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消極的自殺志向者の場合3

「僕は病棟に行って賢治さんと話をするつもりだから、ここで。じゃ、機会があればということで……」

 自宅付近に差し掛かった場所で振り返り、後ろを付いてきていた光にそう告げた。

 僕がサヨウナラと、手を振ろうとすると、何らかの力によって動作を停止させられた。

 何らかの力がかかっている左腕を見ると、光に腕を捕まれ、動作を強制的に停止させられていた。

 少しどきりと、脈拍が上がったのが分かる。でも、なんてことはない。季節が変わり、寒くなった影響で生じただけの不整脈だ。

 だから、過度な不安を抱く必要性などないと、心を落ち着けていると、光が口を開く。

「じゃあ、アタシも行く」

「え? どこに行くの?」

「病院。決まってるじゃん。――文脈から判断してよ」

 決まっているのか。そうか、そうか。そんな因果が文脈から世界に生じているとは知らなかった。

「まあ、でも実際のところ、関係者以外行かないほうがいいと思うよ。重篤な疾患だといろいろとあるからね」

「タクミも関係者じゃないじゃん。関係者レベルを測ったら、多分、アタシと同じくらいだし」

「仮にそういうレベルがあったとしたなら、同じくらいだろうね。あったとしたらだけど」

「――いや、むしろアタシのほうが上かも。だって豊子おばあちゃんと知り合いだし」

 彼女は僕の意見を無視して、何故か自慢気に主張を続けた。

 どうも、簡単には譲る気はないらしい。なら、その土俵に僕も上ってやろう。

「それなら、僕はこの病院の関係者であり、かつ、修を連れていたのも僕だ」

「屁理屈かよー」

「それはどっちがってことだよ。――じゃあ、今日は止めにするよ。また今度」

 そもそも、屁理屈を始めたのはそっちだろ。とは言わずに、自宅方面に足を向ける。

 しかし、この行動は勿論、嘘であり、ブラフだった。家に引き返してから、病院にはまた来るつもりだった。光と口でやりあっていてもきりがないのはなんとなく分かった。

 僕がサヨウナラと、手を振ろうとする。

「じゃあ、アタシは病院に行くね。サーヨーナーラー」

 僕が動作を完了するより前に、光に先に手を振られた。

 そして、言うが早いか、彼女は病棟に向かう。

「待て待て待て」

 僕は、歩幅と連動して大きく後ろに振られた彼女の手をつかんだ。

「なに?」

 少し不機嫌そうに振り向いて彼女は言った。

「なら、僕も行くよ」

 その行動力に少し呆れ、ため息が漏れた。

「いいよー」

「なぜ光が許可するんだよ。僕とレベルは同じなんだろう?」

「同じくらい、ね。私は被害者の知り合いだから、やっぱり少し上」

「屁理屈に反論しなかったってことは、僕が上だと認めたんじゃなかったのかよ」

「修君、豊子さん、アタシ、タクミの順番かな、勘だけど。――あ、そうだ、修君連れていこうか」

「病棟に修は入れん。当たり前だろう?」

 僕が最下位に位置することに対しては、先ほど以上の反論が見つからなかったので、聞き流すことにした。

「あんなに賢いのに?」

「そういう問題じゃない」

「それもそうか。――あ、話をすれば、修君だよ」

 彼女は右手人差し指を使って方向を示した。

 薄ピンク色をした切り揃えられた爪が示す先を見ると、確かに修がいた。

 そして、その距離は一秒ごとに縮まる。

 距離が最大に縮まり、修は光の服に噛み付いた。

 その行動が示すことは一つだ。




 現在位置、藤沢病院。一階。ロビー。

「心当たりは?」

 僕はそう言ってから、少し気になっていた光の左手首を注視する。

 目を逸らし続ける光は僕の視線に気がつくのだろうか。

「――ないよ」

 返事があるまでにかかる時間は、先程のテンポよりも一呼吸遅くなっていた。

「そう、分かった。ちなみに光には健診を受けずに家に帰るという選択もあるんだけど、どうする?」

 未成年者に対する、修の介入を邪魔する方法だ。僕が修の行いに介入するまでは、この選択肢を与えられる未成年はいなかっただろう。だから、僕は生き残った。だが、修と病院の間に僕が入ることで、彼女には自由な死の選択権を付与される。

「じゃあ、受ける」

「了解だ。終わるころにロビーで待っていていい?」

 光が頷いたのを見て、僕は受付に向かった。

 彼女の検査の要請と、賢治さんの病室を知るために。




 教えてもらったのは三〇三号室。

 その部屋の前で、適当な回数、扉をノック。

「失礼します」

 そう言って、返事を待つことなく扉をスライドさせる。

 立場上、病室の配置は頭にしっかりと入っていた。迷わず、ベッドを見る。

 座椅子として活用できる角度に調節されたリクライニングベッドに賢治さんが座っているのが見える。

 彼はドアの音に反応したのであろう、上げられた顔からの目線が僕のそれと交差するのが分かった。

 これが中年男性でなければ恋の始まりなんて、クサイやつにもなるくらいにバッチリとこちらを見ていて、ピタリと視線が合う。

「――君か」

 運命的なものなどは何も感じていない様子で賢治さんは言った。それについては、とてもよかったと思う。

「はい、藤沢拓海です」

「そう、結局君の名前はフジサワタクミ君なんだね。またどうして?」

「どなたかのおかげで、いろいろと面倒なことになっていたので、その後の処理などについてのご報告などを」

「それはすまなかったね。それで先方は赦してくれるようかな?」

 緊張感ない様子で彼が訊いた。

 僕は少し気になるものを抱えつつも、事実を応えることにする。

「ええ、病人が発作的に、そして衝動的に、スリをしてしまったのだ、ということにしました。なので、あのおばあさんも問題にはしないと仰ってくれましたよ。解決はこんな感じでご満足いただけますか?」

「それは申し訳なかったね」

 そう言って彼は頭を下げた。

「まあ、これも僕の仕事の内ということにしておきますよ」

「それにしても、病人……か」

「なにか疑問でも?」

「大いにあるね。そのことについて、君はどの程度、分かっていたんだい?」

「そのこと、とはなんですか」

 予想はつくものの、トボけた態度をとった。

「勿論、病人、の部分さ」

 よくも、『勿論』ときたものだ。瞬間的には自分自身が連れていかれる場所を勘違いしたくせに。

「賢治さんに噛み付いた犬がいたでしょう。彼は病人に反応するんですよ。犯罪者、スリではなくてね」

 それに、そもそもよく訓練された警察犬であったとしても、犯人の匂いを嗅がせていない状況では、犯罪者に対して反応できないだろう。もしも、修に似た能力を持ち、犯罪の匂いに敏感な犬が居るのならば話は変わってくるのかもしれないが。

 修のように特殊な力を持っているように思える犬は他にも存在するのだろうかという疑問を覚える。そういうヤツだっていてもいいだろうと思う反面、修には特別であって欲しいという気持ちもあった。

「そうなのか?」

 賢治さんは納得しきってはいないという表情で言った。

「勿論、完全な確証はないですから、病院の機器などを使っての精密検査が必要ですよ? だから連行するのは病院で、賢治さんが勝手に自白したわけです」

「君が紛らわしい言い方をするから」

 少し笑って賢治さんは言った。

 当然、紛らわしい行為をしている方が悪い。

「現行犯で警察に連行されるようなことをしている人が悪いんだと思います」

「反論のしようがないが辛いな。改めて、謝罪に行かなければな」

「ぜひ、そうして下さい」

 僕は頷いた。

 財布の窃盗については一区切りが付いたと思ったのか、賢治さんが切り出した。

「犬が病気を発見するというのは本当なのかい?」

 えらく食いつくなと思う。

 動物実験でもデータにばらつきが生じる為、ある程度条件を揃えて複数回の実験が行われる。そして、仮説を証明したいヒトという動物で実験を重ねるわけにもいかないためまずは下等生物での実験が行われる。下等生物でいくらデータを得られていたとしても、実際にヒトでの臨床実験のデータを三例は揃える必要があったはずだと記憶している。修の力はマウスやラットなどでヒトよりも前段階の証明はされていないため、どのくらいヒトの症例が必要になるのだろうか。そして、それが彼の能力によるものだと証明するのにはどのくらいの客観的証拠を揃える必要があるのだろうか。そもそも、客観的証拠を集める必要はあるのだろうか。実際として、彼は患者を増やし続けているのだ。

「信じる、信じないは、賢治さん次第ですけど、ご自身がここにいるということは、少なくとも賢治さんに関しては事実だったということですよね?」

 結局、僕は強引な証明を以て、結論づけた。

 思えば、数学の証明問題は中学生の頃から苦手だった。あれは指導要綱も悪いと僕は思う。『プリント上の図を見比べれば分かる。証明終了』では、駄目な理由から教えてくれたなら、中学生の僕だってもう少しは真面目に取り組んだことだろう。高校生になってサイン、コサイン、タンジェントの意味が理解できてから、その重要さが把握できた。その間、約二年。証明問題をバカにし続けたツケは結構、大きく膨らんで、僕の受験を苦しめていた。

「ま、そういうことでいいか」

 賢治さんなりに修の能力について、結論が出たようだ。

「重要なのは結果ですから」

 僕の証明問題嫌いは根深いようだった。

「どうやら、初期がんだそうだよ」

 彼は軽い調子で簡単に言った。担当の医師から、病状が深刻なものではないということを聞かされたのだろうと感じた。賢治さんが生を望むのなら、早期発見早期治療は良いことなのだろう。

「それは大変ですね。入院の苦しさなら少しは分かります。僕も修に服を引っ張られたクチなので」

「本当に、それはそれは、優秀だ」

 そう言って彼はハハハと笑った。修の信頼性を上昇させるデータを、彼は得ることが出来たようだ。

 この街の人は優しい。僕が嘘をついている可能性について考えない。

 確かに、賢治さんから見た僕は修を連れて、病気を見つけるという、善意のようなものが感じられる行為をした。だからといって、その人間の全てが善と言えるかというと、そんなことはありえない。大体、僕の裏に潜んでいる、死の選択肢という考え方は、多分、悪だ。

 一段落ついた気がしたので、僕は訊きたいことを訊いてみることにする。

「本当の職業はなんですか?」

「それは内緒だ。――大丈夫、君が考える最小の犯罪よりも、健全な職業であることを約束するよ」

 それは、なんだろうか。僕は考える。

 僕が考える最小の犯罪とは……信号無視……ではないな。信号無視は無関係の幼児を死に近づける可能性がある。もし僕が、赤信号を無視して横断歩道を渡るとする、赤信号の意味を知らない幼児がそれを見て学習する、赤が進めだと。もうこれは殺人に近い何かだ。

 では、最小の犯罪とはなんだ? やはり、自殺か? 僕は近しい親族も含めてキリスト教徒ではないので、その行為自体は、禁忌ではない。当然、認められたものではないのだが。

 結局、それに関して、共通の答えはないのだと思う。

 犯罪が宙に浮いて、ただ消えていくなんて楽観は許さてはならない。

 有り体にいえば、事件に大きい小さいはないというふうな考え方を、僕はしている。

 また来ますと言ってから、僕は病室の外に出た。




 夕方のロビーを抜けて修の住処に向かう。

 経験上、光の検査の全てが完了するまでにはまだ数刻はかかるはずで、ロビー待つのも芸がないと、飼い犬と戯れようと考えたのだった。

 帰宅してもいいし、そもそも、約束を破棄して彼女のことを放り出したって問題はない。けれど、どうやら僕はそれほど無機質でも無関心でもなかったらしい。

 既に人気が失せたホールにスニーカーと床とがこすれあう音が響く。この音を聞くと病院に来ているという気分が増して嫌な気分になる。

 少し歩幅を広げ、外へと向かう。

 人が集まるべき空間から、人影が失われた状況に恐ろしさを感じるという話を聞くことがある。でも僕はそんな様子の待合所が嫌いではなかった。なぜなら、人が集まったのなら聞きたくもない話が聞こえてしまうからだ。台風によって枝から振り落とされたりんごの話、日中に響き渡る雀脅かしに対する憎しみ、河原に熊が降りてきて人を傷つけ、そして銃殺された話など、聞き手にとってネガティブなものでしかない話題が止まらない。

 その点において、閑散とした空間は優れている。もしこの空間に人がいたのなら、従来の種なしブドウの酸っぱさが改良された品種が造られたことや、市民公園で開催された菊まつりに展示された花の匂い、山ですれ違ったカモシカと目が合った気がする、などの、聞き手の想像力を喚起させるポジティブな会話が繰り広げられているのだと、勝手に妄想することができる。

 どうやら僕は思っていたよりもメルヘンな性格らしい。まあ、犬が言語を解すると考えている時点で相当に重度の疾患に近い何かなのだろう。

 ギイギイと音を起てる自動ドアを抜け、閉鎖病棟の窓を開け、サッシを乗り越える。

 そういえば、いつも当然のように土足で踏み入れていた。僕自身の靴の汚れについては気にしていなかったが、そんなことをしていて修の足を洗ってから室内に入れている意味はあるのだろうか。

 今度ここに来るときは床を磨くモップの持参が必要だと思った。というか、そもそも修の足を洗うことこそ不要なのか。

 僕がそんなことを考えているなんて、修は想像もしていないだろう。

 彼はじっとでもなく、ボーっとでもなく、たぶん穏やかな目で僕を見ていた。

「やあ、また来たよ」

『不快』

 声をかけると、彼は一つ吠えた。翻訳機も反応を示した。

 何が不快というのか。時間つぶしに来るな、ということだろうか? 穏やかな目というのは勘違いだったかもしれない。

 確かにすることが無かったという理由もあった。だが、彼には訊いておきたいことがあったのだ。

「ま、そんなつれないこと言うなって。で、今日はなんだってそんなに働き者なんだい?」

 当然のことだが修は『言って』はいない。彼の行為を客観的に観測すると、彼は吠えているのだ。犬に訊きたいことがあるのだと疑問をぶつけて、それに対する返答があると信じている。ひどく間抜けな飼い主の孫だと、少し自省する。

 それでも、僕と修は通じている……はずだ。

『……』

 彼から返答はなかった。

 やはりなにも通じていないのかもしれない。

 彼が返答しやすいように、言葉を重ねる。

「散歩の途中で賢治さんに反応したのは分かるよ。本日のクランケ一例目だしね。でも、君が一日の間に二例も噛み付くなんて初めてじゃないか?」

『……』

「そうだっけ? というところかい? 少なくとも、僕の部屋から見ている限りはそうなんだよ。大体、君はそんなに病院から出歩かないしね。あ、夜行性なのだとしたら、話は変わるのだけど、夜は病院が開いていないからね、それは考えにくいし」

『不快』

「ああ……外に出ないとか、そういうことをオマエに言われたくないって? 確かにそれはそうなんだけどさ……」

 同世代と比較した場合に、僕が家の外に出る頻度は少ないかもしれない。だが、けして、毎日のように家に居るわけではない。

 家に居る理由の言い訳を考えていると、きちんと閉めたはずの窓から風が吹き込んだ。

 風の原因は何だろうと、窓を見ると、その先には光がいた。

 検査をすべて終えるには早すぎる時間だった。

 その理由を考えていると、光が口を開いた。

「来ちゃった」

 なんだか、細々したことを吹き飛ばしてしまいそうな、くだらないドラマのようなセリフだ。

「そういうセリフはいらないから」

「――ハーイ、修君。元気してた?」

 彼女は僕の言葉を完全に無視し、サッシを軽々と乗り越えて、室内に入ってくる。その動作を見る限り、どうやら運動神経は鈍くないらしい。

「って、僕を無視するなよ」

 なおも無視は続く。

 手を振って、光は修に近づいていく。

『不快』

「修も嫌だってさ――」

 修は足を素早く運び、彼女の腕をかいくぐった。そして、慎重に彼女に近づいて、左手にはめられたリストバンドの匂いを嗅いだ。

 修がもう一度吠える。

『不快』

 どうやら、彼が『不快』なことは、触られることではなく、リストバンドの先にある何かのようだった。

 僕の見立てでは、それは修だけに判る何か。

「やめてよ……」

 光は言葉を放ち、腕を振った。

 その表現から受ける強さとは裏腹に、修を遠ざけようとする力は弱いように感じられた。それが彼女の優しさなのか、弱さなのか、付き合いの短い僕には分からなかった。そんな僕でも彼女の症状については予想が出来た。

 修を高架下に連れていってしまった僕にはそれを見届ける義務があると感じていた。それは思い上がりかも知れないが、それでも責任の一端は僕にもあるはずだ。

「なあ、光、担当の医師と何を話たんだ?」

 検査の全工程が完了するには時間が早すぎる。つまり、事前に行われる問診によって、光を蝕む何かしらの原因が見つかったと考えられる。

「教えない」

 光は僕から目を背けた。

「修はクールを決め込んでいるようだけど、コイツ、実はしつこいぜ」

 再度、目を合わせることなく言った。

「そう。でも、アタシのコレは病気じゃないよ」

 光は左手を指し示して言った。

 彼女は少し誤解しているようだった。

「漠然とした表現になるけれど、たぶん修は死の匂いに敏感なんだ。つまり、その対象は疾患限定とは限らない」


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