消極的自殺志向者の場合5
翌朝、目が覚めてから少しすると、雀脅かしが聞こえた。音はさほど響かず、それが遠くからのものであることが想像できた。
部屋の空気は太陽の力でまだ暖まっていないけれど、時刻はラジオ体操くらいにはなっているらしい。確か、爆音機が鳴り始めるのはそのくらいの時間のはずだ。
僕の住む家の近くには爆音機が無い。その理由は明確で、入院施設が存在する病院の向かいに建っているからだ。そのあたりはなんとなく配慮してくれるらしい。自分が病気になれば入院するかもしれないのだ、その時に雀脅かしでたたき起こされるのがいかに不快な事は想像に難しくない。誰だって体が不調な時の朝くらいはゆっくりしたいだろう。
確か、今と同じような季節に、部活の合宿で高校のセミナーハウスなる施設に三泊した時のことだ。気の知れた人間たちで宿泊をするわけで、自然と夜は更けていき、疲れを取る時間は減っていく。
そして、朝を告げるのは女子メンバーの優しい声を夢想しつつも、実際には目覚まし時計や携帯電話のアラーム機能だと思っていた。
だが、そこに響き渡るは、爆発的な炸裂音。忘れもしない、五時半きっかりのことだった。
そこで僕は飛び起きた。驚き、当然のように。
だが、皆は寝ていた。静かに、平然と何事もなかったように。
僕はそこで学んだのだ。爆音機が生まれた時から身近にあれば、それは次第に日常の音として処理されるようになるのだろうということを。僕以外のメンバーはそのクチだったようだ。
結局は何事も慣れということだ。
前腕を支える二本の骨、撓骨と尺骨がそれぞれ一本ずつ逆方向に曲がってWの形になった腕を見るのも、糖尿病で血管がやられて欠損した部位を見るのも、褥瘡や床ずれで開いた穴からする臭いも、動かなくなった人が霊安室に運ばれていくのも。今はまだ苦手だけれど、たぶんいつか慣れる。慣れなければ、僕は実家を継げない。
破裂音の度に何かグロテスクなものを思い出す気がして、僕はノイズキャンセリングのヘッドホンで耳を塞いだ。
適当にLPを五枚も聞けば気分も変わるだろうなんて、都合のいい期待しながら。
結局気分は良くならず、朝食を摂るのは諦めた。
病院の朝食と昼食の間の時間を狙って、三〇三号室を訪ねると、室内には賢治さんの他に光がいた。
賢治さんは光にウインクをしてから、外を眺め始めた。そういえば高架下で出会った時もウインクをしていた。彼が何歳なのかは知らないが、気障な男だ。
「ここで待っていれば会えると思って。――まずは、タクミの漢字を教えて?」
僕の方に一歩近づいて光が言った。
海を開拓すると書くと教えると、だったらもったいぶらないで教えてくれればよかったのにと言われた。
「だってさ、周りに海なんて無いのにおかしな名前だろう?」
僕がこの地域から離れるのは長くても大学生時代と研修時代を合わせた十年くらいだろうということは、物心がついたときから分かっていたことだ。来年度は都会の予備校に入ることにすれば、ひとまずもう一年の追加は出来るのだが。
病室の主が口を開いた。
「そんなことも無いんじゃないかな。例えば、音の海という表現があるよね。君はその言葉にシーを想像するかな? いや、そうじゃない。ラージでワイドであるという漠然としたイメージ、もしくはウェーブの音を想像するんじゃないのかな?」
「……そうかもしれませんね」
そういえば、両親に命名の意図を訊いたことがなかったように思う。両親から漢字を受け継いだ、ということではないことは分かっているのだが。
「私も光輝いてはいないし」
「当然、俺も治めるほど賢いわけではない」
彼女と彼は笑いながら言った。
僕はなんとなく恥ずかしい気持ちになって苦し紛れに話題を変える。
「光、学校行けよ。平日だぞ」
「いきなり話題を変えないでよ」
「そうだね。落第しない程度には登校しておくべきだ」
「ねえ拓海、ケータイの番号を教えてよ」
二者からの攻撃に対して、彼女は僕と同じ手段を選択した。
「話をそらすな。――真面目に言うと、ここは病院だから後でな」
「今、アタシの番号を渡すから」
そう言って、彼女は僕の左手の甲にジーンズのポケットから取り出したサインペンで数字を記入していく。
ほう、ポケットにサインペンを入れておくとはなかなかの豪傑だ。って……。
「ちょっと、止めろよ」
こんな行為を指して、『渡す』と言う。日本語とは海のように広く、そして深い意味を含有するのだと感心する。彼女の中では、押し付ける、も、渡すという意味に含まれるらしい。
「でも途中まで書いちゃったんだし、最後まで書かせてよ」
さらさらと八桁の番号を記入し、「頭は〇九〇だから」と言った。
「……後で登録しておくよ」
責任のない言葉を口にした。
『後』という言葉にはいつからこんなに不確定な要素が付与されることが許されたのだろうか? 『後でやるよ』『後回し』『後ほど検討します』……まあ、最後のはどちらかと言えば、『検討します』の方が不確定な表現なのだが。
僕の目が胡散臭いことを感じたのか、光はため息をついてから窓に目をやった。
そんな彼女を少し見ていると、程なくして、少し目を剥いて、口を開いた。
「あ、彼、修君が窓から出ていったよ」
光が外を指さして言った。
別に不思議なことではない。修が住処を出ていくこともあるだろうと思う。修は自由に外を歩いて、患者様候補の人間を勝手に連れてくるのだから。しかし、それは僕にとって、あまり良い光景とは言えないのが難点なのだが。
最近の修は妙に活動的だなと思う。気がつけば患者様を増やしている彼だが、病室から飛び出すのを見たのは久しぶりだった。勿論、閉鎖病棟を二十四時間体制で監視しているわけではないので、多くの場合、僕が見落としているだけなのだろうが。
「拓海。様子、見に行こうよ。車とか危ないかもしれないし」
そう言って、光は所在なさ気に右腕を宙にぷらぷらと彷徨わせる。
「そうだね。行ってみなよ。拓海君には慣れた日常かもしれないけれど、光ちゃんにはそうではないみたいだぜ」
賢治さんが言った。
仕方がない。
僕はさまよう手を先導するつもりで病室を辞した。
一応振り向くと光の目が僕を追っていた。
彼女は僕を見定めると、さまよっていた手は意識と共に定着したようだった。
自信のない彼女に自信をもたせることが出来たらいいかもしれないと思っていた。とても無責任にも。
修の歩くペースは乱れない。そういうところから犬らしさを感じるポイントは確かにあるのだ。だが一方で、それが軍隊的というよりも、私語を禁じられた学生の入場行進のように少しやさぐれた態度であり、妙に人間的な感じを受けるのは少し面白かったりする。
「修君、どこに行くんだろうね」
光は、そう僕に訊いているようだった。
僕はその問いに対しての答えをもっていなかった。
修はいつだって行き先なんて告げることはない。そもそも、そんなこと最初からできない。
なので、僕は質問には応えずに町並みを眺める。
傍らには、毎年、代わり映えのしない葡萄畑。深い紫への成熟と鳥よけの為に白い紙袋がかけられている。風にそよぐ白い房々は首吊り死体みたいだ。
目線を遠くに向けると、小学生時代に学校行事で強制的に登らされた山がある。別に紅葉の美しい木が群生しているわけではないので、この季節にはくすんだ色になってしまい、とても冴えない。
近くに目線を戻すと、来年も僕の目を花粉で不快にする稲穂が植えられるのであろう田んぼあった。僕は稲の花粉が苦手だった。目が痒くなり、鼻が疼く。実りの季節を迎えたなら、稲のにおいが濃くなる。そして段階的に不快さは増していく。やっと過ぎ去った季節も世界が何事もなければまた巡ってくるのだろう。
もう少し日が過ぎれば、各家庭で剪定された枝が庭先で焚かれて、その煙が目にしみることも予想できて嫌になる。
ここからでは手を伸ばしても掴めない何もかもが僕を嫌っている。
僕もそれらを睨んでやった。世界は僕を嫌いかもしれないが、僕だってこんな町は大嫌いだ。
町並みを不快そうに眺める僕を見て、光は僕が返答する気のないことに気がついたようだった。
彼女は歩幅を広げ、修に近づいて行った。
「ねーえ、どこ行くの?」
修は声をあげない。首輪に下げられた翻訳機も働かないようだった。
だが、いつものように人のことなど無視して、そのまま歩き続けると思いきや、彼は足を止め、光の方を向いて静止してから、鼻を鳴らした。何かを嗅ぐように。
必要な時以外に、修が僕の家族以外の人間に興味を示すとは思いもよらなかったので少し驚く。
「なあに?」
光も何か違和感を覚えたのか、修の顔を覗き込んだ。
修は光の左手首に鼻を近づけた。
そして、不快な顔をしてすぐに距離を取るかとおもいきや、修は近づけた鼻でクンクンと彼女の手首を嗅ぎ続ける。そこから、なにかかぐわしい香りでもするのだろうか。
しかし、以前そこから放たれるにおいは、彼にとっては不快なものではなかったのだろうか。ならば、なぜ修はそこに鼻を留めるのか。
その数秒後、修は一つ、声をあげた。
僕は一人と一匹に追いついて、修の翻訳機を覗き見る。
『疑問』
「今日は噛んでくれないね。ちょっと寂しいね」
光はそんなことを呟いて修を撫でた。
だが、僕はその一連の事態に疑問をいだいた。
修は死のにおいを嗅ぎ分けられるようだ。そして、修はそのにおいを嫌っているフシがある。ならば、なぜ光からは離れないのだろうか? 死の危険性が薄れたということなのだろうか? だから、彼は『疑問』をおぼえるのだろうか。
彼女の表情を盗み見ると、昨日よりも、少し晴れやかで、さっぱりとしているように感じられた。
僕のような後ろ向きの志向を持つ人間はそれを、嬉しいことだよ、とも、残念だったね、とも、言うことはできなくて。
彼女が変わったかもしれない、その原因だって、入り浸っていたSNSでなにかあったのか? そんな程度しか思い描くことしか出来ない。
修は僕が最近偶然覚えた道をスタスタと歩いて行く。経路の選択に淀みがまったくない。決して口には出せないが『犬なのに』と思う。僕ら家族は修に特別な訓練をさせたことはないはずだ。
隣を鼻歌交じりで歩いていた光が口を開いた。しかし、鼻歌とは……何がそんなに楽しいのかと疑問に思う。
「またこの道なのかー。私達この道には縁があるね」
先には僕が立ち寄ることのない、農村地域へと続く道が続いていた。
「でも、修は初めてのはずなんだけどな」
「ああ、そういえば前にきたとき、一緒にいたのは拓海だけだったか」
彼女はついうっかりと、なんていう感じで舌なんかを出しそうな表情を作った。本当に何がそんなに楽しいのかわからない。
僕らは高齢者の多いであろう住宅地を進んでいく。まったく、先日たどったのと同じように。
そして、先日伺ったばかりの家の前で修は立ち止まった。
「修、この家の人なのかい?」
僕は一応、確認をした。
『肯定』
彼は一吠えで、僕に対して明確な意思を示した。
僕の前方にある門柱には清水という表札が取り付けられていた。
ここに住むのは、「豊子さんもなの?」前に会ったことのあるおばあさんだ。
『……』
確か、修は豊子さんという名前を知らなかったはずだ。だから、何も応えられないのだろう。僕は光の質問に補足する形で問いかける。
「前に高架下ですれ違ったおばあさんが危険なのかい?」
『肯定』
酷い偶然性に思わずため息をついてしまう翻訳機のデジタル表記だった。
「――だ、そうだよ、光」
既に彼女の表情は楽しそうと表現できるものではなくなっていた。その理由は僕だって分かる。たとえ、僕みたいな奴でもそれくらいは分かる。
「光、呼び鈴押す?」
「今日は拓海に任せるよ。修君のことを説明しなければならないでしょ? 私は一応部外者だから」
曇った顔と声で光が答えた。それを見て、光は笑顔のほうがいいな、と今更ながらに思った。思い返してみれば、彼女の打算的でない笑顔を見ることの出来たのは、本日出会ってから、いまさっきまでの短い間だけだったのかもしれないということに気がつく。
僕は偶然性のいたずらに腹をたてながら、呼び鈴を強く押し込んだ。
屋内に音が響く。
でも、なんで僕は他人の事でイライラしているのだろう? そんなこと考えていると、程なくして、木張りの廊下を歩く音が耳に届いた。
その木が軋む音で、僕は気持ちを切り替えて話をしなければならないと、説明をするために気持ちを落ち着かせようと意識した。
豊子さんはサンダル履きで玄関のドアを開け、僕達に応対してくれた。
「あら、またいらしてくれたのね。――あら、前のワンちゃんも一緒みたいね」
さすがに修を家屋に上げさせてもらうわけにはいかない。豊子さんには、少し外に出てもらい、修による再鑑定を試した後で、具体的な話をすることにしよう。
「豊子さん、すみません。この犬に近づいてもらうことはできますか?」
豊子さんは少し訝しげだったが、三和土からサンダル履きのまま、こちらに近づいてくれた。
「修、どうだ?」
彼は鼻を鳴らしたあと、一つ吠えた。
『肯定』
やはり、間違いではなかったのか。
いみじくも、あの日に僕が高架下ですれ違った人々は、どの人も『死の匂い』をさせていたということらしい。
そういえば確かに、修はあの時、賢治さんを追うのを一刻ためらったようだった。その理由は『死の匂い』の混線が起こっていたから、ということなのだろう。だから、修は高架下で、気に入らないにおいをさせる人間の集まった高架下で、どうするかを迷い、戸惑ったのだ。
鑑定が済んだのなら、説明をしないわけにはいかない。
「豊子さん、落ち着いて聞いて下さい」
「はいはい、何かしら?」
「この犬は病気などを抱えた人間を嗅ぎ分けることが出来るのです。そして、彼によると豊子さんは陽性とのこと。なので、ウチの病院で少し検査を受けてもらいたいのです。僕の言うことに同意して頂けますでしょうか?」
彼女は少しの間、真顔になり、その後、破顔した。目の前の男はおかしなことを言う、とでも思ったのだろうか。
「あら、そうなの。それはすぐでなければ駄目? 言うのは恥ずかしいんだけど、今さっき、お菓子を食べたばかりで血糖値が高くなっていそうなの」
豊子さんは口に手を当てて、笑いを殺しながら言った。やはり僕の言うことをにわかには信じられないということらしい。事態が緊急性をはらむかもしれないとは考えていないように見えた。
僕は今までの事例を省みる。
賢治さんは初期がん。修は彼を最優先で病院に引っ張った。
光はリストカットで血を流した。その自傷行為がエスカレートした場合は命すら危険に及ぶ。
――順に危険度は下がっていると考えてよいのだろうか。一応、致命的な順には並んでいるように思える。
しかし、豊子さんが終末期であり、修が後回しにした可能性も否定できない。そもそもこの順番なんか、ただの気まぐれの可能性もありえるのだ。
やはり、ある程度は急ぐべき事態だろうと思う。
脳内で、この場所から、最短の検査までのプランを組み立てていく。
「今日のあいだはお暇ですか?」
血糖値だけならば間食後から二時間もみれば血液検査は可能になるだろう。つまり、問題をはらんでいるのが血糖値ならば、今日中に検査は可能になる。今日ならCTの技師さんもちゃんとした方が出勤しているはずだ。
「ええ。このあとも、なんだったら明日も大丈夫よ」
「では、二時間後に病院に来ていただけませんか。時間になったら、また後で僕がお伺いしますので――」
豊子さんが僕の言葉を遮るように口を開いた。
「いえ、おもてなしをするから上がっていって……と、言いたい所だったけれど、いろいろと準備をしなければね。年老いた女だって準備には時間がかかるのよ。それと、病院には自分で行けるわ。藤沢病院に行けばいいのでしょう? そのほうが私も気が楽でいいもの」
その言葉を聞き、再び訪ねることを固辞することもないか、と思った。
「そうですか。では、お気をつけていらしてください」
「歩いて行っても問題ないかしら? 検査などに影響があったりする?」
「いえ、特には無いと思います。豊子さんがよければですが……」
「もちろん、大丈夫よ」
「では、受付の者には伝えておきますので」
挨拶をして、玄関から外に出て、扉に手をかける。
扉を閉める時になんとなく、中を見る。
閉まっていく扉の間から微かに見えた、豊子さんの何かを企むようで、ひどく妖艶な顔が強烈に印象に残った。




