歪みに歪んだ真剣勝負
現代日本では、決闘はご法度とされている。
果たし状を送り付けてしまっただけでも法に触れてしまうし、応じただけでも法に触れてしまう。まして、刀などを持っていった日には罪が重くなってしまうだろうし、相手を殺害してしまった日には果てしなく罪が重くなってしまうだろう。
だが、「知ったことか」と佐々木仏然は思う。
先祖から代々受け継がれてきた二刀流のこの技を、思う存分に発揮できる相手がいるのだから。
その相手とは、『現代の剣豪』としてテレビに出たりもするような有名人――宮毛大黒牌である。名前からしてうさんくいとは視聴者の誰もが思っていたはずだろうし、「こいつの小学生の頃のあだ名は絶対にパイ毛だ」、などということも思っていたかもしれない。だが、彼の抜刀術を見た瞬間には、そんな些細なことは忘れてしまったに違いない。佐々木仏然が見たその番組では、剣豪は飛んでいるハエを空中で斬り落としてみせたのだ。どうやら本人によるとほぼ十割は命中させられるらしい。先読みの勘が非常に優れているのだろう。
それだけ分かれば充分だった。
佐々木仏然は新聞紙をくるくると巻いて棒状にし、それを二本作りあげた。そして二刀流のように棒を握りしめたまま台所へと行き、ぷんぷんと飛びまわっているハエを二匹、左右の棒で同時にたたき落としてみた。そんな自分の腕前を確認してから――、佐々木仏然は、宮毛大黒牌に果たし状を送ることにしたのだった。
とはいえ、剣豪の住所などは分からないし電話番号も分からない。
だから佐々木仏然はやけくそになってインターネットで『宮毛大黒牌』と検索してみたのだが、なんと、本人のブログを発見してしまったのである。なにやら完全に趣味のホームページであるようで、料理の写真やら、息子らしき人物がピースサインをしているような写真やらが投稿されていた。一年ほど前からピタリと更新はとだえているようだったが、その最新の日記、『息子にカレーライスまずいって言われちゃった☆』というタイトルの日記のコメント欄に、本人にしか閲覧できないようなキーをかけ、なんともシュールなことに『果たし状』としてのコメントを書き込んだのだった。もちろん佐々木仏然は、自分のスマートフォンのアドレスも一緒に書き込んだ。
ブログ更新は一年前に途絶えてしまっているのだから、もしかすると返信もないかもしれない――、と考えていたのは杞憂だった。およそ三時間後に、佐々木仏然のスマートフォンにメールが届いたのである。
そこに書かれていた文章は、
「コメントは拝見した。貴様の熱い気持ちはよく伝わった。だが、『決闘しる』とはどういうことなのだろうか。『決闘しろ』と言っているのか?」
ちょっとした誤字でめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしてしまったのだが……、
とにかく何通かのメールのやりとりの末、宮毛大黒牌は決闘に応じたのである。
二人が対峙しているのは、岩礁島、と呼ばれている直径十キロメートルほどの小さな島の、波打ち際である。
住民は五〇〇人程度という噂だった。
決闘をするには向いている場所なのだろう。
その岩礁島の、人の気配なんかどこにもないような海岸線――、まるで車のようにデカイ岩がゴロゴロと転がっている波打ち際で、佐々木仏然は二つの刀を握りしめていた。もちろん真剣である。巻き藁だって真っ二つに出来るし、人間だって真っ二つに出来るし、スイカだってまな板ごと真っ二つにすることだってできる。
宮毛大黒牌も、立派な刀を持っていた。
七月の潮風がごうごうと吹きつけてくる。波がどかんと岩にぶつかって激しい音を立てている。小さな船の残骸がガリガリと岩を削る音がするし、カラスのカァーカァ―と鳴く声はどことなく不吉な感じもする。最高のシチエ―ションだ、と佐々木仏然は思った。決闘とはこうあるべきなのだ。『ぎゅうにゅう~ぎゅうにゅうの配達でございまあす』というスピーカーで拡張した声がどこからか聞こえてくるのだが……、聞こえなかったことにする。
とにかくシチエ―ションとしては悪くないのだ。
太陽なんかはもうすでに沈みかけていて、やがて太陽は海の向こう側へと消えてなくなってしまうだろう。みるみると暗くなっていくこの海辺では夕焼けが始まっているのだが、そのオレンジ色に輝く海は、キラキラと輝いてとても美しい。生涯で最後に見るかもしれない景色としては悪くないように思われた。どちらが死ぬのかは分からないが、とにかくどちらかは絶対に死ぬのだから、見納めにするにはこの上ない景色だった。『一本ならひゃくごじゅうえん。二本でにひゃくえんの、お買い得なぎゅうにゅうはいかがですか~』やかましい。
空気を読め、と佐々木仏然は言ってやりたい。
こちとら二本で二〇〇万円の小太刀を構えて、生きるか死ぬかの崖っぷちにいるのだというのに。
佐々木仏然は、耳をシャットアウトすることにした。
気を取り直して正面に目を向ける。
すると、一匹の黒猫が、二人の間を通り過ぎていったことに気がついた。
ふふっ、と仏然は内心笑ってしまった。神様もなかなか乙なことをすると思った。
どこかの国では、黒猫は幸せの象徴だと言われている。だがそんなことは知ったことではない。ここはあくまでも日本である。日本であるからには黒猫は不吉とされているし、その不吉な象徴が二人の間を通り抜けていくのも――、妙に面白いと佐々木仏然は思ったのである。しかし、「にゃーん」と一声あげた黒猫は、なぜか佐々木仏然の足に寄ってきて、すりすりと頬ずりをはじめてしまった。にゃーん、にゃーん、とやたら人懐こい猫であり、佐々木仏然は「しっ、しっ、どっかいけ」と足で遠ざけようとするのだが、一向に離れて行く気配がない。佐々木仏然もさすがに、イラっ、としはじめたあたりで、
突然「ぶううぅっ」とまるで豚が鳴いたような音がした。
それは五メートルほど離れたところで対峙している宮毛大黒牌の大オナラだった。しばらく猫は、ぽかーん、と呆けていたのだが、やがてすたこらとどこかへと去って行った。
いきなり、
「ぬしは何のためにワシと決闘をするのだ」
宮毛大黒牌が話しかけてきた。
「……なんだ。今さら」
一言でいうと、だらしない男である。
だらしない髪の毛はぼさぼさで手入れなんかしていないし、太い眉毛で、アゴなんかは男らしく四角形であり無精ひげなどはよく似合っているのだが、とにかく全体的にだらしないのだ。歳はおよそ五〇代。剣豪・宮毛大黒牌である。テレビで見た時よりも一層だらしない格好なのだが、そのごつごつとした太い腕を見るからに、剣の腕は間違いないだろう。
そして眼光。
それが何よりもすごい。
まばたきもせず真っすぐにこちらを見ているのだ。
佐々木仏然は、もう目が離せなかった。
「……決まっている。覚えた技を存分に発揮したいのだ。いちいち訊くまでもないことだ。誰だってそうだろう。画家が絵を描くのと同じであり、寿司屋が寿司を握るのと同じであることだ。テレビでは格闘技などもよくやっているだろうが、その格闘家たちだって、ただやみくもに身体を鍛えてきたわけではあるまい。サンドバックを叩いたり走ったりして身体を鍛えているのも、誰かと戦って勝つためだ。そして身体を鍛えてしまったからには、誰かと戦いたくなるというものだ。俺だって同じだ」
「そうか。貴様には相手がいなかった。そういうことだな」
「その通りだ」
「だが俺が不思議なのは、貴様がどうしてそんなにたかが勝負ごとにこだわるのかということだ」
「俺は人生のほとんどを剣に費やした。だから俺には、これしかない。これしかない俺が勝負にこだわることは自明である」
「未熟者め」
「……何?」
宮毛大黒牌はいきなり何かを訴えはじめた。
「この娯楽があふれている飽食の時代に、なにをそんなに生き急いでいる。なにもこの現代、やることは刀だけではあるまい。――そうだ。良いことを思いついたぞ。実は俺は、剣のほかにも、料理が好きなのだがな」
その情報は知っている。あれだけブログに料理の写真を乗せまくっているのだから、ホームページを覗いたことのある人間ならば、『実は』などと言われなくても知っている事実であろう。ちなみに息子が大好きだということもよく分かっている。
「貴様もやってみるがよい。俺は道場を一つ持っているのだが、食堂も一つ持っている。俺が教えてやってもいい。なんなら、研究を重ね続けたすえにようやく完成しつつある五目の書をゆずってやってもよいだろう」
「……血迷ったか。宮毛大黒牌。いいか、俺の人生には剣しかなかったんだ。二本の刀を振るという、ただそれだけのためにありとあらゆるものを捨て去ってきた人生だった。たしかに俺は視野が狭いだろう。一本道のような人生をただまっすぐに歩いているだけだったのだから。――だが、そんな人生の一本道を歩いていた俺は、宮毛大黒牌という人物を知ってしまった。そして今、俺の目の前に、剣豪・宮毛大黒牌が果たし状に応じてこの岩礁島にやってきたのだ。……もうやることは一つであろう」
「それはもっともだ」
「語ることはなにも無い」
「そうだな。ならば――、刮目するといい」
いきなりだった。
宮毛大黒牌は構えを変えた。
地から、天に。
宮毛大黒牌の刀は、まるで天をつくかのようにまっすぐ上に向けられたのだ。
だがそれははっきり言って、いい加減だった。
ただ単に上を向いただけであって、殺気のようなものはもちろん皆無である。そんなことが分かってしまうのも、佐々木仏然だって先読みの勘が備わっているためであった。構えが変わったからといって、宮毛大黒牌から殺気のようなものが一向に伝わってこないことがよく分かってしまうのだ。
「……貴様、ふざけているのか?」
「天の構えなり」
思わず佐々木仏然は、眉根を寄せてしまう。
それは確かに天の構えではある。だが、やる気は見られない。
ふざけている――、と佐々木仏然は思う。「実はこいつ最初からやるき気がないんじゃないのか?」とさえ思ってしまう。
この男、宮毛大黒牌からは、最初からどうにもやる気が見られないのだ。この日の朝だって宮毛大黒牌は、佐々木仏然のスマートフォンに「悪い、すこし遅れる」とメールをよこしてきたかと思ったら、まさかの五時間遅刻をしてようやく現れた。「なぜそんなにも遅れたのだ」と訊いてみたら、「うむ。料理の本を執筆しておってな、それは実は、」などと心底どうでもいい説明を始めてしまったのである。その説明によると……、いや、佐々木仏然はあまりにも下らなすぎて興が冷めてしまうだろうと思い直して考えるのをやめた。おいしいカレーの作り方なんて今はどうでもいいのだ。
佐々木仏然は、イライラとした口調で、
「今度は何を言いはじめるかと思えば……、それが構えなのか?」
「天の構えだと言っておる」
「……やる気がないならそれでいい。だが俺は容赦はしない。早くやる気を出さないと本当に死ぬぞ。愛する息子にも二度と会えなくなるだろう」
「俺は本気だ」
「……」
ならばそれでいいだろう。
この男の本気を、見せてもらおうではないか。
佐々木仏然は、二つの刀を強く握りしめて左右に構えたのだった。
対峙してから、二時間が経過していた。
太陽はとっくに沈み、わずかな明るみだけが西の海を群青色にそめていた。
二人の構えはまったく変わらないままだった。
佐々木仏然の顔面には、冷汗がある。だらだらと脂汗をかきはじめてしまっている。うっかりと汗が目に入ってしまわないかどうかは少し不安だった。
対する宮毛大黒牌は、余裕の表情である。二時間前からなにも変わらない。相変わらずその刀は、天をつくように真っすぐと上を向いたままであり、相変わらずその顔は、何を考えているのか分からないような無表情のままである。
視線は交わったまま。
だがそれは当たり前だ。勝負の最中に視線を外すなどというバカげたことはするつもりはない。佐々木仏然はしっかりと視線をぶつけ合っていた。
視線をぶつけ合ったままの二時間。
なかなか耐え難い時間だった。
薄暗い波打ち際には、ただひたすらにどーんという波の砕ける音が響くだけであり、びゅうびゅうという七月の潮風が吹きつけてくるばかりである。佐々木仏然の着物の内側には、潮風がすーっと指を差し込むように入り込んでくる。冷汗によってみるみると冷えていた身体は、さらにその温度を下げていく。
ふと思う。
「……宮毛大黒牌。……その、なんというか、寒くないか」
「笑止」
宮毛大黒牌は、表情もかえずに高らかに宣言する。
「佐々木仏然。破れたり。戦いのさなかにそんなつまらないことを気にかける時点で、貴様は負けておるのだ」
それはそうなのかもしれない。
戦いの最中に冷汗をかいている時点でなんとなく負けてしまっている気分にはなるし、汗が目に入るのかどうかなどという小さなことで不安になってしまうのも、やっぱり自分が小心者だからに違いない。さらには、「寒い」などとどうでもいいことを気にかけてしまうのも、もしかすると闘志が萎えかけている証拠なのかもしれなかった。
しかし、それでも訊かない訳にはいかなかった。
佐々木仏然は、食い下がるようにして、
「……いや、だって、俺だって寒いからには、宮毛だって寒いだろうなと思って」
「寒くなどはない」
「……えっと、全裸じゃないか」
「それが何だと言うのだ」
「……それが問題だと思うんだけど」
宮毛大黒牌は、全裸だった。
最初から全裸だった。
小さなモーターボートで、ぼぼぼぼっ、とやってきたその時から大黒牌は全裸だった。もちろん武器らしきものはなにも持っていなかった。股間にぶら下げている『立派な刀』なんかも丸見えだった。
だから佐々木仏然は、困っていた。
――「はじめてお目にかかる。俺が宮毛大黒牌である」、と自己紹介をされたときから、佐々木仏然は非常に困っていた。うっかり気を抜いてしまうと「ちらっ」とそれを見てしまうのだ。わざと視線を逸らしても無駄だった。その逸らした視線の先へと、宮毛大黒牌は水平移動してやってくるのだ。まるで自慢のモノを見せつけてくるようで腹立たしかった。だから佐々木仏然は何も考えないことにして、不自然なほどに視線を合わせて「モノ」を見ないように心がけていた。
だが、よりにもよって「天の構え」である。
モノは見ずとも気配で分かる。分かりたくもないのだがとにかく分かってしまう。――屹立しているのだ。いったい何を思えば、こんな戦いのさなかに「立派な刀」を「天」に向けることが出来るのだろうか。いったい何を思い続ければ、その刀が天についたままの姿勢で二時間もそうしていられるのか。屹立している。ずっと屹立しているのだ。それがまことに恐ろしくて、佐々木仏然は冷汗をかいていたのだった。
「もう一度だけ言うぞ宮毛大黒牌。やる気をだせ」
「見れば分かるだろう! 俺はやる気だ!」
「……いや、だから、ある意味やる気なのは分かるのだが」
「俺はやる気だ!」
「……」
俺、へんな文章を送り付けてはいないよなぁ? と佐々木仏然は今になって疑問になる。だが、そんな事実は皆無なはずだった。たしかに「俺と決闘しる」という誤字は一つだけあったのだが、他はまともな文章だったはずだ。
すると、まともではないのは、この宮毛大黒牌ということになる。
「……俺は、貴様が全裸だろうと、手ぶらだろうと、容赦なく斬りつける。それでもいいのか」
「やってみるがよい。俺も容赦はしない。貴様が向かってくるのならば遅疑なくお前に刀をつきたててみせよう。もちろん下ネタではないぞ」
「……いやあの」
このタイミングで自ら『下ネタ』などという単語を放ってくる時点で、宮毛大黒牌がわざと全裸になっていることはよく分かった。佐々木仏然はこっそりとため息をついてから、そして――、容赦はしないと決めた。
「……むっ?」
と宮毛がなにかに気がついた。
さすがに先読みの勘が優れているだけのことはある。今度こそ空気が変わったことに気がついたようである。
佐々木仏然は、わずかに動いた。
じり、とすり足、
重心を低く、
二本の刀を握りしめる手には、さらに力をこめる。
びゅう、と強い潮風が二人の間をすり抜けて行った。次いでは、どどん、と力強い波が岩にぶち当たった音がした。小さな船の残骸が、めきめきっ、と致命的なダメージを受けたような音がした。
牛乳配達の音などは聞こえてこない。間の抜けた猫の姿もどこにもいない。勝負の立会人なんてもちろんどこにもいやしないし、勝負をとめられるような人間だってどこにもいなかった。――いや、実際のところはもしかしたらいたのかもしれないが、佐々木仏然には分からなくなっていた。極限にまで集中させられた神経は、宮毛大黒牌の一挙一動を見逃さんとばかりに前方へと向いていた。
飛びかかろうとした。
佐々木仏然は、今度こそ本気で飛びかかろうとした。
しかし、さすがは剣豪・宮毛大黒牌だった。
一瞬ばかりのわずかな機先を取られ、
「おまわりさああああああああああああああああああああんっ」
宮毛大黒牌は叫んでいた。
あらんかぎりの力を振り絞って全力で叫んでいた。大気がビリビリと震えるほどの大声は、きっと半径三百メートル以内に存在している魚を、びくっ、と驚かせたに違いないほどの大声だった。
「えっ、うそ、ちょっとまって、宮――」
「おまわりさああああああああああああああああああああんっ」
「だから待っくれって、今おまわりさんなんか来てしまったら貴様も、」
「あっ! おまわりさん、ここですここ! 早く早く!」
本当に来てしまったようである。
もちろん現代では決闘なんかをしてしまったら鉄格子つきのワンルームに入れられてしまう。全裸でもワンルーム行きなのは間違いないが、刃渡り五〇センチの真剣をしかも二本も構えている佐々木仏然のほうが、どちらかといえば分が悪いだろう。だから佐々木仏然は、「やべっ」と思いながら後ろをふり返ってしまった。
それが勝敗を決した。
左のほほがじんじんと痛む。
ということは、宮毛大黒牌の決まり手は、右フックか、それとも右ハイキックか。まさか本当に股間の刀でぶっ叩かれたなどとは思いたくはない――、佐々木仏然が意識をとりもどした場所は、どこかの診療所のような一室のベットだった。
なんとなく不衛生な感じのする部屋だった。白いはずのカーテンは黄ばんでいてろくに手入れもされていないようで、ベットの骨組みなんかも錆びて赤くそまっている。ベットのシーツだけはまっ白であるために安心感を覚えるのだが――、いや、「なにが安心なものか!」と佐々木仏然は自己嫌悪に陥った。
「……不覚」
佐々木仏然は、ぼんやりと蛍光灯のついた天井を見上げながら、はぁ、と深いため息をついてしまった。
まさか全裸の男に「おまわりさーん」などと叫ばれる日がこようとは。……叫びたかったのはこっちだという話だ。……いやそうじゃない。そうではなくて、戦いの最中に目をそらしてしまったことが自分でも信じられないのだ。それは剣士としてはありえない行為だったろうし、たとえ街中の喧嘩でもありえない行為だっただろう。
「貴様は戦いには向いていなかったのだ」
声がした。
はっ、として目を向ける。すぐ隣では、大男がベットの隣にイスを置いて座っていた。
「……宮毛大黒牌」
彼はもう全裸ではなかった。
どうやらモーターボートの中には着替えくらい用意してあったのだろう。ぼろぼろの着物姿だった。
「なぜ俺を生かした。俺は貴様を殺そうとしたのに」
「殺す理由などない。貴様はいったいどこに時代からやってきたというのだ。ここは現代だ。そして先ほどの勝負はもう決していた。とどめを刺すなどという下らんことをしたら俺が犯罪者になってしまうだろう」
素っ裸な時点で犯罪者なのでは? とその言葉はぐっと堪えた。
「――ところで話は変わるが」
「……なんだ」
佐々木仏然は、ぷるぷると震える腕で上半身を起こした。
「俺が、料理でもやってみないか、と問いかけたあれについてだ。――どうだ、真剣にやってみないか」
「……世迷言を。もう俺にはなにもない」
「貴様、本気で自分には剣しかない、などと信じ込んでいるのか」
「信じるもなにも、それしかない」
「だから視野が狭いと言っておるのだ。つまらない意地をはっていないで世界を見渡してみろ。俺のように全裸にでもなれば下らないことも忘れる」
「……」
この男はなにか嫌なことがあったのだろうか? とふと思う。
宮毛大黒牌は、かまわずに続ける。
「貴様、歳はいくつだ」
「答える義理はない」と言ってしまってから、思い直した。少なくとも自分のことをこんな場所へと連れてきてくれたのだから、その礼および筋くらいは見せるべきなのだと自戒して、「……十八だ。高校は卒業した」
「なぜそんな武士道みたいなことにこだわる」
「……俺の家は」
とつとつと語った。
武士の家系であり、先祖から二刀流の技を一子相伝で語り継いでいたような家であり、佐々木仏然は子どもの頃から剣の腕を磨くことだけを強要されてきた。「鉛筆を握るくらいならば剣を握れ」ということ父親からさんざん言われてきた。母親はそんな教育方針や家のしきたりみたいなものに心底嫌気がさしてしまったようで、なにもかもを捨てて家を出て行った。それが一年前のことであり、半年前には父親も死んでしまった。
今の佐々木仏然は、アパートで独り暮らしをしている身の上で、金だけは三年ほど食っていける程度はあるのだが、友人はいない。先祖から代々守り抜いてきたあの家も、だれかが相続することもなく幻のように消えていった。――いや、実際のところ相続する人間はいたようなのだが、それは佐々木仏然の知る人間ではなかった。
佐々木仏然は見捨てられたのだ。
見捨てられたと気がついてしまったからこそ、家にある骨董品や刀をごっそり『盗み』出し、すべてを売って金にしてしまった。
「つまりあれか、やけくそか」
「……」
佐々木仏然は、反論できなかった。
どうにもならないような沈黙が五分ほど流れ、そして、
「貴様は、大学に行ったり、もしくはどこかで働いていたりはするのか?」
「……いや。どちらも」
「そうか。ならば貴様、俺の道場にでも住みこむか?」
「……は?」
「人生は剣ばかりではない。俺がそれを教えてやろうと言っているのだ。弟子たちに混じって稽古をしてもいいし、俺と料理の腕比べをしてもいいし、鉛筆を握って大学に行ってもいいし、働きたいというのならば、その働き口を一緒に探してやろう。――いや、もっといいことを思いついたぞ。俺の養子になるか?」
「……」
佐々木仏然は、今度こそ言葉を失った。
冗談としか思えないようなことを言っているのだが、男の顔つきは真剣そのものだった。この男がそこまでのことをするほどの義理はあるわけもない。少なくとも宮毛大黒牌は、一人の息子を養っている身分であるはずだ。そんなすっとん狂なことをやる理由がない。
「剣士としてのプライドも、剣士としての腕前も、すべてを一旦捨ててしまえ。俺と同じように全裸になれ。全裸になりたくないと言うのなら、俺がむりやりでも服をひっぺがえしてやる」
「……なにを」
何を言い出すかと思えば、全裸になれと。
そんなに全裸になることに意味はあるのだろうか? と思うのと同時に、佐々木仏然はなんとなく身の危険を感じてしまったために自分の服の襟を握りしめてしまう。不審な目つきを向けていると、
「……俺もな、一年前、息子に先立たれたんだよ」
「……」
宮毛大黒牌は、いきなりのカミングアウトをした。
「九歳で病死だった。――若くて新陳代謝が活発である時期だからこそ進行をとめるのが難しい、と言われているアレだった。どうにもならなかった。妻は気を狂わせてしまって精神病になってしまったし、食堂だって道場だってまともに続けられなくなってしまった。今の俺の関心は、息子の写真を眺めることと、その息子にまずいと言われてしまったカレーライスはいかにすれば美味しく作り上げられるのか。そんなことくらいだ」
重々しい沈黙が流れた。
佐々木仏然は頭を巡らせた。彼がブログを停止したのはちょうど一年前だった。――なるほど、と思う。
宮毛大黒牌は、その話の内容が、佐々木仏然の頭によく浸透するのを待ってから、
「苦労をして積みあげて来たものだって簡単に崩れてしまうのだということを知った。守りたいものだって簡単に無くなってしまうのだということを知った。――だから俺はいったん全裸になろうと誓った。やってみたら最高に気持ちよかった」
「……」
「最高に気持ちよかったんだ」
三秒間。
佐々木仏然は沈黙したのち、ふふ、と笑ってしまった。
「なにも、文字通りに全裸にならなくとも……」
「おまわりさんに追いかけられた回数なんて数えていたらきりがない。ちなにみ全力で逃げているときも気持ちよかったな。もちろん全部撒いてやったがな。――ただ問題なのは、俺がテレビに出るほどの有名人だということだ。おまわりさんが家にやってきた回数だって数えてみれば五回だ。俺はビシッと服を着てしらばっくれているんだが、多分バレバレだろうな。なんたっておまわりさんに追いかけられて自分の家に逃げ込んだことだってあるんだから。――そうだ。こんな日々を送っているうちに身についてしまった特技をこっそり教えてやろう。俺がビシッと服を着るために必要な時間はわずか十秒だ。全裸になる時間は三秒だ」
今度こそ佐々木仏然は笑ってしまった。
あははっ、
「――なんだ貴様。名前のとおりずっと仏頂面だったが、普通に笑うことだってできるではないか。ついでに、そのおかしな口調もやめてみたらどうだ。クラスメイトと話すときのような口調で話してみろ。まさか貴様、小学、中学、高校とそんなおかしな口調で過ごしてきたわけではあるまい」
「……まあ、その通りですけど」
うん。
と頷いてから、
「まあその通りだけど。――なんでかな。剣を持っているときは、『こうでなくてはならない』っていう自分のなかのルールみたいなものがあったのかな。強くなる気がしたし」
「そうか。ルールを作ることは悪いことではないんだが、ルールに縛られることは悪いことだと思うぞ。ルールに縛られない全裸なんてもう最高だ。すべてがアホらしく思えてくる。全身を黒いスーツで包んでクソ熱い太陽にじりじりと焼かれながら営業しているサラリーマンだってアホらしいと思った。ついでにレストランの窓などに自分の姿が反射して見てしまったときにも、アホだと思ったがな」
あははっ、と佐々木仏然は再び笑ってしまう。
がっはっはっ、と宮毛大黒牌も豪快に笑った。
そして彼は立ち上がり、そのでかい図体は部屋を横ぎって廊下へと出て行こうとする。そして、部屋から出る直前、
「俺が養子に迎えようと言ったのは、なにも酔狂なことではない。真剣だ。考えておけ」
ばたん、と扉がしまって、部屋に静寂が訪れた。
佐々木仏然は、「ふぅ」と一息ついた。
すごい人だったな、と思うのと同時に、自分の父親のことを思いだしてしまう。
――父親。
佐々木仏然は、剣を握ったあのガキの頃から、なにもかもを捨てて人生をつっぱしることになってしまった。もちろんそれは父のためだった。父から剣を教わるために、小学校なんてサボりまくりだったし、中学校もサボりまくりだったために、高校受験のときはえらく苦労した。父には内緒で勉強をつづけていたのだ。勉強をしているところを見つかってしまったら大目玉を食らうことは分かりきっていた。結局のところ「合格通知」なるものが家に届いてしまったときには、父にさんざん怒られてしまった。怒られてはしまったのだが、佐々木仏然は諦められなかった。「剣もまじめにやる。でも高校生も真面目にやらせて欲しい」――あのときの土下座は、最初で最後の佐々木仏然のお願いだった。あんなにも呆れた父の顔をみるのははじめてのことだった。あのときすでに父親は、きっと仏然のことを見捨てていたのだろう。剣の指導がおざなりになっていったのに気がついたし、父親の生きる活力みたいなものが無くなっていったかと思ったらまさにその通りで、病気にかかって抵抗する間もなく一人で逝ってしまった。
佐々木仏然は、父親が好きだったのかどうかは分からない。
だが、感謝はしている。
学費を出し続けてくれたことは事実なのだから。
そして、自分自身がやっぱり欺瞞だらけだということにも気がついた。ペンを真面目に握ったことだってあったはずなのに、一体なにが「自分には剣しかない」なのだろうか。気がつかないふりをしていたが、気がついてしまえばひたすら滑稽だった。
――これから何をしようか。
ぼそっと呟いてしまった。
佐々木仏然の瞳が、窓の外へと向いた。
真っ暗闇であるということに今さら気がついた。しばらく気を失っていたものだったから、時間の感覚などはまったく分からなくなっていたのである。そう時間は経っていないように思われた。窓のすぐ目の前には軽トラック。その先には家庭菜園らしきものがあり、そのずっと先には海が広がっているようだった。
佐々木仏然の視線は、ベットの隣へと向いた。
ギターケースがひとつ置いてある。それはもちろん佐々木仏然の私物であり、小太刀を二本収められるように改造を施してあるギターケースである。
「……」
ぶんぶん、と頭を横に振った。
小太刀の代わりに本物のギターを入れて持ち運んでいるような自分の姿を想像してしまった。……それだけは似合わないと思った。やっぱり自分は小太刀を持っているときが一番似合っているだろうし、また、小太刀を持っているときが一番安心するのだ。子どもの頃からそうだったのだから仕方がない。
佐々木仏然はそれからしばらく、パチパチと瞬きをしながら天井を見つめていた。五分か、十分か、しばらくそうやっていると、「ぐう」とお腹が鳴ってしまった。
佐々木仏然はぼんやりとしながらベットから足を降ろしたところで、ふと思う。
「……あ」
小太刀の代わりに、包丁を握って料理を作る。それならぎりぎりアリかもしれないと思った。袈裟斬り、逆袈裟斬り、横なぎ、それら一切の小太刀の技は、ぶつ切り、みじん切り、皮はぎなどといった包丁の技に変わるのだ。
それを教えてくれる師とは、もちろん宮毛大黒牌だ。――師になるということは、新しい父親にもなるということなのだろうか。
「私があの人の娘か……、想像できないかな」
だって全裸だもん。
ふふっ、
と一人で笑い、カレーライスでもおねだりしてみようかと思いながらベットを降りるのだった。