お願いします……」

 申し訳ない気持ちを抑えて、でも伝えておかなければならないことを伝えて、あたしはホールを後にする。

 ヒカリさんがどういう顔をしていたのかは、見られなかった。


 倉庫に入ったあたしは、その冷えた空気と店内の喧騒から離れた空間のおかげでいくらかの落ち着きを取り戻した。

「……」

 落ち着いて、現状を思い出す。

 また、やってしまった。その一つの事実が、どうしようもなくのしかかる。

 起きてしまったことは気にしても仕方がない。そんなことはわかっている。

 わかっているのに、

「……なんでこうなっちゃうのかな」

 ぽつりと呟く。

 どうにかならないなら、どうにかするしかない。

 なのに、どうにもならい。本当にそうなら、どうすればいい?

 どうすればいい?


 翌日、『ダイニングしらなみ』は定休日。

 あたしは自分の部屋にいた。午前十時。特に予定も無い。

 なんだか、なにもする気になれなかった。

「疲れたぁ……」

 だれもいない空間に向かって呟く。

 昨日のミスがあったせいで、気分はどこまでも陰鬱だった。たかがビールをこぼしたという程度のこと。言ってしまえばそれだけ、でも気にしないではいられない。なにしろそんなことを、ここしばらくずっと繰り返している。

 向いていない。きっと、そそっかしい自分には向いていないのだろう。この仕事は。

「はあ……」

 今日、目覚めてから何度目かのため息をつく。

「おーい」

 と、下のほうから声がした。あたしはがばっと身を起こし、慌てて答えた。

「は、はーい!」

 ひょこ、と階下から顔を出したヒカリさんは、そのままおじゃまするよーとツカツカ部屋の中に入ってきた。なんかもうこの部屋、プライバシーも何もあったもんじゃない。

「どうしたんですか? ……なんですかそれ?」

 あたしはヒカリさんの手にある、黒くて丸っこいものを指差して尋ねた。

「これ? 見りゃわかるっしょ、メットよ」

 そこにあるのは二つのフルフェイスメットだった。どういうことだろう。それを尋ねる前に、ヒカリさんはにかっとわらってその二つを持ち上げて見せた。

「ね、ヒマなんしょ? ちょっとツーリング行かない?」


 非常にヒマだったことと、なんだか断るに断れない雰囲気だったので、あたしは意図も簡単に流されてヒカリさんについていくことになった。

 別に嫌だったわけではないのだけど。

「寒い……」

「大丈夫、そんぐらい厚着してればそのうち慣れるって」

「はあ……」

 ヒカリさんのバイクは、店の裏手に止めてある。そちら側はあたし達の生活空間というか、普通の家の玄関とベランダがあって、そこにヒロさんの車も止まっていた。

「さ、でかけんぞー」

 女性が乗るには少々大きなそのバイクにまたがって、ヒカリさんはエンジンをかける。どるるん、と低い音がして、その鉄の馬は凶暴な息を吐き出した。

 ツーリング。

 週に一度の休日、ヒカリさんはよくどこかへ走りに行くのだと言う。

「いそげー」

「は、はいっ」

 あたしは慌ててヒカリさんの後ろにまたがった。バイクに乗るのは始めてだ。だからバイクのことはよく知らないのだが、たぶんこれはハーレーとかなんとか言われるアレなのだろう。車高の低い、ふてぶてしいその姿。革ジャンを着た、いかつい兄ちゃんが乗っているイメージしかなかったが、こうしてみるとヒカリさんのその姿もなかなか様になっている。一言で言えばかっこいい。

「どこ行くんですか?」

「知らなーい。適当」

「ええ?」

 面食らうあたしには目もくれず、そのバイクはエンジン音をどるるんと吐き出して待ちへと走り出した。あたしは思わず身を硬くする。

 バイクは駅前の細い道を通り抜け、二車線の広い道に出た。流れに乗って一気に加速する。身を切るような冷たい風が、あたしたち二人の全身を包み込んだ。

 厚手のジャケットの上にもこもこのダウンジャケットを重ね着した、完全防寒のスタイルをしているあたしだが、それでも寒い。非常に寒い。ヒカリさんは大丈夫なのだろうか。

 そこからどう走ったのかは、よく覚えていない。三十分ほど走って、高速道路の下のトンネルを潜り抜けた。

 たどり着いたのは、広い原っぱに小屋がいくつか建っているような、そんな場所。

「ここは……?」

「牧場」

「ええ?」

 よく観察してみれば、広がっている丘の向こうには木製の柵と、その向こうにはぱかぱかと歩き回る馬の姿がある。かと思えば牛のいる小屋があり、休憩所のようなところには『しぼりたての牛乳』という文字の書かれたのぼりが踊っている。

 なんで牧場なんかに来たのだろうか?

 駐車場の隅にバイクを止める。冷たい風を浴び続けたせいで、身体が冷え切っていた。

「大丈夫?」

「は、はい。なんとか」

「そっか。ま、晴れてるしすぐあったまるよ」

「はい……っていうか、なんで牧場に?」

 あたしが疑問を口にすると、ヒカリさんはやっぱりなんでもないように答える。

「いや、なんとなくね」

「はあ」

 要は、理由なんかないらしい。

「ほれ、いくぞっ!」

「あ、はい……」

 ヒカリさんに連れられて、あたしはとぼとぼと牧場に足を踏み入れる。


「わっ、わっ」

「大丈夫ですから、あまり動かないようにしてくださいね」

 牧場の人に言われて、あたしはぴたりと動きを止める。

 馬の上で、かちこちに固まっているあたしを、柵の向こうからヒカリさんが笑いながら眺めていた。

「あはは! 落っこちんなよー、クロカ」

「そ、そんなこと言ったってっ」

 揺れる。揺れる。おい、あんまり急がなくたっていいよ、馬。あたしがまたがっているそいつは力強い。そして強引である。ちょっと、落ち着いてもいいよ。

 馬はあまり広いとは言えない柵の中を、ぱかぱかと歩き回る。そんな馬の背で、あたしはただただ硬直するばかりだった。

「お、お、下ろしてっ! 下ろしてください!」

「大丈夫ですから! あ、暴れないで!」

 とうとう緊張に耐え切れなくなったあたしを、やっぱり遠くからヒカリさんが笑っている。助けて! ヘルプミ!


 馬に乗ったり牛の乳を搾ったり。土臭い、けれどなんだか懐かしい空気の中であたしとヒカリさんはそんなことをして遊んだ。牧場に来るのも初めてだったが、なかなかに面白かった。イメージの中の牧場はただ単に牛を飼っているだけの場所だったのだが、そこはいろいろとアトラクションが用意されていて、テーマパークのようだった。

「ほれ、ソフトクリーム」

「あ、はい。ありがとうございます」

 休憩所、ベンチに腰掛けてあたし達二人はソフトクリームを食べる。気温はわりと高めで、歩き回っていたからさほど寒いというほどではなくなっていた。

 絞りたて牛乳を使ったソフトクリームは、濃厚でとても美味しい。

「うまいねー」

「……そうですね」

 落ち込んでいたあたしのテンションは、ヒカリさんとこの牧場のおかげでいくらか明るさを取り戻せていた。馬にはちょっと疲れたけれど。

 そうしてベンチに座っていると、あたしの心は落ち着いていく。

 落ち着いて、朝まで考えていたことを思い出す。

「……あの」

「うん?」

 コーンをぱくりとかじったヒカリさんが、大きな目をあたしに向けた。

「あの、なんか、元気付けてもらっっちゃったみたいで」

「……そういうつもりじゃなかったんだけどなぁ。ま、元気出たならそれでいいよ」

 うんうん、と頷いて、ヒカリさんはソフトクリームを完食した。

 ……いい人だ。天然で、いい人なのだ。

 そうして思い出すのは、昨日まで胸を締め付けていた疑問と感情。

「……なんで、そんなにしてくれるんですか?」

 とうとう、あたしはその疑問を、答えのわかっているその疑問を、口にした。

「え?」

「あたしなんかのために。……拾ってもらって、仕事までくれて、でもちゃんとできない。もう一週間になるのに、ろくに仕事できないのに。なんで、なんでですか?」

「んー……」

 ヒカリさんは透けるような青空を仰いで、首をかしげる。それから腕を組んで、困ったように言葉を継いだ。

「なんつーか……あんたの気持ちさ、分かるんだけどさ。もし、あたしがあんたの立場で、あんたみたいなことになったらきっと苦しい思いするんだろう、ってこともなんとなく想像つくし」

「……どうして、怒ったりしないんですか?」

「怒られたいの?」

「怒ってもらえたら、あたしだって……そっちのほうが、いい」

 あたしの手の中で、溶けたソフトクリームがぽたりと手の甲に落ちた。

「怒ってもらえれば、負けるもんかって……思えたり……違う……なんか、あの」

 もう、何を言っているのかわからなくなってきた。あたしは何を言いたいのだろう。どうなればいいのだろう。

 そのとき、あたしの頭に、ぽん、と手が置かれた。

「……あのね、クロカ」

「……」

「あたしにとって、仕事っていうのは『しなきゃいけないこと』じゃないんだよ。わかる?」

「……どういうことですか?」

「仕事って、つまりあたしの『したいこと』なの。遊びとは違うけど、義務とも違う。あんたやヒロや、ミズキと一緒にやるのが楽しいことなの。だからさ、あたしに誰かを怒る権利なんかないわけ。あんたなんか特に」

「……?」

 わからない、とヒカリさんの顔を見つめるあたしに、ヒカリさんは笑う。いつもの笑顔で、にかりと笑う。

「しちゃいけないことしたら、そりゃあたしだって叱るけど、そうじゃないっしょ? あんたは確かにドジで、ジタバタしてるかもしれないけど。でも頑張ってる。っていうか、頑張ろうとしてる。あたしのしたいことを、頑張って助けようとしてくれる」

 これは甘い考えなのかもしれないけど、とヒカリさんは呟いた。

「それでいいじゃんって思うんだよ。あ、そっか」

 何かを思いついたように、ヒカリさんは顔を上げた。

「あんたも、仕事を『しなきゃいけないこと』だって思わなきゃいいんだ。だったら――試しに、やりたいようにやってみてよ、仕事。それが店にとってやっちゃいけないことだったら、あたしは怒る。手際よくやりたいなら、あたしに聞けばいい。それでいいじゃん」

「ヒカリさん……」

「そうしよ。そうだ。うん。……もう、こういう真面目な話、嫌いだ」

 休みなんだし、と言ってヒカリさんは立ち上がった。

「今日はそんなこと忘れてしまえ! さ、行くぞ!」

「あ、ま、待ってください」

 あわててあたしも立ち上がる。手にしたソフトクリームはどろどろに溶けていた。やばい、このままじゃベタベタになる。急いでぱくりと一気に口に入れると、抜けるような冷たさがしみこんできた。

「んーっ!」

 そんなあたしを見て、ヒカリさんは笑っていた。

 

 考え方は、そうそう簡単に変えられるものじゃないけれど。

 少なくとも、ヒカリさんにとってはそうじゃない。

 あたしはそのとき、思ったのだ。

 後ろから追い立てられるような気持ちを振り払って、前を向いてみよう。そんな風に。


 ***

 

「まあ、だいたいそんなことがあって。あたしってほんと恵まれてるって思うよ」

『いいなぁ。クロカは。私なんかすぐ怒られるのに……。でも、いいかも』

「うん?」

『しなきゃいけないことじゃない――それって、ちょっと聞いてみるとあんまりいい考え方じゃないかもしれないけど……でも、そんな風に考えてたら、仕事が楽しくなりそう』

「……おうよ。間違いないよ」

 あたしは受話器を持つのと逆の手を、天井に向けて伸ばした。

「このあたしが証人だよ」

『……ありがと』

「おう」

 にかりと笑って、あたしは答える。

 あたしもアオイも、まだまだこれからだけど。

 まだまだこれからだからこそ、なんだって出来るのだ。



くろきり ろっく!の続編のリクエストを下さった飴玉さん、この場を借りてお礼を! 本当にありがとうございました。

前作に盛り込もうとしていたアイデアの一つだったものですが、こうして文章化することができました。

力を頂きました。完全に私信ですが、ありがとうございます!

 他にも少しだけ、未完成のストーリーがあります。よろしければ、続きにもお付き合いください。

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