消極的自殺志向者の場合7
病棟から借りてきていた連絡用PHSに、豊子さんの検査が終わったと連絡が入った。
僕は椅子をたたんで、修に手を振り、ロビーに向かった。
豊子さんは少し眠そうにロビーの椅子に座っていた。
姿勢などはしっかりとしているものの、彼女がお年寄りであることには違いなく、少々、疲れたのだろうと思う。臨床検査や生理生化学検査は身体動作的な負荷は少ないが、精神的な負荷となれば話は変わる。高齢者は疾病のリスクが高い分、本人への精神的ストレスは大きいはずだ。
人気の失せた静かなロビーで、ある程度声を抑えて話しかける。高齢者という点を踏まえて、ボリュームを抑えすぎないように気を払いながら。
「検査はどうでしたか?」
少しうつむき気味だった豊子さんの視線が僕に定まるのが分かる。先程までの昏睡状態のようなとろりとした視線とは真逆の芯がしっかりとした視線に思わず、後退りしそうになった。
「終わりましたよ。特に問題はないそうだわ。私には身寄りがないから、何事もきちんと伝えてね、と言ったうえでの、真の意味でね。――あ、でも、強いて言うなら、アルブミンが低いことと、ヘモグロビンA1cの値が低すぎるとのことよ」
豊子さんはクスクスと笑いながら言った。やんちゃ盛りの孫をたしなめるおばあさんとはこういう表情をするのではないかと思う。僕にも祖母はいるが、僕が小学生のころはよくこんな表情にさせてしまったことを思い出した。
ウチの病院では、ほとんどの病気は告知せよというお達しが出ているはずだ。それが患者様の生活の質を重視することになるのだ、と。勿論、違う考え方をしている先生も院内には居る筈だが、今日出勤しているメンツを思い返すと、おそらく、豊子さんが重篤な症状の場合には、一切の告知をするであろうと考えられる医師しかいなかった。
ということは、つまり、修は診断を間違えたということなのだろうか。僕にも目の前に座っている元気に見えるおばあさんが、数日後に老衰や肺炎で亡くなるとはどうしても思えない。
もう一点、豊子さんが気になること、『アルブミンが低いことと、ヘモグロビンA1cの値が低すぎる』ということを言っていたので、僅かな知識を使って考察をする。
アルブミン……血液に含まれるたんぱく質だ。血中タンパク質の多くの割合を占めるアルブミンが低値になることは高齢者には間々、見受けられることだったように思う。原因はたんぱく質の摂取不足。その不足が重度になると、褥瘡、床ずれなどをきたす原因となるが、このしっかりとした御方ならその心配は少ないだろうと考えられる。
次にヘモグロビンA1c……中長期的な血糖値の管理を見る指標だ。ヘモグロビンA1cが低いということは、継続的に血糖値が低値であることが示唆される。つまり、長期的な血糖値は低値であり、糖尿病の心配は全く必要なかったといえるのだろう。
「ということは、低栄養気味ということですか?」
その二つの指標を考察すると、そう考えるのが自然だ。
「さすがに分かるのね。ええ、担任の先生にもそう言われたわ」
何がおかしいのか、豊子さんは手を口に当てて、笑う。
「いえ、本当にたまたまですよ。それで、何か心当たりはありますか? ――いえ、それよりも、病院なんかに無理矢理引っ張った挙句に、その程度ですみませんでした」
僕は頭を下げた。
確かに、高齢者の栄養失調は相応のリスクがある。しかし、それだけで医療機関での即日検査が必須かというと、そんなことはないだろう。
やはり、修だって間違えることはある……のか?
だが純然たる結果として、疾病は豊子さんの中から発見されていないのだ。
「私はそこまで食事をしっかり摂る方ではないからね。そういうこともあるのかもしれませんね。でも、あなたも気にしなくて大丈夫よ。それに、今日はいろいろな方とお話が出来て嬉しかったです。――では、私は帰るわね」
僕は頭をもう一度下げてから、豊子さんを見送った。
そして、豊子さんはこういう時に怒ることもしないのかと思った。
でも、何かが変だなと思う。そんなことを思いつつも、何がどうして変なのかを具体的に表すことはできなかった。
自室に戻り座椅子に掛けてポータブルオーディオプレーヤーをいじっていると、左手の甲に黒い汚れがあることに気がついた。よく見てみると、それは汚れではなく数字だった。確かこの八桁の数列は光の携帯電話の番号だったはずだ。
よくも消えずに残っていたものだと思いながら、まずは僕のアドレス帳に登録しておこうと考えた。左手の中のプレイヤーを太ももの上に置いて、携帯電話に持ち替えてフリップを左手で開く。
通常、僕は携帯電話を左手で取り扱う。だが、普段通りの使い方をすると手の甲の文字が見えなくなる。
まずはそのまま左手で〇九〇と打ち込む。
数列が見えにくいので端末を右手に持ち替えて、数字を認識しながら打ち込んでいく。
八回ボタンを押した後で、ディスプレイに表示された数列を手の甲に書かれたものと称号していく。
――八であるはずの箇所が〇と誤入力されていた。
僕は右手で携帯電話を扱う難しさを知った。普段は箸も包丁も筆も鋏もペンも右手で扱っているのにおかしなことだ。
確実に間違っていると分かっている番号にコールしてみるのも人生の一幕としては楽しいものだと思えるが、その通話の受信者からすれば、たまったものではない。
ディスプレイの数列を削除して、一旦、携帯電話を机の上に置く。
〇九〇と右手人差し指で押し込む。
残りの数字を口で読み上げながら、右手の人差し指で押し込んだ。
普段、携帯電話を操作しない方の手を使うことを強制された時の苦労を思い知らされながらも、数列の保存を完了させた。
コールボタンを押し、僕の携帯電話の番号を相手に通知するだけで良いのだが、その通知作業に対して応答された場合、どうすればいい。
僕は電話をするのが苦手だった。なぜなら、電話は相手の表情が伺えない。相手は舌を出しながら、しかめ面をしながら、平然と話をするのかもしれないと想像すると、面と向かって会話をするよりも五倍は疲れる。けれど、ただ発信しただけではそれが僕の電話番号だと知らせることが出来ない。さて、どうしたものか……。
どちらかというと、光の方からかけ直してもらうほうが気分は楽だ。
ワンコールで呼び出しを終了させよう。彼女も知らない携帯電話から着信があれば、かけ直してくるだろう。
トゥルル……。
――ガチャリ。
あと、想定では、ル、が二回は続くはずだったのにもかかわらず、光との回線が繋がってしまった。
「はい。どなたですか? ――あ、拓海ですか?」
「あ、え、えっと、はい。藤沢です」
応答の早さと、少々高めのテンションに押され、僕の第一声はとても動揺したものになった。
「待っていたんだけど」
「君の顔が見たい」
「え? デートのお誘い?」
「いや、テレビ電話機能という意味で」
「拓海って割と失礼だよね」
「え? なんでさ」
「会いたいって言ってるんでしょ? それってデートじゃん」
「いやいや、間違ってもそんなことはないだろ。デートっていうのは、ポールの来日公演でも観に行こうぜ、なんて言って、チケットを渡すことじゃないか。断じて違うよ」
「え? ポールって誰さ」
「ポール・マッカートニーさ」
「分かんないし」
「分かってよ。――あ、でもポールのライブに出かけるとなると、新幹線での移動がまず必要だな。じゃあ、さっきのは訂正。もう少し気軽な感じで、アジカンのライブ行こうぜ、くらいに訂正な」
「アジカンは分かるよ、リライトね」
僕は何枚目のアルバムの曲順が完璧だとか、あの曲はもっと評価されるべきとかいう言葉を飲み込んで、話をきちんとした方向へと戻すことを決めた。
「これは君を信頼して話すのだけど……」
開口一番、デートの誘いをするような軟派な人間と思われるよりはマシだと思い、僕は電話を使うのが苦手な理由を光に伝えた。
すると、ハハハと笑い声がした後に、彼女は答えた。
「大丈夫、私は、ちょっとはにかんで、少し安心したような顔をしているよ」
彼女はとても優しげな声で言った、……ように聞こえた。
「それを、苦虫を噛み潰したような顔で伝えた、ってかい? 僕はその言葉が、抑揚が、表現が、本当かどうかを確かめられないから嫌なんだ」
僕の祖父と父は必要とあればそういう情報を隠すスペシャリストだった。勿論、それは祖父たちの優しさで、気遣いで、仕事上必要なスキルだということは分かっている。そして、祖父たちが患者様たちの境遇に胸を痛めていることも知っている。けれど、僕がそういうことを受容できるかはまったく別の話だ。
「じゃあ、拓海は対面して会話をしていれば相手の感情を見抜けるとでも? 随分と傲慢なんだね」
「でも、出来るだけ相手の情報が欲しいじゃないか」
プロフェッショナルたちは患者様の前で表情に出すことはないけれど。
「むしろ、電話だからってことで、相手が油断する可能性を見出しなよ」
「――これが水掛け論というやつだな。貴重な体験が出来たよ」
僕は心底うんざりしたというような声を、わざと作って、言葉を発した。
「あ、今の声、時間を損したって思ってる?」
「ほら、やっぱり。光だって声で判別なんて出来ていないだろ?」
携帯電話の電源ボタンを押して、少し顔を緩めた。
外を見ると、既に夕方だった。
やはりこの季節になると日が短くなっていることを実感する。高校生の頃は部活の練習時間が短くなって嬉しいと思っていたような気がする。
暗くなっていく外の景色とともに部屋に一人でいても仕方がない。僕はドラマの再放送でも眺めようと、テレビのある居間に向かった。
今更ながらに、電話をガチャ切りしたことを後悔しながら。
居間からは光が溢れていなかった。父と祖父は病院に、母はスーパーマーケットにでも行っているのだろう。テレビを点けても一人ということに変わりはないのに、何故僕はドラマでも、と思ったのだろうか。
けれど、浪人生活が長くなると、誰もいない居間の寒々しい空気にも慣れてくるものだ。
一浪目の春は何か食べ物を口に入れようと、台所を漁り、買い置きのカップラーメンを見つけるという程度のことさえ、心が疲れることだった。この経験したことで母がパートに出る理由も理解できた。家に一人でいても、そんなに面白いことなんて転がってはいないのだ。
僕は予備校に通っていない。なぜなら意味がないからだ。勿論、予備校というものには多大なる意味がある。僕にとっては無い、というだけのことだ。
世の中には、貴方はやれば出来る、と言われる人がいる。僕も母などに言わせるとそういう人間らしい。しかし、僕が考えるに、そういう人間と僕は一緒ではない。なぜなら、僕は絶対にやらないからだ。いや、正確に表現すると、叱られない最低限のライン以上は絶対にやらない。という表現になるだろうか。今まで何度も『ある程度の努力は見られる』という評価を通知表や三者面談等々で下された。だから、僕の入学時の成績はいつも中の上、必要に迫られず皆の実力が上がりきっていない二学年時の模試などは上の中、その後に控える入試は中の下、くらいのところに落ち着く。まあ、それじゃあとてもじゃないが医学部医学科には入学できない。
医学部に進学すると周囲から考えられている僕も、二浪した今では中堅私立くらいには引っかかるくらいの偏差値を手に入れた。当然、一年間ごとに伸びる学力も中庸的であり、国立を目指すと宣言して、これから、もう二年は浪人する予定だった。そしてその時も、二年では無理だったと言って……そこからどうするかは、まだ考えていなかった。一応、一人息子なので私立でも進学させてくれるらしいのだが、こんな僕にその資格は無いことだけは分かっていた。
結局、この日は家の中では父たち病院組とは会うことはなかった。
起床すると、携帯電話は、『お前ごときに着信があった』と、ランプを灯して示していた。
目をこすり、液晶を見ると、留守録メッセージが残されていた。
めったにない着信に加えて、留守電の再生。そんな久しぶりの操作に四苦八苦しながらも、発信者不明、謎のメッセージを再生させる。
『明日、三〇三号室に来なさい』
男の声だった。そして、メッセージの内容に謎は何もなかった。そして、三〇三号室という場所の指定方法から、その人物にあたるのはこの世で一人だ。
着信履歴を確認すると、メッセージは深夜一時過ぎに残されたものだということが分かった。サイレントモードにしているとはいえ、非常識ではないだろうか。
僕を三〇三室に呼び出す人物に電話番号を教えた覚えはなかった。
その男性容疑者の周りの人物を検討していくと、僕の番号を男性に知らせた協力者は二名に絞られた。
一人は光。しかし、時間軸を考えていくと、容疑者が光から僕の番号を聞き出す時間は少ない。確か、昨日、光に電話をしたのは十七時から十八時の間だったはずだ。それ以降、女子高校生の携帯電話にオジサンが電話をかけるべきではないだろう、いろいろな条例的な意味で。
もう一人の協力者候補は、ある看護師。そして僕は、とても厄介な看護師が三〇三号室を含む、三階の担当だったことを思い出す。あの人なら、僕の電話番号くらいはホイホイ教えてしまいそうだと思った。
しかしまあとりあえず、番号の提供者についてはどちらでもいいことだ。呼び出しに応じることにしようと思う。それに彼とは少し話したいこともあったのだ。
僕は修が噛みちぎってしまった衣服分の賠償金を持って家を出た。
確かに、修は命を救うに等しい行為をしたが、それが衣服の弁償をしなくていい理由にはならない。金銭関係はしっかりとけじめを付けることは重要だ。
外は快晴。傍らに見える病院の花壇に、二酸化炭素を酸素にしてくれてありがとうと思いながら、病院敷地内を通過する。僕がそんなことを言ったなら、多分君達は、『人間の為にやっているわけではないよ』と返すのだろう。そして、『人間の行いとして、積極的に光合成量を増やすことは偉いことだそうだね。まったく、いろんな生き物を殺しつくしてきた君たちが、いまさらになって他の種族を繁栄させようなんて、いったいどんな心境の変化だ?』と付け足してくるのだ。なんという共存を装った依存関係だ。
空気は雪の季節が近づいていることを感じさせる冷え方をしていた。喉がハッカ飴をなめたように、スッとして、風邪のひきはじめを思い出させた。
三〇三号室のスライディングドアをノックもせずに開ける。
「ノックもせずに」
なんてことを当然、予想通りに言われた。
「不審な電話があったもので、来訪を告知することはリスクがあると判断しました」
憮然とした顔を作ってそう返した。
「ああ、そう……」
賢治さんは眉間にシワを寄せ、頭を掻きながら言った。
「そうなんです。とてもセキュリティ意識の低い病院ですが、ご無事で何よりです」
「ちなみに俺がエロ本を呼んでいた場合は、『ブジ』なのかね?」
顔をしかめていたと思ったら、ニヤニヤしながらそんなことを言った。
「知りません。けれど、エロ本は院内の売店には置いていませんし、院外に買いに出かけようにも、閉鎖病棟の中に修がいるので難しいかと。そして、ここは個室なので、院内に潜んでいるかもしれないエロの伝道師とも知り合う機会がない。――なので、賢治さんがエロ本を手に入れるのは難しいでしょうね」
「もう一つ質問。ちなみになんだけど、藤沢病院にエロの伝道師は実在するのか?」
「どうでしょう。四人部屋に移ってみますか?」
「……少し考えさせてくれ」
賢治さんが真剣な目付きで言うので、少し焦った。十八禁動画のDVDを大量にポータブルプレイヤーとともに持ち込んでいる男性患者様はたまにいる。確か、今も二階の病棟に二人ばかり居る筈だ。この人がその集まりに加わると、面倒なことになりそうな予感がした。
「――で、僕になんの用ですか?」
話を切り替える意図をもって、僕から質問を投げかけた。
「あの子、光ちゃんだけど、あの後どうなった?」
「どう、とは?」
このエロの伝道師候補め。僕になにか下世話なことを喋らせたいのだろうか。それとも、こういう会話を何気なく出来るのが大人のオトコというやつなのか。
「特に何もなし?」
「そうですね」
「ふーん」
何やら言いたいことのありげな視線を向けられた。
そんな目で見られても、賢治さんに対して喋る必要のあることは何もなかったので困る。なので、視線を外に向ける。
僕が黙秘を貫くと思ったのか、賢治さんが言葉を重ねる。
「途中まではいい感じだったとか?」
「どういう意味です?」
「言葉通りさ。あの子、君のことが気になっている感じじゃないか」
賢治さんはベッドから這い出して、僕の腕を叩く。さわるな、エロが移る、エロが。
「はあ、そうなんですか」
「へいへい。草食系男子ってヤツなのか? これだから若いヤツは……」
「その、『これだから若いヤツは』という言葉を吐いた瞬間に白髪になればいいのに」
「ほう、えらく毒づくじゃないか」
「大っきらいなんですよ、そういう言葉。具体的に若いことの何が気に入らないのかを言えばいいのに。……まあでも、賢治さんの言い方には侮蔑的な意味はなさそうなので、別に気にならないですけど」
「そうか。じゃあ、一つ質問だ。そういうことを言ってくる人間に対して、君はどういう言葉で反抗するんだ?」
「そうですね。まず、そういう若者達を生む社会にしていったのはアンタ達だろうと言いたいですね。それを言うと、政治家が悪いだの、官僚が悪いだの、と言う人がいますけど、間接民主主義の国家に住んでいるんだから、十分にお前らにも責任があるのでは、と言ってみたいですね。――いや、言いたかったか……僕、もう二十歳になっちゃったんですよねー」
「じゃあ、今年からは拓海君にも責任があることになるわけか」
「まあ、そうなりますね。もっとも、僕は、『これだから若いヤツは』と差別的に言うつもりはないですが」
「――今のところは?」
意味ありげな視線を向けられた。
「今のところは」
僕は少し笑う。
「ま、君も言う時が来ちゃうんじゃないか? 今はまだ若いから、そういうことを言わないと意識しているだろうけどな」
僕はそんなに長く生きたくないと思いつつも、「そうですね」と応えた。
「そうだな……。君からしてみれば俺はオッサンなわけだけどさ、多分、そういうことを言ってしまう人って言うのは、若いことが、その若さが羨ましいのだろうさ。若くて、肌も脂っぽくなくて、女にモテて、ハゲと罵られなくて、羨ましくてたまらないんだろう。――と、俺は思うな。俺がそういうことを本心から言うとしたらそんな状況さ。まあ、つまり嫉妬ってわけだ。デンと構えていたまえ、若者よ」
今度は、背中を叩かれる。ベッドからというかなり無理な体勢の為、力はまったく感じられなかった。
「そんな言い方をするということは、まだまだ若いもんには負けない、みたいなことを思っているわけですね?」
「ははっ。正解だよ。俺だって全然イケてるだろう?」
僕は賢治さんのニヒルに歪められた顔に、具体的な言葉では応えずに、笑顔を作り、病室を辞した。
ま、でも賢治さん、アンタは僕よりもイケてるよ。前向きに明日を見ている時点で。
スリをした理由を聞き出そうと思ってここに来たのだが、今はまあいいかと思ってしまっていた。
自宅に戻ろうかと病院敷地内を歩いていると、閉鎖病棟の窓を覗いている少女を見つけた。そこは修の住処であり、ウチの黒い犬に対して、何か用事でもあるのかと思う。
少女はパジャマ姿であり、外部からのお客様の可能性は低い。つまり、ウチの入院患者様であると推測できる。
僕は一応、声を掛けてみることにした。病院敷地内を散歩するのはある程度、勝手が許されるが、なにぶん道路に面しているため、そのままフラフラと車道まで出ていかれても、だいぶ困る。
「こんにちは。そこで何をしているんですか?」
僕は少女の機嫌を損ねないように、『そこの子』とか『少女』とかいう表現をしないように注意して話しかけた。
少女は見たところ小学生くらいだが、とりわけ女の子はその位から、既に大人として扱っておかないと、思わぬ言葉で罵られる場合がある。それは僕がわずかながらも、小児科の患者様と会話をして得た教訓だった。
僕の言葉に少女は振り返り、「黒い犬、見てるの」窓の向こう側を指さして言った。
その先の修は小さく丸まっていた。部屋が寒いのだろうか。たぶん犬だから平気なのだろうが、漏れ出る息に翻訳機は『不快』と示しているかもしれないと思った。
「アイツのこと、気になるかい?」
「あの子、私、好きよ」
そんなことを目の前で言われた修の様子を想像する。
彼は、『ケッ』と鼻を鳴らして、そっぽを向くだろう。ヤツは割と照れ屋なのだ。おそらく、だけど、たぶんそういう性格だ。
「あの子のどういうところが好き?」
「うーんとね……全部好き。だけど、凛々しくてマヌケな顔が一番好き」
僕は、『全部好き』と言ってしまえる点に彼女の幼さをみた。しかし、少女の観察眼は上等なものだと思った。確かに、時に修は、『凛々しくてマヌケな』表情を見せる。でも、その表情を彼が見せることはめったにないことなのにな、と思った。
「ねえ、おにいさん。私、このお犬とお散歩したい」
僕は少女の願いに困惑した。
恐らく、彼女は入院している。専門家ではない僕には、許可も不許可もできない事柄だった。
「それ、少し待ってくれますか? まずは君の担当の看護師さんに大丈夫かを訊いてみよう。担当の人の名前は分かりますか?」
彼女はうなずいて、以前の文脈から苗字と考えられる言葉を発した。
それは、僕が苦手とする苗字で、考えうる限りで、少女の願いに対する許可は得やすいという利点があるにしても、いろいろな点を考慮に入れると、結局は一番面倒な人であった。
一言で表すのなら、うんざりだ。




